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ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

25.02.11 尻切れトンボ

2025-02-11 | 小説を読む/書く。

 ブログを始めて早や20年に垂(なんな)んとするのだけれど、
「書きたいときに書きたいことを書く。」
 という一点だけを信条としているために、更新はいたって気まぐれで、甚だしいときは2ヶ月くらいあいだが空く。
 それはまだいいとして、「この件はシリーズ化しよう。」と思いたち、意気込んでカテゴリを設けたまではいいけれど、そのご諸般の事情で中断して、けっきょくは頓挫してしまった企画がやたらと多いのは、われながら情けない。
 いつまで経っても小説が仕上がらない理由の一端が、こんなところにも伺える……。
 そもそも2014(平成26)年にOCNブログの閉鎖に伴ってこちらに越してきたさい、「当ブログの柱にしよう。」と思って設けた「戦後短篇小説再発見を読む」というカテゴリが、田中康夫「昔みたい」までで中座している。いっこうに宮本輝の「暑い道」に進めない。
 近いところでは、2022(令和4年)、その年の目玉のつもりで設けた「あらためて文学と向き合う」というカテゴリも、まるっきり進んでいない。まずはトルストイの『戦争と平和』を論じるのだと言って、第1回では「叙事詩とは何ぞや」という話を延々とやり、まるっきり、ピエールもアンドレイも出てこない。
「タイトル詐欺」
 とはこういうものではないか……と、自分で読み返して思ったりする。
 考えてみると、この企画は尻切れトンボどころか、始まってもいない。
 「いまの視点からじっくりと読み返したい世界文学の名作10本」のリストをこしらえただけで、どの作品も、本編の内容にかんしていっさい触れてもいないのだ。
 これはしかし、企画そのものが無謀だったと思われる。いずれ劣らぬ文学史上の大作家の手になる大長編であって、どれ一作を取っても、えらい学者が生涯をかけて取り組むに値する作品ばかりだ。
 一読者として読んでいるぶんにはめっぽう愉しく、勉強にもなるのだけれど、いざこれらを咀嚼して自分のことばで誰かに魅力を伝えるとなると……。
 時間のうえでも能力のうえでも、あきらかに手に余る企画だった。
 ただ、ブログのかたちで結実させることはできなかったけれど、自分としては、これらの作品から得られたものは大きい。それがなければ、昨年になって、10数年ぶりに小説を書きたくなったりしなかったろう。
「やはり小説は、読むよりも書くほうが面白い。」ということに、あらためて気づかせてもらった……ともいえる。もちろんただの言い訳ですが。
 ともあれ、この試みはいかにも大それていたので、反省し、手近なところで、「とりあえず自分が読んで面白いと思った小説」を100本、ジャンル別に書き出していこう……という企画もやった。
 「物語(ロマン)の愉楽」のカテゴリに入っている「「これは面白い。」と思った小説100and more」がそれだ。
 タイトルを並べてひとことずつコメントを添えていくだけだから、何ということもないと思っていたのに、
 「パート2 その⑤」の「「戦争にかかわる作品」02 日記・記録」
 までで途絶している。総数も、ぜんぶで29(+1)作しかリストアップしていない。
 これについては理由がはっきりしていて、「小説」のリストと銘打っておきながら、戦史ということで、ノンフィクションや日記までをも取り上げたのがまずかった。それで調子がおかしくなった。
 どうも昔から、戦争(太平洋戦争)の話になると平静を欠いてしまう。
 ぼくの父方の祖父は大陸(中国)の戦線に2度にわたって召集され、その留守中に空襲で実家が全焼して、幼かったぼくの父を含め、家族はたいへんな苦労をした。
 だから「建国記念の日」(かつての「紀元節」)といわれても、どうしても、
「うーん……。」
 と唸ってしまうのだが、こういう感覚は、平成生まれにはなかなか通じぬだろうなあ……。
