とりあえず一所懸命

鉄道の旅や季節の花、古い街並みなどを紹介するブログに変更しました。今までの映画や障害児教育にも触れられたらと思います。

「ハンサムスーツ」を観ました。

2008-11-25 22:44:54 | 映画
「ハンサムスーツ」を観てきました。

主役の塚地が何となく好きなのでつい観に行ってしまいました。
映画自体は奇想天外なストーリーで何ともつかみどころのないような話です。
どこか、B級香港映画を観ているような雰囲気の映画です。

ざっとストーリーを話すなら

定食屋を営む大木琢郎は料理の腕も人柄も完璧だが、ブサイクで全く女性と縁がない。
33年間女性にふられてばかり。
バイト募集に応募してきた寛子。美人で性格の良い寛子は琢郎にも優しく接してくれる。彼女に恋した琢郎は告白するもフラレてしまう。失意の琢郎は着るだけでハンサムになれるハンサム・スーツを手に入れるが・・・」という話。

よくある話です。そしてよくあるオチにつながっていくのです。

「人間見た目だけではない」というのがテーマなんだろうけど、じゃあ中身って何なの?そんな壮大なテーマを描いているとはとうてい思えないけど。

先日「肉体不平等~人はなぜ美しくないたいのか? 」石井政之著 平凡社新書を読む機会がありました。
「見る・見られる」社会の中でコンプレックスにあえぐ人間がプチ整形など、様々な行動に走っていくことになります。
数年前には「ビューティーコロシアム」という整形で人生を変えるという奇妙な番組もやっていました。
和田アキ子が傲慢な態度で出演者に説教をたれるような番組で大嫌いでした。

見た目で人生の勝者と敗者が決まるというまことしやかな“常識”がまかり通っている。どうかしている…と思いたいです。

映画自体は可もなし不可もなしという映画だし、塚地の好演も光っているのだけど、扱っているテーマがテーマだけに何となく後味の悪さは残ってしまう映画でした。
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「自閉症裁判」を読んで

2008-11-17 21:54:44 | Book
「自閉症裁判」を読んで

数年前にレッサーパンダの帽子をかぶった青年が女子大生を殺害するという事件がありました。
その青年は高等養護学校の卒業生という報道があった時にはショックを受けたことを覚えています。

その事件の裁判記録と、被害者、加害者の周辺の状況を調べて書いてある本です。
作者は20年くらい養護学校に勤務した後、著述業をしているという佐藤幹夫さんです。

ニュースだけを聞いていると、高機能自閉症の人の犯罪なんだろうな程度の感想でしたが、この本を読んでいろんな感想を持ちました。
レッサーパンダの男についても詳しく述べてありますが、被害者の周辺も詳しく語られています。

特に両親の思いについては身に迫るものがありました。
男は、人一人を殺害しているのだからそれ相応の罪に問われて仕方ないという気もします。

ただ、障害について何の理解もない警察が、事情聴取をしてまとめた供述調書については問題があるような気がしました。自分の意見がまとめられない人のえん罪は過去にもたくさんあったのではないかと思います。

男は、自分は「障害者ではない」と主張しているということも心に残る事実です。養護学校卒業という事実を隠し通していたといいます。

この本を通じて強調されていることは
①彼ら、知的障害や発達障害をもつ人たちが、どうすればこのような傷ましい事件の当事者となることを避けることができるか。
②もし、障害をもつ人が何らかの形で加害の側に立つことになった時、法の裁きをしっかり受けてほしい。自己を守ることに弱い、障害のある人々を司法はどのような裁くのか。
③レッサーパンダ帽子の男が、なぜ殺人まで追い込まれたのか。彼が生きてきた30年から何が見えてくるのか。
④なぜ凶行に及んだのか。彼の持つ発達障害の関係からひもときたい。
⑤彼がみずからのなしたことを振り返り、省みるということがどのくらいできるのか。
などです。

この本のすぐれている点は、自閉症の特性に基づく、事件の解明です。

今学校の教室の中でも、発達障害の子が引き起こす事件がいろいろと問題になっています。
世間の常識から判断すると、いけないことだし、批判されるべき事柄が多いと思います。
でも、このことも障害特性からひもといていくと別の側面も見えてくるのではないかと思います。
教室の中で加害者、被害者の関係にならないためにも教育的な働きかけが重要になります。

また、養護学校の卒業生のその後の生活というのも考えていかなければいけないのではないかと思います。
教育と福祉の連携も重要になると思います。

この本はいろんなことを考えさせられる一冊でした。
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映画「まぼろしの邪馬台国」を観て

