とりあえず一所懸命

鉄道の旅や季節の花、古い街並みなどを紹介するブログに変更しました。今までの映画や障害児教育にも触れられたらと思います。

クラスで流行っているどんつく

2006-06-29 21:58:12 | 障害児教育

 「どーんつく!どんつーく!どんどんつっく!どんつーく!」歌声が教室に響きます。最近の子どもたちのお気に入りの歌です。手振りを交えて歌います。

 先週から始めた劇遊び「どんつく」の主題歌なのです。もちろんDylanのオリジナルソングです。歌をモチーフにしながら子どもたちと一緒に楽しめたらと思い、最初から劇遊びとして作りました。

 どういう話かというと、『どんつく』という架空の登場人物を作り上げて、子どもたちと対決していくという話です。どんつくに負けると大事な物を取られてしまうということで毎回子どもたちは必死になります。

 でも、「この話に出てくる登場人物、地名はすべて架空のものです。現実のものとは違います」という注意書きをしなくても、子どもたちはちゃんとフィクションだと知っていて、それでもちゃんと楽しめています。そこらへんが、このグループの良いところです。道化回し(この場合どんつく)に踊らされながら、ちゃんと踊っている自分も見えていて、作り事の劇を演じていくことができるのです。

 先にやっていた『喫茶店ごっこ』は、“ごっこ遊び”ではあるけど、どこかリアルな場面があります。子どもたちの中に、レストランの店員さんだったり、台所に立っているお母さんだったりのイメージがあると思います。このようなリアリティーのあるごっこ遊びと、完全作り物のフィクションのごっこ遊びのどちらも楽しめる子どもたちはなかなかのものです。

 “どんつく”の衣装はちょっと考えました。かぶり物をして、よりリアリティーを出すことも考えましたが、「フィクションでありながら…」の方に指導のねらいを傾けてみました。どんつくは、Dylanが作務衣を着て登場というスタイルにしました。

 「どんつく!どんつっく!どんどんつっく!どんつーく!」と子どもたちの前に大見得を切って登場します。「お前たちの大事なものはなんだー?」の問いにいろんな答が返ってきます。「連絡帳!」でも、ロンくんは連絡帳がありません。レオくんも「連絡帳捨てちゃえー!」毒づきます。「ドリーマー!」(日刊で出してる学級通信)これも連絡帳から抜かなければいけないということで、ちょっと消極的すぎる。「テレビはどうだー?」「いるー!」の返事。テレビに決めました。テレビを持ち去ろうとすると「いやだー!」の声。

 「それでは、このどんつくと勝負するか?」「もし勝ったらテレビは残しておこう!」

 最初は力くらべです。どんつくと向き合って手を合わせて押し合いをします。最初に倒れた方が負けです。力を入れて押してきます。でも、ここでわざと負けることは絶対にしません。良い勝負はしながら、必ず子どもたちを負かすことにします。次につなぐからです。でも、2回目にやった時にわかめちゃんが力を入れて頑張っていたのに驚きました。わかめちゃんはこんな時には力をいれないでわざと負けることが多かったのですが、場面場面を理解して楽しんでくれていたのだと思います。

 次の課題は紙風船です。紙風船はなかなか難しい教材です。ちょっと力を入れるとつぶれてしまうし、スピードが遅いので調整しにくい面もあります。「紙風船が10回つけたら合格だー!」みんな挑戦しますが、子どもたちは2回目もできません。そこで、先生たちに助けてもらうことにしました。香川先生や瀬川先生に助けてもらってやっと課題を達成して、子どもたちはほっとしました。

 次の課題は、棒立てです。指先に棒を立てて、バランスを取って10まで数えたら合格!どんつくは子どもたちの前ですいすいやってみせます。Dylanは小学校・中学校の時掃除をさぼって、いつもほうきの柄を指で立てたり、額に乗せて遊んでいたのでこの手のバランス教具は得意なのです。でも、やっぱり子どもたちはできません。でも、何度も挑戦します。できないとわかるとぎゅっと握るインチキも開発しますが、これは認めてもらえません。先生たちにも援助を求めますが、女性のちょっと年配の先生2人は、5くらいでダメになってしまいます。