 そんな次第で戦争の話になると平静を欠いてしまうのだけれど、しかしこの「「これは面白い。」と思った小説100and more」だけは、いまいちど整理しなおして、完結させたいと思っている。昨年たくさんエンタメを読んで、ぼくの知見も更新されているのだ。
 再開できたら、先の大戦にかかわる作品も、小説だけに限定しよう。
 振り返れば、当初の思惑どおり最初から最後までやりきったシリーズは、「宇宙(そら)よりも遠い場所」の作品論だけだ。これは文学ブログとしてどうなんだろうか。まあ自分ではアニメ論ではなく、「物語論」の一環としてやったつもりだけれども……。
 なお、「尻切れとんぼ」とは、昆虫の蜻蛉のことではなく、かかとの部分が擦り減ってなくなってしまった草履のことらしい。そうなるくらいに履き古したということか。形状としては、いまでいうダイエットスリッパみたいなものだ。その鼻緒の部分をトンボの翅に見立てたとのことで、いわれてみれば似てるかな。

 

 

 


小説を書く。その2

2024-09-13 | 小説を読む/書く。
 この3月あたりから小説を書いているのだけれど、「世の中にこんな面白いことがあるのか」といった塩梅で、ほかのことをやる時間がない……そもそも、ほかのことをやる気にもならない。だからブログも更新できない……。
 ということを、今年の4月にここに記した。「小説を書く。」というサブタイトルの記事だ。それで、そろそろ半年が経って、だいたい半分くらいまで、できた。
 400字詰め原稿用紙に換算すると、200枚を少し超えたくらいだろう。かなり遅い。しかし、草稿や反古、細かい書き直しなども含めれば、その6~7倍は書いていると思う。
 だからぼくのばあい、パソコン(のワープロ機能)がなければ、文章を完成させることができない。これは小説のみならずブログも然り。
 思えば、はるか昔、高校時代には、なにかしら毎日、ノートに文章を書いていた。ごく簡単な日記とか、本やらドラマの感想とか、折々の心境とか、印象に残ったことばとか……。とにかく何でも一冊のノートに書きつけた。文字どおりの雑記帳だ。それが、高校の3年間で5冊分くらいにはなったろうか。
 そのなかには、小説の断片めいたものもあったと思う。映画でいえば、ワンシーンではなくワンショットくらいの、ごく短いスケッチだった。そういうものをいくつか書きとめたはずだ。
 はじめて小説を書きあげたのは18の時だ。当時はコンビニがまだなくて、近所のスーパーでコクヨの400字詰原稿用紙の50枚セットを買ってきた。冊子になっているものではなく、バラで透明な袋に入ったやつだ。そこに、HBの芯のシャーペンで書いた。きっかり50枚の短編ができた。
 それから今日までの、けして短いとはいえない歳月のなかで、特筆すべきエピソードといえば、20代のおわりに文芸誌の新人賞に応募して、二次選考まで残ったことくらいか。
 この時は両親もとても喜んでくれたが、このあいだ実家に帰って話したとき、その話を出したら「そんなことあったかな」と二人とも首をひねっていた。まあ、ぼく自身ふだんはすっかり忘れていて、こんな時でもなければ思い出すこともないので、べつに薄情とはいえない。
 その雑誌は、いわゆる「4大純文芸誌」のひとつで、かつて70年代には村上龍と村上春樹を輩出した。10代後半から20代までのぼくはこの2人に傾倒していたから、「新人賞に応募するならこの雑誌」と決めていた。
 二次選考まで残ったときは、「よし。これでコツは掴めた」と思い、勢い込んで翌年にまた投稿したら、これがまったくの門前払いで、たしかそのあと2回くらいは送ったと思うが、やはり相手にされなかった。
 仮に「二次選考まで残る」というのをヒット(単打)、「最終選考に残る」を長打、「新人賞をとる」を本塁打にたとえるならば、ぼくのケースは、
「まぐれ当たりでボテボテのゴロが転がって、運よく野手の間を抜けた……」
 といったていどのことだったのだろう。それでなにか勘違いしてしまい、言葉だけが上滑りしている、すかすかの作品をせっせと投稿していたのだから、その結果も当然だった……と今は思う。
