前回の更新からそこそこ間があいたので、本日はお題を定めず、つれづれなるままに、思いついたことを記していきましょう。
ひとつめは、昨年末に何度か書名をあげた斎藤真理子さん『韓国文学の中心にあるもの』(イーストプレス)の増補新版について。
初版が2022(令和4)年の7月で、この増補新版が今年の1月。3年足らずのスパンで新版が出るのは異例だから、てっきりぼくは、昨年10月のノーベル文学賞をうけて、ハン・ガンさんのために新章を書き下ろしたのだろうと思っていたが、届いた書籍を読むと、そういうことではなかった。
「初版刊行から2年のあいだに出版された作品の中から注目すべきものを選ぶとともに、初版のときに紙幅の関係などで見送った作品を取り上げた。」とのことで、とくにハン・ガンさんについての文章が付け加えられたわけではない。
「その作業を進めていた2024年10月に、ハン・ガンがアジア人女性として初のノーベル文学賞を受賞した。本書を読めば、ハン・ガンが決して孤立した天才ではなく、韓国文学の豊かな鉱床から生まれた結晶の一つであることがわかっていただけると思う。」
と、「まえがき」にある。
なるほどたしかに、10月に受賞の報を受けて、そこから準備したのでは、今年1月の上梓に間に合わない。これはぼくの早とちりだった。
まえがきにもあるとおり、「第7章 朝鮮戦争は韓国文学の背骨である」の章に多くが追補されている。
『増補新版 韓国文学の中心にあるもの』は、いまの韓国文学へのおそらく最良のガイドブックであると同時に、最良のブックガイドでもある。
ただぼく個人としては、『ギリシャ語の時間』をはじめとするハン・ガン作品から多大な感銘を受けたものの、そこから進んで、他の韓国の作家の作品を読み漁る……ということはなく、とりあえず今は邦訳されたハン・ガン作品を読み返しながら、この一冊を熟読玩味して、いろいろと考えている。
この新版では、帯に、旧版のときのお二方に加えて、國分巧一郎さんが跋文を寄せておられる。
「現代から朝鮮戦争の時代にまで遡っていく叙述に強い説得力を感じる。韓国では文学が、社会および人々の生活とこんなにもがっちり組み合っているのかと感動した。」
たしかにそのとおりで、いささか荒っぽい言い方をすれば、韓国文学と照らし合わせると、日本の、とりわけバブル以降の現代小説は、ずいぶんと太平楽なものに思えてしまう。
落語の「妾馬(八五郎出世)」で、職人の八五郎が、お殿様に向かって「……苦労が足りねぇんだなァ……」としみじみ漏らすくだりがあるが(三笑亭可楽バージョン)、あたかもそんな感じだ。
苦労が足りない。
もとより日本でも、いろいろなかたちで国力の衰えがあらわになって、庶民に皺寄せがきているけれど、韓国が経験してきた/経験しつつある辛酸というものは、たぶんその比ではない。その中から搾りだすようにして綴られたことばが、国境を越えた普遍性をもつのもふしぎではない。
それにしても、現職の大統領をめぐるあの国の凄絶な権力闘争をみていると、省みて、わがニッポンの政治システムは、
「韓国よりも、むしろ北朝鮮に似ているな……。」
と、思う。いくぶん飛躍した物言いではあるが、皮肉のつもりでもなんでもない。偽らざる実感だ。なにしろ日本には「野党」がいない。政・官・財・マスコミまでが、ほぼオール与党だ。
ただ、だからといって「韓国には真の民主主義が根付いている。」といって手放しで称賛することもできない。日本のオール与党体制は、むろん弊害も甚だしいが、裏返せば、安定性のあらわれともいえる。ひとりの国民として、どちらの社会で生きることが幸せなのか、軽々しくは答えを出せない。
いずれにしても、韓国を合わせ鏡とすることが、ニッポンという国とその社会について考えを深めるための最良の方法のひとつであるのは確かだ。
とりあえずここまで。02はのちほどアップいたします。