 このままではテレビを持って行かなくてはいけないので次の課題です。今度は旋律だけで曲名当てクイズです。これは、ロンくんとわかめちゃんが絶対的な力を発揮して大活躍をしました。子どもたちに負けたどんつくは、「覚えてろー!」と次回に続きます。

 なかなか面白い反応を子どもたちが示すので毎回楽しみしている授業です。


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近場の旅(周防高森・玖珂)

2006-06-28 23:18:34 | 日記
 土曜日の上関の旅に気を良くして、日曜日にもどこかに行こうかな?と思っていました。ところが、日曜日は朝から大変な雨です。それでも、一日中家にいたら腐るし、月曜日からの学校の勤務がとてもつらいものになるので、思い切って出かけることにしました。古い町並みが残っていて、近場ということになると周防高森(周東町)付近かなと思いました。ここには、本陣跡の建物が残っているのを知っていました。旧山陽道を通って被写体を探す旅です。



 雨は時折激しくたたきつけてきたのですが、先日京都に行った時に大きめの傘を買っていたのでカメラも濡らさずに撮ることができました。露出を明るめに撮ると雨粒がはっきり写るので、少しアンダー気味で撮っています。



 上の2枚が本陣跡ということになっています。本陣ということは、参勤交代の時に大名が泊まった宿と言うことになっていますが、それほど大きな建物ではないのでかつてはもって大きな建物だったのかもしれないと思いました。

 車を降りて少しだけ歩くと、気になる路地が目につきます。このような路地が大好きです。必ずカメラを向ける傾向がありますね。
 もう一つ好きなのが瓦屋根です。バランス良く並んでいる甍も好きですが、少しバランスを崩しかけているのもまた好きです。



 草木に覆われた家屋も好きです。人は絶えていないけど、建物だけが古の思いを伝えているそんな風景がやっぱり好きですね。



 高森を後にして、旧山陽道をさらに上って玖珂の町に入りました。この町もあちこちに古い建物を残している町です。下の写真の文房具やさんはどこか、古い町のイメージが伝わりますね。残念ながらこの日は休みで、どんなおばさんやおじさんが出てくるかわかりませんでした。




 




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近場の旅(上関)

2006-06-27 23:08:04 | 日記
 土曜日のことです。予定されていた用事がなくなり、DVDで『あおげば尊し』を見ていたら、だんだん空が明るくなりました。晴れ間さえ見えてきました。「こんなチャンスはない!」と思い、前々からねらっていた上関に向かうことにしました。

 このブログを見ている友人から、「花の写真もいいけど、町角のちょっとした風景を撮っている画像がいいです。もっと載せてください。」と言われてちょっと気を良くして、またチャンスがあったら撮りに行こうと思っていました。

 車を走らせて少し行くと、平生町佐賀というところです。ここで正面にぱっと青空が広がりました。久しぶりに見た青空だったのでうれしくなって1枚パチリ。ついでに眼下の港もパチリ。



 上関大橋を渡り、港の付近に車を止めて、歩いて古い町並みをめざしました。車が通れる道はほんのわずかで後は、人間が2人やっと離合できるほどの道幅です。しかも全部坂道です。


 
 坂道をどんどん上っていきます。本当に狭い道幅です。ここだけ、時代が止まっているような感覚に陥ります。上関は原発誘致で町全体が揺れ動いて、何十年もたつけど、こんなに狭い地域でいがみ合ってたらきついと思いました。


 
 しばらく歩いていくと井戸のような場所がいくつか見つかりました。この地域には大きな川がないので井戸は大変貴重だったんだろうなと思いました。でも、すぐに頂上についてしまいました。道は反対側の海へと通じています。ほんのごくわずかな土地にみごとなでほど、小さな家が密集しているのです。



 古い町は、人々が暮らしている町であり、人々が捨て去った町でもあります。歩いていたら廃屋がいくつか目につきます。ほんのわずかな土地に家が建っていたんだろうかと思わせるほどの土地です。その空き地には水道管が突き出ていたり、お釜が置いてあったり、手押し車の残骸があったりとそこはかとない寂しさが漂う町でもあります。



 再び町に戻って、海運の町らしき名残も見つけました。この上関は古くから港町として栄え、江戸時代は朝鮮半島からの朝鮮通信使の迎賓館があった所としても知られています。萩毛利本家はここで、将軍が変わるたびに訪れていた朝鮮通信使を接待していたそうです。毛利家の大切な仕事の一つだったようです。雨上がりらしくカラフルな傘が軒下にぶら下がっている情景もなかなかでした。