2008-11-11 10:32:01 | 映画
映画「まぼろしの邪馬台国」を観て

映画館の予告で、何度も流れていてどうしても観たかった作品です。
吉永小百合と竹中直人の名前を見ると外すわけにはいきません。
上映初日は学校行事で行かれなかったので次の日にすぐに観に行きました。

感想は、率直に言って「あれー?」というものでした。
期待が大きかっただけに肩すかしの部分はとても大きいものでした。

物語は、昭和12年から始まります。
中国で暮らしていた長浜和子(吉永小百合)一家に戦争の嵐が吹いてきます。
一家は頼りもないまま日本に帰ってきます。

これから壮大なドラマが始まるのかと思ったら、あっという間に昭和31年に飛んでしまって和子と宮崎康平(竹中直人)の出会いのシーンになってしまいます。
本当に、戦前のシーンはいるの?和子の父親が読んでいた一冊の本が後につながるというくだりはあるにしても、清廉潔白な和子のイメージをふくらませるだけのためのエピソードという感じは否めません。

康平は、島原鉄道の社長であり、盲目の郷土歴史研究家として登場してきます。
誰の言うことも聞かない傲慢な人物として描かれていきます。
事業拡大のために呼んだ和子だったけど、未曾有の台風被害で社長の椅子を追放されてしまいます。
その後、和子を妻として迎え入れます。

その後の和子の島原での生活は、残された2人の子どもの世話と、魏志倭人伝、古事記、日本書紀を目の見えない康平に代わって読んであげる仕事です。ただ、書物からだと限界があるということで、和子は実際に現地を歩いてみることを提案します。こうして康平と和子の文字通りの二人三脚の邪馬台国への旅が始まります。

「盲目の夫を支える献身的な妻の愛情」「夫の夢はいつしか二人の夢になり…」「二人の夢は結実され、周囲の賞賛も受け…」これ以上感動するものはありませんとばかりに押してくるのですが、どこかさめてしまうのです。

でも、二人の実際の旅の場面で出てくる島原や熊本有明海の風景は実に見事です。その風景だけを見ているとぜひ一度行ってみたいと思わせるぐらい見事なのです。有明海は干満の差が激しく、干潟の模様がくっきりと映し出されています。
夕日と干潮が重なる日は一年に何度もないと言われていますが、この映画の中では黄金に光り輝く渚が映し出されています。
それを見るだけでも価値があるかもしれません。

趣味としてカメラをやっている人間にとってこれ以上のロードムービーはないのです。まさに心が洗われる風景なのです。

でも、それと映画に出てくるお話とはまた意味が違ってきます。

ただ一つ印象に残っているシーンとしては、幼くして別れた母親(余貴美子)を訪ねて場末の飲み屋に行くと、厚化粧で出てきた母親が「ちょっと待ってて。」と化粧を落として息子に会うシーンは妙にリアリティーがありました。

康平が卑弥呼の墓かもしれないと発掘させる丘の全景が映し出された時に、「エッ!」と息を飲みました。
何と前方後円墳だったのです。
卑弥呼の時代とは全く異なる墳墓の形です。
私の記憶が正しければ前方後円墳は、もっと後に出てくるものだと思います。
だから、近畿地方に巨大な前方後円墳が多数存在するのです。

最後にもうひとつ、吉永扮する卑弥呼が登場してくるシーンは全く興ざめでした。どうしてこのシーンが必要なんだろう?本当に疑問です。シーンでは火山が噴火して人々が逃げまどうシーンがありました。「火山の噴火によって邪馬台国を滅びました。したがって卑弥呼の墓はありません。」とでも解説したかったのかもしれません。

…と少々評価が厳しかったかもしれません。
まだ観ていない人には迷惑だったかもしれないと反省しておりますが、たかがブログですから。
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映画「レッドクリフ」を観ました。

2008-11-09 23:50:54 | 映画
映画「レッドクリフ」を観ました。

三国志を土台にした超大作という触れ込みでしたが、まさに制作費100億円の超大作にふさわしい映画でした。
出てくる人物の数が半端ではありません。
CG処理をしているだろうと思いますが、エキストラだけでとんでもない数だと思います。
その人たちに衣装代もきっととんでもない額になるのだと思います。

戦闘シーンもこれでもかというくらい出てきます。
ゲームで三国志をしている若者にはたまらないくらい楽しいものかもしれません。
しかし、三国志を文字文化で読んできたおじさんにとってこの映画は超つまらない駄作にしか映りませんでした。

そもそも荒唐無稽な三国志をテーマにすることから無理があります。
超大作の映画を作るというのは、北京オリンピックを頂点としたナショナリズムの高揚をベースにした映画作りなのだと思います。