 それからネット社会になって、「ケータイ小説」なるものが出てきたり、「なろう系」というワードを見かけるようになったり(ぼくはいまだに「なろう系」というのが何だかはっきり知らないのだが)、又吉直樹さんが芥川賞(直木賞ではなく)をとったりして、ぼく自身、「小説」というものがよくわからなくなってきた。
 より精確には「今の社会のなかで小説が果たすべき役割がよくわからなくなってきた」というべきか……。ここでの「小説」とは、もっぱら「純文学」のことで、だったら「今の社会のなかで文学が……」といったほうがいいのだろうか。
 いずれにしても、中上健次が亡くなったり、大江健三郎の作品が大衆レベルではほとんど読まれなくなったり(ノーベル賞をとってさえも)……という状況のもとで、「社会」にたいする「文学」の影響力が、どんどん弱まりつつあったのは間違いない。
 それらは90年代に起こったことで、だからネットが普及する前なのだが、ネット社会の到来で、その流れはいよいよ加速された。
 何年か続けて門前払いをくったあと、ぼくは新人賞に応募しなくなり、小説を書くことにも熱が入らなくなっていくのだが、それはむろん、たんに自分の才能が乏しいってだけのことではあるにせよ、上述のような「状況の変化」と無縁でもない。
 「新人賞をとる」ということは、「当面の目標」として、ある。それはけして小さなことではない。ただ、その先に……というか、そのずっと上のほうに、
「小説を書くこと、すなわち文学にかかわることによって、社会をより活性化させ、すこしでも善き方向へ導く……」
 という、こうして実際に記すといかにも大げさで、いくぶん自己啓発セミナーっぽい匂いすら感じる言いかたになってしまうのだが、それでもやっぱり、ことばにするならこう書くほかないような、「大きな目標」ってものがある。
 そんな「大きな目標」が、時代の推移でどんどん見えなくなっていく。いまもその勢いは増すばかりだ。「小説というものがよくわからなくなってきた。」と上で述べたのはそういうことだ。
 新人賞もとれず、「大きな目標」も見えず、ということで、ぼくはずいぶんと長いあいだ、創作から離れていたのだが、ただこのブログだけは続けていた。あまり更新はしないけども、いちおう。
 創作はしなかったにせよ、とりあえず、文学には惹かれつづけていた……ということだ(アクセスがくるのはアニメの記事ばかりだが、これは文学ブログです)。
 ブログを続けていたことは、何よりも、自分にとって「よかった」と思う。文章を書くのは、とても大事だ。やはり映像や音楽を享受しているだけではだめで、自分の「言葉」を使いつづけなければいけない。
 ことばを使いつづけているかぎり、読書欲も衰えない。
 そのなかでケン・フォレットの『大聖堂』と出会い(児玉清さんのエッセイがきっかけだった)、トルストイやディケンズやバルザックなどの「19世紀小説」の衣鉢が今日の「エンタメ小説」に受け継がれていることを改めて知って、がらりと新しい地平が開けた気がした。
 それから、皆川博子のここ20年くらいの作品たち。ヨーロッパあたりを舞台に据えた一連の歴史小説。
 とりわけ、『海賊女王』と『聖餐城』。これはほんとに凄かった。
 なんのことはない、小説とは、何よりまず、「面白い」ものなのだ。「社会の中でどのような役割を果たすか」なんて関係ない。いや関係ないことはないのだろうが、それはあくまで二次的なことだ。
 「読んで面白い。」それでいい。
 真に面白い小説は何度でも読める。1度目は夢中になってはらはらしながら寝食を忘れて読み耽る。2回目は「ああ。これがあれの伏線だったのか」と発見を楽しみながら読む。3度めは構造を分析しながら読む。4度めは……。
 と、こちらの関心の度合いに応じて、いくらでも深く入り込んでいける。
 そういう小説を、じぶんでも書きたい。
 と思って、書き始めた。冒頭で述べたとおり、それがだいたい半分くらいまでできた。
 ジャンルなどはわからない。純文学ではないのは確かだが、かといって、ミステリーでもない。ビジネス小説ともいえない。
 リアリズムの基準でいえば、ひどく誇張された性格の「類型的」なキャラたちが、激しく感情を剥き出しにしてぶつかり合っている。だからストーリーも波乱に富む。このブログでも何度なくとりあげた「メロドラマ」である。SF調のギミックも出てくる。