 狭い狭い海峡を船がたくさん往来していきます。幕末には大勢の志士たちがここから船に乗っていろんな所へ旅立ったたと言われています。吉田松陰もここに滞在した後、外遊したそうです。歌碑が残っています。



 近くに室津小学校がありました。古い建物で昭和のにおいがたっぷり漂った学校でした。校庭では何人かが遊んでいて、昔ながらの学校でした。



 室津まで戻ってくると気になる建物があります。4階建ての奇妙な建物です。四階楼という建物で、明治初期に建てられた建物のようです。明治初期の文明開化の波が上関の地まで伝わったという証でもある建物のようです。中は見学無料なのでぜひお近くにお寄りの際は見学を勧めます。


 
 中に入るととても奇妙な光景に出会います。4階部分にはステンドグラスがはめられていて、和室にステンドグラスという何とも怪しい雰囲気になります。横溝の世界か、江戸川乱歩の世界に紛れ込んだような世界です。今にも柱の陰からおかっぱ頭で絣の着物を着た背の高い女性が出てきそうなそんな感じなのです。


 

 
 不思議な光景を満喫しながら、帰りの道すがら逆光の海のキラキラがとてもまぶしくて、いかにも瀬戸内の海らしいと思い、車を停めてまたまたパチリ。

















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あおげば尊し

2006-06-26 22:06:15 | 映画
 「あおげば尊し」この歌は好きではありません。歌わされたイメージが強すぎる気がします。「仰げば尊し、我が師の恩…」そんな思いをしたことがありません。今この年で振り返れば、いやなことばかりではなかったようにも思えますが、その時代は苦痛でしかなかった関係でした。中学時代は特に暴力と体罰しか思い出せません。愛のムチということばは知っていましたが、愛を感じたことは1度だってありません。

 さて、映画ですが、監督は「トニー滝谷」の市川準さんです。静かな研ぎ澄まされた感覚で心の動きを描いている監督という印象をもった監督です。主演はテリー伊藤さんです。テレビでやたら怒っているイメージが強い人だったのですが、実に淡々と演じている姿には共感を覚えました。テレビで見るのとはまったく別人という印象を強く持ちました。実に頭の良い人なんだと思います。奥さんには薬師丸ひろこがキャスティングされていて、これまた淡々と演じていました。

 主人公光一(小5の担任)は、末期癌の父親(元中学校教師)のターミナル治療に家庭を選択する。どんどん弱っていく父を毎日見ていく。往診に来る医師もほとんど気休めのような治療をしていく。「何とかならないのか!」といらだつ光一に対して「もう…何にもできないの…」とつぶやく妻。このあたりのところはターミナル医療についてもなかなか考えさせられるシーンです。

 光一のクラスの男の子にインターネットで死体画像を集めている少年がいる。その子に対して、的確な指導ができないでいる光一…。次第にクラスの中に荒れた状況が蔓延し始める。校長、教頭、生徒指導主任、養護教諭が光一の指導を批判する。それに対して、一切の反論もしない光一…。

 クラスの少年は、何度も葬儀場まで出かけて行って苦情が学校に寄せられる。光一は末期癌の父親の姿を子どもたちに見せることによって、生きることの意味を子どもたちに伝えようとする。なかなか子どもたちにその真意は伝わらなくて苛立ちが隠せない。

 人間の死とは懸命に生きることの先にあるもので、誰もが受け入れなくてはならないものそういったテーマを淡々と、映像で語っていく。

 最後の最後で父親を煙たがっていたはずの教え子がたくさん集まって、お決まりの「仰げば尊し」を歌うシーンは、あまりに予定調和なのだけど、涙してしまった自分に笑えました。やっぱり教師の一人なんだと思いました。

 この映画を、どういう立場で見るかによって確かに受け取り方は変わると思いました。

 もう一つ気になったシーンは、冒頭子どもたちが光一に「先生の目ってどうしてそうなっているの?」と聞くシーンがあります。子どもは正直で残酷なものです。テリー伊藤さんの目は確かに奇妙に写ることがあります。それに対して光一は「学生の時に、ちょっと怪我をしてな。でも、この目のせいでいろんなところが同時に見えて、お前たちの悪いところだってすぐに見つけることができるんだぞ!」と返していました。