お金を湯水のごとくつぎこんで、ハリウッドを意識したようなど派手な演出を見せるための三国志のような気がします。
ある意味スターウォーズの三国志バージョンのような気までします。
孫権の妹である尚香という男勝りの女性を登場させるあたりも、世界市場を意識した作り方なんだろうなと思いました。

戦闘シーンに一部には黒沢明へのオマージュというあたりも感じます。ここらへんは心地よい時もあります。

おじさんにとって極めつけは、周瑜と孔明の信頼を確かめ合うシーンです。
互いに琴を演奏し合い、音を重ねることによって信頼を確かめ合うのです。
これは「知音」という故事からくるものだと思うけど、何かしっくりこない気持ちの悪いシーンでもあります。
ここらへんんが妙に鼻につくのだけど、どうなんだろう?
欧米人にわかりやすい三国志解釈とでもいうのでしょうか?
まさに営業優先という感じです。

印象的なシーンもないわけではないのです。
蜀・呉連合軍が亀の甲羅のような八卦陣に曹操の陸上部隊をおびき寄せ、名将たちが一人ずつ登場する場面は、晴れがましい見せ場になっていて、観客も楽しめる場面だと思います。
全体的な動きもオリンピックで見たマスゲームのようにすばらしく統制のとれたものです。

映画は2部作になっているので、長江の対岸で両陣営がにらみ合うというところで第一部は終わるのですが、「第2部は来年の○月です。」という予告が流れたとたん、「そんな先だったらストーリー忘れちゃうね。」という声があちこちから聞こえてきました。
三国志そのものは変わるわけないのに、その程度の客層に見せるための映画だということも事実なのだと思います。

私は第2部はおそらく観ないと思います。
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「闇の子供たち」を観てきました。

2008-11-09 22:52:22 | 映画
「闇の子供たち」を観てきました。
正直この映画を観るかどうか迷っていました。
梁石日氏の原作は以前読んでいて、あまりに読むのにも憚られるような性的描写の連続に途中で読むのをやめようかと何度も思った本だったからです。

内容は、梁石日氏が実際に取材に基づき生活費のために闇社会に売られたタイの貧しい子供たちが、ベドファイル(幼児性愛者)の性欲のはけ口にされ、HIVに感染すればゴミと一緒に捨てられ、そのうえ、臓器売買のために生きたまま手術台の上に乗せられているという事実を書いたものです。

どうして、それをまた映画にしようとするのだろう?そのことによってどんな意味があるんだろう?そんな思いをもっていました。

タイトルの「闇の子供たち」ですが、私は通常“子どもたち”と書きます。
子供の“供 ”という字が供物のように思えて子どもの人権を無視しているように思えるからです。
でもこの映画はまさに“子供”です。大人の欲望の供物になっている現実なのです。

梁石日氏が取材したのは10年前だと聞いています。
でも、でも現実はインターネット上の存在する闇サイトでは、満載だそうです。
タイトルの「闇の子供たち」は実は「闇の大人たち」でもあるのです。

この映画は周南市のテアトル徳山で観ました。この映画館は大変古い映画館で若い頃にはよく行っていた映画館です。
でも、最近は駐車場が完備しているシネコンに行くことが多くて、この映画館からは足が遠ざかっていました。
でも、最近この映画館は頑張っているのです。
収益第一主義のシネコンではかからないような作品をかけてくれているのです。
最近はよく足を運ぶようになりました。

ところで映画ですが、小説はNGO職員(宮崎あおい)が主人公だったのですが、映画では新聞記者(江口洋介)なっています。

映画の中では何が善で何が悪なのかそんなものは存在しないのではないか。
生活のために子どもが売られるという事実。
その子どもたちを醜いベドファイル(幼児性愛者)が買っている事実。
そのベドファイルは欧米先進国の人間たち、そして多くの日本人だという事実。
生きたまま臓器を取られることによって成立することを知っていても、我が子のためにタイで心臓移植を受けさせようと高い金を払っているに金持ち先進国の親もいるという事実。
そういったビジネスの裏社会で暗躍している組織の人間もかつて少年時代に被害者だったりする。

もちろん、子どもを売らなければ生きていけないほど貧しいタイ北部の生活実態もある。善の代表のような新聞記者も取材を通じて自分の問題にはねかえってくる。そして最後のシーンへとつながる。

「これは映画なのだから」と割り切ることのできない後味の悪さ。
無神経にならないと生きていけなかっただろう映画の中の登場人物たち。
観る側の我々は決して無神経になってはいけないのだろう。
阪本順治監督と痛みを共有できると思われる人だけ観ることを勧めます。
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