 だからライトノベルなのかもしれない。しかし冒頭部分を読んでくれた知人は「ラノベにしては語彙が多いし言い回しとか表現が難しすぎる」といっていた。ぼくは『君の名は。』関連本と「涼宮ハルヒ」の1作目以外にライトノベルを読んだことがないのでよくわからない。だがもちろん、そう言われたからといって書き方をかえるつもりはないので、自分が読んで「面白い」と思えるよう、ただそれだけを目指して書いている。
 だから自分にとっては、とにかくこれが、古今東西、ほかのどんな小説よりも(さらにいうなら、マンガやアニメやドラマや映画なんかを含めたどんなコンテンツよりも)面白い。小説を書くこと自体も面白いし、ゆっくりと、ゆっくりと全容をあらわしつつある作品そのものも面白い(小説とは「作る」ものではなく「恐竜の化石を掘り出す」ようなものだとスティーブン・キングがいっていた。詳しくは前回の記事を参照してください)。
 先が気になって仕方がない。キャラたちがこれから先どう絡み合い、どんなセリフを口にして、どんな関係性を取り結ぶのか、ぜひ読んでみたい。
 18のころから断続的に小説を書いてきて、こんな気持ちになったのはこれが初めてだ。あるいはぼくは、今になってようやく、「小説を書く」ということの意味が……もっと言うなら「小説」というメディアのもつ力が、ようやくわかってきた……のかもしれない。




24.08.01 読んで読んで読みまくれ。

2024-08-01 | 小説を読む/書く。
 これまで「小説の書き方」みたいな本もけっこう読んだが、いちばん実践的だと思えたのはディーン・R・クーンツ著、大出健(訳)の『ベストセラー小説の書き方』(朝日文庫)だった。出版は1996(平成8)年で、さっき調べたら、いまも新刊で入手可能らしい。
 巻末に「わたしのすすめる作家別読書ガイド」なるリストがある。英語圏の名だたる現代エンタメ作家のリストだが、原著が書かれたのは1980年なので、正直いって顔ぶれは古い。トム・クランシーもジョン・グリシャムもネルソン・デミルもトマス・ハリスもいない。
 そんなぐあいに古びているところはあるにせよ、「ストーリーラインの組み立て」「アクションの入れ方」「キャラ設定」「動機づけ」「背景設定」「文体」などのテクニックにかんしては、これは基本に属することだから、じゅうぶん有益なのである。
 とはいえ、この本の要諦をひとことで述べるなら、「読んで読んで読みまくり、書いて書いて書きまくれ。」に尽きる。クーンツ氏本人もじっさいにそう書いておられるし、ぼくが読み終えたあとに抱いた感想も「うん。それしかないな。」であった。
 早い話、いま巷でよく聞く「語彙力」はもとより(「語彙力」という造語は日本語として明らかに変なのだが)、「表現力」や「構成力」、その他もろもろ、文章を書くうえで必要なことは、
「読んで読んで読みまくり、書いて書いて書きまくる。」
 ことによって自ずと培われるし、また、そうやって培う以外に方法はない。
 言い換えれば、インプットとアウトプットということになる。これを相互にどんどん繰り返すことで、速度も上がるし、質も上がる。
 シンプルな話だ。
 とはいえ、現代人は忙しすぎる。業務上の資料を読んだり、文書を作成することはあっても、それ以外で、幅広いジャンルにわたる書籍を渉猟するのはたいへんだ。どうしたってリソース(時間や労力や金銭的な出費など)が足らない。
 まして、X(旧ツイッター)やブログていどの短文ならともかく、まとまった論考をものするとなると、困難さはいや増す。
 小説というのも、いまの文脈でいえば、「まとまった論考」に属するであろう。星新一さんみたいなショートショートもいいけれど、やはり小説の醍醐味は長編にこそある。よっぽど精魂込めて書きたいテーマとか題材があるならばともかく、仕事のかたわら長編小説をこつこつ書き上げるのは至難の業だ。
 しかしそれでもクーンツ氏は、
「余暇というのは作るものだ。多忙なようでも、生活の中には無駄に費やしている時間が必ずある。それをできるだけ生かして読んで読んで読みまくり、書いて書いて書きまくれ。」
 という趣旨のことを書いている。
 また、