 ぜひ、一度借りてみてください。今レンタル屋さんでは新作の所に並んでいます。


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ジョゼと虎と魚たち

2006-06-25 22:58:43 | 映画
 昨日予告していた『ジョゼと虎と魚たち』です。この映画は田辺聖子の短編が原作です。原作を先に読んでいて、肢体障害のジョゼの自由奔放さに惹かれていて、映画化されるということで、ぜひ見たくて映画館に行ったものです。

 肢体障害のヒロインということで、通常の描かれ方だと一歩引いた所で生きていて、もう一人の主人公に引っ張ってもらって、社会に目覚めるというストーリーを予想しがちですが、このヒロインはちょっと違っていて、関西弁でがんがん物を言う、しかもちょっとがらの悪いお姉ちゃんなのです。関西弁で書かれた文章というのは、人情味と生活のリアリティーとちょっとの毒を感じてしまうのは、私だけ?

 さて、映画ですが、深夜の麻雀屋でアルバイトしているいい加減な大学生の恒夫役に妻夫木聡、肢体障害の謎のジョゼに池脇千鶴という配役になっています。映画は深夜の麻雀屋から始まって、客の会話から早朝見かける謎の老婆と乳母車に興味を持たせるとことろから始まる。恒夫は偶然、その乳母車と出くわす。暴走して倒れた乳母車を心配顔で覗いた恒夫に突然現れたのは、包丁を突き出すジョゼの姿。そのまま垣夫はふたりの家に連れて行かれ、朝食をごちそうになる。味噌汁に煮物にだし巻き---どれも美味しい。常夫が少女に名前を尋ねると、彼女はジョゼと名乗った。老婆はくみ子と呼んでいるのに。垣夫は、不思議な存在感を持つジョゼに興味を持つ。その後も何度か家に行くことになる。次第にうち解けていくこととなる。
 
 一方、恒夫には大学にベッドを共にするだけの女友だちと、思いを寄せている香苗がいた。福祉関係に興味をもつ香苗の気をひくために、イスからダイブするジョゼの話も何度かしていた。やがて、香苗とも下宿で一緒に過ごす仲まで発展する。

 恒夫が抜き出した一冊がフランソワーズ・サガンの「1年ののち」。いつもそっけないジョゼがその本の続編を読みたいと強く言う。恒夫は既に絶版となっていた続編「すばらしい雲」を古本屋で探し出し、プレゼントする。「ねえ、その主人公がジョゼっていうんだよね?」という恒夫の問いかけにジョゼは全く応じず、夢中で本を読みながら柔らかな笑みを浮かべる。恒夫の紹介で、助成金が下りて、ジョゼの家がリフォームされることになり、完成間近の家を香苗が見に行く。恒夫はひどく戸惑う。「あの子が恒夫くんの言っていたダイブする元気な子?私もダイブするところ見たいな!」と何気なく言った香苗の言葉を押入れの中で聞きながらうつむくジョゼ。その日の夜、再び恒夫はジョゼを訪ねる。ジョゼは泣きながら本を投げつけ「帰れ!」と叫ぶ。恒夫は祖母に、もう二度と来ないようにと釘をさされる。

 数ヶ月後、就職活動中の垣夫は、ジョゼの家の改築工事をした会社の見学へ。工事で知り合った現場主任から、ジョゼの祖母が急逝したことを知らされ、急いでバイクでジョゼの家へと急ぐ。ジョゼは静かに恒夫を家に招き入れる。葬式から最近の暮らしぷりまで、淡々と語るジョゼだったが、垣夫がショゼの行動に口をはさんだ途端に「帰れ!帰って、もう!」とわめきながら恒夫の背中を殴り始める。その怒鳴り声は、いつしか泣き声に変わり、やがて…久しぶりに再会したふたりは、お互いの存在を確認しあう様にひとつになる。ジョゼにとってははじめての経験だった。恒夫とジョゼは一緒に暮らし始める…。
 
 この映画はラブストーリーのような描き方をしているけど、それを期待して行った人たちは、肩すかしをくらったのではないかと思います。障害者の性愛というものをストレートに描いているし、障害者への差別というようなものも描いていない。唯一描いてのは、恒夫を奪われた香苗がジョゼを罵倒しにくるシーン。「障害者のくせに私から彼を奪うなんて!」「あんたの武器がにくい。」という香苗に対して、ジョゼは「だったらあんた、足を切って来たら!」と言い放つ。そして、互いにびんたの応酬。

 もう一つ、印象的だったのは、リフォームの見学に来た香苗に対する恒夫の混乱ぶり。1対1であれば優しく振る舞われるが、他者特に気になる女性が来た時にジョゼに対してどう向き合うのか?いじめをされている子どもに対して、2人きりだと普通に振る舞えるけど、別のいじめっ子と一緒になるとやっぱりいじめてしまう構図と似ているのかもしれない。

 ジョゼの祖母役の新屋英子さんの存在がとてもすごくて、「いるいるこんなお婆」と思わせる迫力と存在感を示しています。

 もう一つ気になるのが、恒夫の故郷の九州に向かうさいにジョゼと二人で立ち寄る秋穂水族館ってどこやねん?

 エンディングで電動車いすで疾走するジョゼの自立した姿がまぶしいと思いました。結局、ジョゼは幸せだったのか?それはそれぞれで感じとりましょう。

 ぜひ、一度レンタルで借りることを進めます。くれぐれも妻夫木のラブストーリーを想像しててはだめです。
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ウィニングパス

2006-06-24 21:36:01 | 映画
 先日岐阜で行われた障害者問題研究会の青年期集会に参加したせいか、障害者、特に青年期の問題が心に引っかかっています。以前読んでショックを受けた本(『知的障害者の恋愛性に光を』(かもがわ出版)を読み返したりしています。

 その時読んだレポートからも刺激を受けたので、もう一度考えてみたくなり、取りあえず、DVDレンタルで『ジョゼと虎と魚たち』が借りたくなって、つたやに出かけました。

 ついでに新作のコーナーをのぞいていると『ウィニングパス』のタイトルを見つけました。肢体不自由の養護学校に勤めているので、タイトルだけは知っていました。ポスターも学校に貼ってありましたが、隣の施設で上映する時も、基礎講座で同時上映された時も見ることができなかった映画だったのです。

 …ということで『ジョゼ…』と『ウィンニングパス』と『仰げばとおとし』の3本を借りて帰ったのです。

 …ということで1本ずつ感想を書いていこうと思っています。昨日一日で2本、今日2本見たので見た順番に書いていきます。

 まず『ウィニングパス』ですが、ひとことで言えば啓発映画だと思いました。テーマとしては理解しやすいし、伝わってくるのだけれど、ストーリーも扱われているテーマもあまりに何が言いたいのか伝わりすぎて、解説本を読まされているような…「あとでここんとこ、テスト出すから良く見ておくように!」と言われているような気がしました。

 キャッチコピーは『失うことで、僕は手に入れた生きることの本当の意味を』

 高校2年の健太はバスケと彼女とバイクが生き甲斐。健太は友人たちと楽しい高校生活を送っていた。
 自分の可能性を信じたいという彼女に触発されて、健太も自分の可能性について考え始めて、お決まりの親とのけんか。雨の中をバイクで飛び出した健太は…やっぱり交通事故。
 事故で健太は下半身不随に…。「車椅子」現実を受け入れられず、周囲を拒絶する健太だったが、新しい出会いから、立ち直ろうとする。
 学校に戻った健太だったが、下半身の意識がなく、教室でおしっこをもらしてしまう。家に引きこもりそうになる健太を今度は、父親が支える。
 そんな健太を支えるのが、車椅子バスケチーム「北九イーグルス」だった。激しいぶつかりあいとスピード…まさに格闘技さながらの車椅子バスの世界に、健太は自分の居場所を見出していく。新しい人生をつかんでいくための、健太の挑戦が始まった…。

 ざっとこういうストーリーになるのだけれど、自己のために中途障害者になった高校生の気持ちはどんなだったろう?どうやって障害を受容していくのか?そのあたりの葛藤を考えると重いテーマです。

 つきあっっていた女の子の母親が、「自分もボランティアをしているから、よくわかる。あなた一人でどうにでもなるものではないのよ」と交際を反対する。学校に戻った健太に向かって「障害者だって同じなんだから、おしっこもらしたら自分で片付けるのが当たり前!」と主張していくシーン、「障害をもった俺の気持ちなんかわかるか!」と主張する兄に対して「障害者の兄をもった妹の気持ちがお兄ちゃんにわかるの?」と言い返していく妹の気持ちなど、社会的な問題から考えたい問題もいくつかありました。