「人生経験はいうまでもなく必要だが、経験ばかりいくら積んでも作家にはなれない。単調なバイトで心身をすり減らすくらいなら、当面の経済的困窮を甘受してでも、とにかく読んで読んで読みまくり、書いて書いて書きまくれ。」
 という趣旨のことも書いている。これなどは、むかし読んだとき感銘をうけたところである。たしかに、苦労をすれば良い作品が書けるというものではない。
 クーンツ氏のいう「ベストセラー小説」とは「とにかく読んで面白く、現代人の求めに応える小説」のことだ。そういう条件を満たしていれば、ベストセラーまでいくかどうかはともかく、「売れる」ことは間違いないというわけである。
 「売れる」というのが「出版社に買ってもらって、商品として流通する」という意味なら、それはそうだろう。ただ、「めちゃめちゃ売れる」となると、当然ながらこれはまた別の話だ。
 ぼくなんかこの齢になってようやくエンタメ小説に目覚めたクチだが、ブックオフの百均の棚に並んでる海外のちょっと昔(90年代から00年代初頭くらい)のミステリーやスパイものなどを読むと、
「いや、どれもこれもずいぶん面白いではないか。中身もこってり詰まっているし……。」
 と、舌を巻いてしまう。
 どれも面白いし、いちおう「現代人の求めに応え」ているとも思うのだが、みんながみんな、クランシーやグリシャム、ジェフリー・ディーヴァーほどの読者をもっているわけではない。
 「商品として流通しうるレベルに達している」作品と、「めちゃめちゃ売れる」作品とのあいだには、明らかに懸隔がある。その懸隔をもたらすものが何であるかは、ていねいに考察すれば言語化もできると思うが、自分で小説を書こうという人なら、
「読んで読んで読みまくり、書いて書いて書きまくる。」
 ことによって、おのずから体得したほうがよさそうだ。
 いやもちろん、その前に、「商品として流通しうるレベル」の作品を、とりあえず一本仕上げることが、なによりも先決なのだけども。
 ところで、この『ベストセラー小説の書き方』と並んでよく読まれている入門書として、スティーブン・キング『書くことについて』(小学館文庫)がある。これも面白いのだが、キング特有の偏執的な書きぶりのせいで、有益さにおいてはクーンツ氏のものに劣ると思う。
 この本の中でキング氏は、長編小説を書くことを、化石の発掘になぞらえている。「巨大な恐竜の骨格を丸ごと掘り起こすような作業」と言っているのである。
 「大きな建物をたてる」というのではなく、「巨大な化石を掘り起こす」ことに準えているところが、とても興味ぶかい。
 このことは、クーンツ氏の本でいえば、
「君が読みまくった小説のなかの語彙や表現、プロットやストーリー展開、キャラの言動、人物の出し入れ、各シーンの描写の仕方、アクションの描き方、細部と全体との関連性、伏線の張り方、書き出しとエンディング……などなどのテクニックは、知らず知らずのうちに君の無意識に蓄えられて、君が創作をするさいのバックボーンになっている。」
 という趣旨の主張と重なっているように思う。
 なお、さっきから「クーンツ氏のいう趣旨」として書いている部分は、正確な引用ではなくて、ぼくが自分なりに編集・加工したものである。『ベストセラー小説の書き方』のなかに、そっくりそのまま同じ文章があるわけではないので、ご注意のほど。
 ともあれ、
「これまで読んできた小説のなかの語彙や表現、プロットやストーリー展開、キャラの言動、人物の出し入れ、各シーンの描写の仕方、アクションの描き方、細部と全体との関連性、伏線の張り方、書き出しとエンディング……などなどのテクニックは、知らず知らずのうちに意識の底に蓄えられて、創作をするさいのバックボーンになっている。」
 ということは、自分でエンタメ小説を書いてみると、身にしみて実感される。
 もっとも、ぼくなどは、そういった事柄は小説よりもマンガやアニメから学ぶことのほうがずっと多かった。されど、自分でマンガを描いたり、アニメを作ったりするのではなく、小説という表現手段をとる以上、結局のところ頼りになるのは小説ってことになるわけである。




小説を書く。

2024-04-07 | 小説を読む/書く。