 でも、最終的には「頑張る障害者」がテーマになっていて、脳天気さが気になる映画でした。


 

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響き合う子どもたち2

2006-06-23 22:41:35 | 障害児教育
 先日、タラちゃんの医療的ケアーをクラスの子どもたちみんなで参観に行ったことを紹介しました。タラちゃんのママとレオくんのママから連絡帳で感想を寄せてもらいました。

 タラちゃんのママからは、『タラちゃんがいつもみんなと違った行動を取らざるを得ないことに対して、タラちゃん自身がどう思っているのか、友だちがタラちゃんをどう思っているのか、ずっと気にしていたことについて書いてありました。でも、ドリーマー(学級通信)の写真からは友だちの暖かい目線が感じられて、タラちゃん自身も誇らしげに医療的ケアーを受けられていることについて、すごく安心したし、仲間っていいなと思いました。何よりママが安心した』というようなお便りが届きました。原文を載せればいいのですが、今手元にないのでかいつまんでご紹介します。

 そのことが、昨日の散歩の「みんなと行きたい!」気持ちにつながったのだと思います。木曜日、タラちゃんは泣きながら登校してきました。しかもちょっと遅れての登校でした。聞けば、朝お母さんと言い合いをしながら登校してきたとのこと。昨日の疲れかな?と思っていました。このまま朝の会に入られると困るので、保健室の健康観察はdylanがついていきました。保健室で事情を聞くと「お母さんの手伝いをしていて、目を離したすきにかき回していた鍋の中身をつまみ食いして舌をやけどした」そうです。口の中を見ると舌の奥に傷ができていました。ジラ(わがまま)の原因はこの傷だったようです。

 ここで一考。良い考えが浮かびました。「タラちゃん、痛かったね。でも、朝の会のお話でみんなに話して、べーを見せるとみんなびっくりするよ。教室に行って話そうか?」これで一気に形勢逆転です。傷のデメリットが一気にメリットに変わっていきました。「タラちゃん、教室に行っても黙ってなきゃあ、だめよ!今日のお話で話すんだからね。」

 朝の会が始まりました。木曜日の当番はレオくんです。「お話ある人?」いつもころちゃんが一番を取るのですが、今日はタラちゃんがすごい勢いで手を挙げました。タラちゃんは、「やけどした。べーを!お鍋!」と言って口の中をみんなに見せました。みんなびっくりしていました。特にロンくんは、「やけどしたの?」ととても怖そうに身をよじって見ていました。友だちの痛みが共感できるほど、話を聞いていてくれたことに感謝です。

 10時半のORS(水分補給)もちょっと心配だったので、朝の会の時に「タラちゃんのORSについていく人はいませんか?」と聞きました。またみんな「行くー!」の手が挙がりました。

 みんなで一緒に出かけていって今回はビデオを撮りました。口をけがしているので排痰がうまくいかないので、機械による吸引をしてもらうことにしました。

 いつもなら頭を支えてあげるのですが、今回はちょっと冒険をしてみました。「タラちゃん、みんなが見ているから一人でやってみる?」と聞くと「一人でやる!」と言いました。自分で両ほほを支えて吸引に臨みました。喉の奥まで管をさしたり、鼻の奥まで管が行くのでとっても苦手なことなのですが、動かずに取り組むことができました。誇らしげに「一人でできたよ!」と言ったあとで、「明日ドリーマー載る?」と聞いてきました。「うん載せるよ!」と答えざるをえませんでした。そして、次の日に特集として載せました。
 
 学級通信を日刊で出していることも大変子どもたちには刺激になっていて、はげみになっているようです。(もう3年も続けています。ちょっと自慢!)
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響き合う子どもたち

2006-06-22 22:17:11 | 障害児教育
 タラちゃんは、学校で医療的ケアを受けています。医療的ケアは教室ではなくて、専用の教室に行かなくてはいけません。だから、一日に何度も友だちから離れなければいけません。そこで、ちょっとある考えを思いつきました。タラちゃんがどんなことをしているのか子どもたちに直接見せて理解してもらおうと思いました。タラちゃんの胃ろうからの水分補給を見ることによって、タラちゃんの大変さを理解してもらうことと、それぞれの健康についての思いを強くしてもらおうと思いました。

 格好いいことばで言うと、「生命の大切さに気づき、お互いの障害の差違を理解し、自分の健康に思いを向ける」というところでしょうか。養護教諭にも許可をもらって、希望者を募りました。二人ずつくらいと思っていたのですが、みんな手を挙げたので揃って行くことにしました。

 タラちゃんと一緒に、廊下を歩いているとレオくんが一番よくしゃべります。自分もお腹から注入していることをみんなに説明しようとします。「みんな僕のこともわかって!」とでも言ってるみたいです。

 教室に入ると、じゃまにならない程度で、でもしっかり見える位置に子どもたちをセットしました。タラちゃんもみんなが見ているのでどこか誇らしげです。

 初めに看護師さんがタラちゃんの熱を測ります。看護師さんも廊下ですれ違うことはあっても、仕事をしているのを見るのは初めてなのでみんな怪訝そうな顔をしていました。ロンくんは、学園に帰ると最初に看護師さんが熱と脈拍を測るので、「僕毎日やってもらってるよね」と得意そうに話します。

 次にSPO2を測ります。人差し指に黒いケースをはめると、みんな不思議そうな顔を寄せてきます。この日の脈拍と酸素濃度は適正でした。「タラちゃんは元気です」の一声にみんなほっとした顔をしていました。

 次はいよいよ、お腹についている管にチューブを装填します。みんなドキドキです。「タラちゃんはいつもがんばっているんだよ。」「みんなすごいだろ?」と言うとタラちゃんの服を支えている手がさっと力強く上がります。タラちゃんには経管を意識してもらおうと自分で服を持つように指導しています。片手が少しまひがあるので服を下に落としてしまうことがあるので何度か注意することがあるのですが、この日は違います。誇らしげに胸を張って服をあげています。

 お腹に入っているガスを抜くのに注射器を使うのですが、子どもたちが怖がるかと心配していたのですが、みんなじいっと見入っていました。ここでもレオくんは自分も家でやってもらっていることをみんなに説明していました。

 何度かガス抜きをしたあとで、栄養剤入りの液体が注入されます。本当の注射みたいでみんなドキドキです。静かにタラちゃんのことを見ていました。
 
 終わってから教室に帰ると、香川先生や、瀬川先生に「タラちゃん、頑張ってたよ!」と報告していました。それを聞いていたタラちゃんはガッツポーズで「頑張ったよ!」とアピールしていました。

 今の子どもたちの発達段階で、リアルな現場を見せるということで少し抵抗があったのですが、子どもたちはちゃんと受けとめてくれていたようです。これからも何度か挑戦しようと思っています。給食の時も行ってみたいのですが、タラちゃんが欲しがったりしても困るし、子どもたちの指導も必要になるのでこれについては検討中です。

 タラちゃんは何も作っているわけではないので生産しているわけではありませんが、見ていた子どもたちに中に何か発信していたに違いありません。商品価値に換算できない何か有用な価値を生産していると言ってもいいと思います。

 障害をもっている子どもたちの作り出す価値というのは、きっとこういうところから生まれてくるのかもしれないと思いました。 そばで子どもたちを見ていて本当に良い経験をさせてもらったと思いました。
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勘違い

2006-06-21 22:53:44 | 日記
 勘違いというのはいろんな場面でありますよね。一番あるのが街を歩いていて、遠くからニコニコ手をふる人がいて、誰だったか思い出せなくて、でも知らないフリをしてもいけないので、適当に会釈をしておこうかと思ってちょっと目線をそらすと、すぐ後ろでにこにこしている別の顔があって、この人だったんだとほっとしたような…勘違いした自分の自意識過剰振りにちょっと照れてみたりします。
 
 障害をもたれている人の場合、ストレートな勘違いをされるようです。先日の岐阜の障害者の方の集会に出た時のことです。若者が語り合う場を設定されていました。司会者が「あなたは10年後どんなあなたになっていると思いますか?」と問いかけました。若者は少しだけ考えて口を開きました。「僕は今、19歳だから…、多分29歳になっていると思います。」確かに正解です。