 しばらく更新を怠っていると、ブログをやっていること自体を忘れてしまう。
 「ダウンワード・パラダイス」の看板を掲げて、かれこれ18年くらいになるのだけれど、そんな調子で、十本くらいしか記事を上げなかった年も、何度かあったと思う。
 このたびも、ふと気づけば前回の記事から2ヶ月ちかくが過ぎており、年度が替わって、あたたかくなり、桜も満開である。
 いちおう「ブログ用ネタ帳」なるものをつくってはいるのだが、いま確かめたところ、そこにちょこちょこと書き込んでいたのも、3月の半ばくらいまでだった。
 ぱらぱら繰ってみると、
① 〝杉本苑子『散華』〟 というメモがある。
 これは杉本さんが1986年から1990年にかけて雑誌に連載していた長編で、副題は「紫式部の生涯」。いまは中公文庫から上下巻で出ている。
 うちにあるのは単行本のほうで、ずいぶん前に、古書店で安く手に入れたものだ。
 冒頭部分を読んだだけで、「まあ、また今度でいいか。」と放り出し、そのまま書棚の奥に押し込んであったものを、引っ張り出してきちんと読んだ。おもしろかった。
 読む気になったのは、もちろん、大河ドラマ『光る君へ』のおかげである。
 ドラマはオリジナル脚本なので、この小説は原作でもなんでもない。だから、どちらも紫式部の生涯を描いているとはいえ、いろいろ異同がある。
 そのあまたの相違が、「小説」と「ドラマ」というふたつのジャンルの違いをあらわしていて興味ぶかい……と感じたので、そのことをブログに書こうと思って、ネタ帳に書きとめたのだった。
 覚え書きとして、アイデアや、文章の断片をいろいろと書き込んでいるが、記事に結実するには至らなかった。
 ほか、
② 〝ニーチェの個人訳〟 というメモもある。
 ニーチェの邦訳はすでに明治から試みられてきたのだが、今に至るまで、個人による全訳はない。
 全集の翻訳としては、ちくま学芸文庫版がもっともポピュラーであろう。ただしこれは、元となった版が70年代のもので、その後のニーチェ研究を鑑みたとき、編集の方針などに、いささか問題なしとしない。
 また、訳業にかかわった方々が、文学ではなく哲学畑の学者がほとんどのため、訳文がいかにも固い。
 このあとに出たニーチェの訳では、ぼくのみるところ、河出文庫から出ている『喜ばしき知恵』『偶像の黄昏』の村井則夫のものが秀逸である。清新で、明快で、よみやすい。
 ただ残念なことに、村井さんによる訳はこの2作だけで、ほかにはない。文庫化されてないというのでなく、訳業そのものがない。
 できればこの方の訳でニーチェの主要作をぜんぶ読みたかったな……と考えるうちに、いや……可能性だけをいうならば、じぶん自身が、そのような仕事に取り組んでいた人生もあったのではないか……と思い至って、なにやら感慨深くなった。
 いまはすっかり単語も文法も放念してしまったが、いちおう昔は独文の学生だったのである。卒論のテーマもニーチェだった。
 しかしあのころは、ニーチェの著作そのものを愛するというより、
「20世紀の思想にニーチェがどんな影響を及ぼしたか」
 に関心があった。
 担当の教授に、
「君のニーチェは、外側からやねえ」
 と言われたことが、いまも記憶に残っている。
 だからニーチェの文章にしても、訳文と原文とを照らし合わせて、おおまかな意味が取れればそれでよい……と思っていた。「この人のドイツ語を自分の手で日本語に移し替えたい」といった情熱は、まるで湧いてこなかったのだ。
 ひとつには、「翻訳なんて、定番のものさえ一つあったら、少しばかり難があっても、それを読み継いでいけばいいだろう」と思っていた。
 だがこれは誤りで、ニーチェよりさらに数百年古いシェークスピアでも、いや、たとえギリシア悲劇であっても、「それぞれの時代にふさわしい現代訳」というものがありうる。それが古典というものだ。
 そのことが、最近になってようやく身に染みてきた。
 それならば、いま気鋭の独文学者なり哲学者が、個人による日本語の全訳に挑戦することは、けして意味のないことではなかろう。
 なにしろニーチェは、おそらく現代思想にいちばん大きな影響を与えた著述家なのだ。文章そのものも魅力的だし。