 また違う場面で、司会者が「昨日の討論は大変盛り上がりました。みなさんの熱意と歓声でこの会場がこわれるかと思いました。」と言うのを聞いて、真剣に天井を眺めていた若い女性を見ました。これも額面通り受けとめたところから出ています。

 「あなたは、どういう理由でここに来たのですが?」返事がない。そこで別の聞き方をします。「あなたはどうしてここに来たのですか?」さっと答えます。「車で来ました」

 また、教室で子どもたちに向けて独り言のように尋ねることがあります。「今日は何曜日だったっけ?」その後に「だから誰が当番だったっけ?」と続けるつもりの質問でした。ところが最初の質問で、間髪入れずに「今日は水曜日です。」と答えてくる同僚がいます。「あなたに聞いているんじゃないの!今日は何曜日かくらい、俺だって知っています!」と言いたくなります。これは、本当に多いのです。教師というのは知っていることは反射的に答えてしまう動物なのかもしれません。

 そういう私も今日は大きな勘違いをしていました。昨日の給食の時に「明日の給食は?」と壁の献立表を見ていました。ナントそこには「焼き肉カレー」の文字が「また変なメニューを考えて!ろくなもの考えつかないよな!」と思っていました。写真に撮って明日のブログのえさにしてやろうと思っていました。ところが、給食に出てきたカレーは至ってシンプル!「どうして?」ともう一度献立表を見てみるとそこには「挽肉カレー」の文字が。ずっと焼き肉カレーと思いこんでいた自分が、おかしくなりました。
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イメージを共有すること

2006-06-20 22:56:49 | 障害児教育
 毎日朝の会で、『昨日のお話コーナー』をやっています。話ことばを豊かにできる発達段階にある我がクラスとしては、とても楽しい時間なのです。「お話ある人?」の当番の問いかけに我先に手を挙げていきます。
 話したい人がいて、話したい中身があって、聞いてもらえる仲間がいて、認めてもらえる関係そんな雰囲気を大事にしています。

 話す中身はいろんなことがあって、以前ここで紹介したようにハヤシライスが通じなくていろいろ大騒ぎしたこともありますが、なかなか面白いものです。

 最近ロンくんが自分で工夫してお話をしようとします。すると、ロンくんの口からは「エーとね。僕ね。昨日ね。エーとね。エーとね。」何度も「エート」が飛び出します。以前だったら「僕、やったよ。」「何を?」「ゲーム!」「どこで?」『学園で!」というように述語が先に飛び出して、それに一問一答で聞き出して真実に到達するというところだったのですが、ロンくんは、一度に相手に伝えようと頑張り始めました。その時出てくるのが「エーとね」の連発です。頭の中にはイメージがあるのだけど、それを言葉で何とか伝えようとする。でも、うまく伝えることができない。そういうもどかしさは誰でも経験しますよね。

 イメージを伝えると言えば、長新太さんの絵本に『キャベツくん』という絵本があります。
キャベツくんが歩いてくると、ブタヤマさんに会いました。
ブタヤマさんは、
「あのね、おなかがすいてフラフラなんだ。
キャベツ、おまえをたべる!」
そう言ってキャベツくんを捕まえます。
「ぼくをたべるとキャベツになるよ!」
「ブキャッ!」
空を見ると、鼻がキャベツになっているブタヤマさんが浮かんでいます。
「じゃあ、ヘビがきみをたべたら、どうなるんだ?」
キャベツくんとブタヤマさんの珍妙なやりとりは続きます。

「○○がきみをたべるとどうなる?」
「こうなる!」とキャベツくんは言い切ります。
キャベツくんが頭に思い浮かべたことが空に浮かんでいます。そのことでブタヤマさんは「ブキャッ!」と気づくことができます。このようなイメージの共有化というのは大変難しいですね。その難しさをスパッと割り切れることの面白さを絵本にしたのでしょうね。

今日、学校で学習発表会(文化祭)の実行委員会がありました。学校としてのコンセプトや目標ができていないと、前には進まないと何度も言っても、形式論ばかりを説明してくる係の人間のくしゃくしゃ髪の石頭ぶりに相当頭にきて家に帰りました。どうしてもこちらの言っていることが理解できないようで、住んでいる世界が違うのかもしれないと本気で思いました。学校行事を消化主義で解釈するのと、子どもの立場で解釈していくのとでは、真逆の解釈になるようです。(まだ怒っています。)



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