 プロの学者が、さまざまな事情でそれをできないのであれば、アマチュアがやってもいいではないか。
 いや、いっそもう自分がやったらどうだ。
 しかし、落ち着いて考えるまでもなく、いまからドイツ語をやり直し、ニーチェのほぼ全作を日本語に訳すことなど、できるはずがない。不可能事である。残り時間がない。
 そういったことを考えるにつけ、自らの来し方を顧み、また行く末に思いをはせて、なにやら感慨に耽ってしまった……というようなことを書こうと思いつつ、結局は記事にできなかった。
 ……と書こうとしたのだが、なんのことはない、これについては今あらかた書けてしまったではないか。
 ブログのネタ帳の話にもどる。
 ほかにもいくつか項目が書きつけてあって、最後が〝鬼平犯科帳〟である。
 文春文庫版の1巻から6巻までが紐でくくって古本屋のワゴンに積んであったのを、500円で買ってきた。古い版である。むかしの文春文庫は紙質がわるかったので、1巻あたりは煮しめたようになっている。
 鬼平にかぎらず、池波正太郎さんのものをきちんと読むのは、これが初めてのことだ。
 中村吉右衛門主演でながく続いたテレビドラマの効果もあり、鬼平の人気はことのほか高い。最近になってまた新しく映画化もされた。
 ほとんど本を読まないうちの父親でさえ、「鬼平」だけは24巻ぜんぶ揃えて持っていた。
 藤沢周平の名作『蝉しぐれ』ですら、「ようわからん」と言って読まず、本といったら図書館の除籍本をもらってくるだけで、断じて自腹を切ってあがなうことのなかった父親が、「鬼平」だけは自分で買って手元に置いていたのである。
 おそるべし池波正太郎。おそるべし鬼平犯科帳。
 その大衆性は端倪すべからざるものだ。
 いったい秘訣は那辺にあるのだろうか。知りたい。
 そう思いつつ、これまではなかなか手を出せなかったのだが、好機逸すべからず、ここにきて、ともかく6巻まで読めた。
 時代劇版ミステリーたる捕り物帳に付きもののはずの「快刀乱麻を断つ謎解き」もなく、「あっと驚くどんでん返し」もなく、密偵をふくめた組織力に頼った地道な捜査ばかりがつづき、しかも事件解決のきっかけが往々にして「うますぎる偶然」や「都合の良すぎる展開」であるということで、正直、読後はちょっと戸惑った。
 しかし思えば、外連味(けれんみ)がなく、ご都合主義をおそれぬからこそ、幅広く読まれるのだろうし、くりかえし再読に耐えるのであろう。
 なんといっても、長谷川平蔵はやはりたしかに魅力的である。
 そしてもっとも特筆すべきは、その文章の読みやすさだ。
 これについてはいちいち説明するよりも、今回のこの記事にて自分なりの文体模倣(パスティーシュ)を試みているので、ご覧のとおりである。
 この文体はものすごく具合がいい。ぼくにとってありがたいことには、試しにこの文体で小説を書いてみたところ、自分でも面食らうほど、すらすらと筆がすすむのである(これは慣用句であって、じっさいにはキーを叩いている)。
 ここ何年も、冒頭ふきんの10数枚分を書いては没にし、また一から書き直しては没にし……、ということを繰り返してきた小説が、おもしろいように捗る。
 ぼくにとっての最大の快楽は、小説を書くことであり、これに比すれば、余のことはなべて味が薄い。
 小説の筆がはかどるとは、すなわち、キャラがうごいているということだ。
 キャラがうごいているときには、むしろこちらの筆がキャラを追いかけていく……という按配となり、こうなると文字どおり寝食を忘れる。
 あまり眠くもならないし、空腹も覚えないのである。
 日々の生活のために必要な雑事を除いて、閑暇はすべて小説についやす……さすがに桜は、この季節だけのことなので、花見くらいは行くけれど、ほかのことは何もできない。
 さきの金曜ロードショーで、『すずめの戸締まり』をやっていたようだが、おととしから昨年の初頭にかけて、つごう4回劇場まで足を運び、ブログでも再三とりあげたこの作品さえ、まったく観る気がしなかった。
(そもそも、地震の対応そっちのけで宴会のはしごをしている政権の下で、ファンタジーを見る気分にはなれなかったこともあるが。)
 ともあれ、そういう次第なので、しばらくまた、更新はできないと思います。あしからずご了承のほど……。