とりあえず一所懸命

鉄道の旅や季節の花、古い街並みなどを紹介するブログに変更しました。今までの映画や障害児教育にも触れられたらと思います。

居場所があるということ(ある子の変化の秘密)

2012-10-16 00:03:59 | 障害児教育

特別支援教育コーディネーターをしてあちこちの学校や幼稚園、保育園を廻っていると辛いことだらけです。

時には自分が押しつぶれそうになることもあります。

でも、とても嬉しいことにも出会うことがあります。

Pくんの事例はそういう事例の1つになりました。

Pくんは、小学校4年生です。通常学級に在籍しています。Pくんの様子を見てほしいという依頼を受けて小学校に出かけました。

学校から見せてもらった資料には、難しい状況がたくさん書かれてありました。

2年2学期…授業妨害、他害行為があり、校長、教頭、教務 空き時間教師がクラスに入り、見守る。

2年3学期…友達を暴力で傷つけたことにより、本人と母親を呼び、校長室にて指導。

3年6月…Sが無記名のまま出した宿題プリントを宿題係がPに名前を書かせた。S母からP母へ電話で苦情

3年1学期…他とのトラブルがある時は、学校から母へ電話連絡。学校での様子も親に見てもらう。

3年2学期…他とのトラブルが増える。被害妄想が強く、けんかの際の対応も難しい。→荒れがひどいときには、教頭、教務で対応

3年10月…暴力やもの隠し、持ち物壊しがひどくなり、被害を受けた親が直接Pくんの家に電話で苦情を訴えるケースが増える。

→「障害があるから少しは我慢してほしい」とか逆ギレされることもあり、周囲の保護者は怒りが増す。

→「子どもが学校に行きたくないと言っている」目に見える形で対処してほしいとの要望あり。

P母は、直接教育委員会に電話にて要望→市教委とも相談し、生活指導員がクラスに入るようになる。

3年3学期…反抗的態度、他害行為がひどくなる。→母親に連絡すると、学校を休ませるようになる。

3年3月…臨床心理士と面談するようになる。

4年 他害行為、授業妨害、盗癖、自殺しようとするふり。5月2日までの授業参加状況は芳しくない。

資料を読むだけで、本人が一番苦しいと思っているのではないかと思いました。

この日は2時間目の授業から授業参観することにしました。

Pくんが在籍しているこのクラスは授業が始まっても私語が多く、集中せず、あいさつをかけても落ち着きがない状態でした。

社会の勉強をしていて、みんな地図を出していました。

地図の導入もあって、「○○はどこにある?」というような問いかけを教師がしてして、子どもたちは地図で探していました。

Pくんはと言うと一番前の机のさらに前の給食を配膳するときに使う大きめの机で迷路を作っていました。

図工の時に作ったものを改造していました。

教師の問いかけで「一度は行きたいパリはどこ?」という問いかけに対して、「東京スカイツリー」と口だけで反応していました。

それでも、地図帳が終わった頃には自席に戻っていました。

「事故のしらせはどのように伝わるでしょう?」の問いかけに対して、事故で反応して「先生!」と聞いて「もしも自転車にのっていて事故にあったらお金を請求できる?」

次に自分が目撃した事故の話をずっと始めます。それでも、担任は辛抱強く関わっていました。

2時間目と3時間目の間には業間休みとして少し長い時間の休みがあります。

3時間目のチャイムが鳴ってもPくんは帰ってきません。

担任は気にせず理科の授業を展開しています。支援員が危険がない程度に付いているからだと思います。

やっと帰ってくると、中間休みで虫を捕ってきたらしく、ビニール袋のふたをしています。

蜘蛛をとってきて、蟻のケースに入れて観察をしています。

友だちがすでに理科教材(太陽電池の車)をやっていることを理解していますが、全く興味のない風を装っています。

やっと教材を手に取って自分勝手に外で実験をし始めます。教室の窓の外が小さなポーチになっていて、そこで太陽を捕まえようとしています。

でも、簡単に太陽電池は充電できるはずもなく、うまくいかなかったら、再び蟻に向かういます。

友だちの前川くんが砂糖を持ってきていることを知っているので「前川!砂糖!」と強く言いいます。前川くんはすぐに従います。

Pくんが無表情で命令するから従わざるを得なくなるのかもしれません。

「蟻を見つけた」で大騒ぎになります。「前川お前ん家に大きい虫かごある?」と聞きます。

前川くんも「父さんに聞いたら買ってもらえるかもしれない」力関係がはっきりしています。まるでジャイアンです。

教室では回路図の説明が展開しています。その間もPくんは廊下で蓋で遊んでいます。

教室に戻ったPくんは、友だちにハンカチを貸せと要求します。「蟻が死んでいた蓋をハンカチでふいたよ」と言ってそのハンカチを友だちに返します。

そのうち、ほうきを持ち出して教室を掃き始めます。どうやら蟻を集める作戦に出るようです。

でも、教室には蟻を飼育している子が別にいて、その子と蟻の奪い合いが始まります。

そのうち、ほうきで友だちを攻撃してしまいます。友だちの「やめろ!」という言い方で切れてしまいます。

さすがに教師が止めに入ります。止めた教師に対してさらに攻撃を展開します。

その場は何とか折り合いはつけますが、教師の持ち物を教室の外に投げ始めます。教科書、ギターのストラップなどです。

教師に対しても「関係ない」と主張します。そのうち教室から飛び出します。

探しに行くと図書室でクールダウンしています。見えないように観ていたのですが、めざとく見つけて「関係ない!こっちくるな!」と攻撃してきます。さらにドアに鍵をかけてしまいました。

協議の中では、別室で個別の支援の時間が必要なのではないか?事件が起きてからのクールダウンではなく、毎日1時間程度が望ましいのではないかと提案しました。

①別室に行って納得するかどうか。

②具体的に誰が指導するか。

③彼が心許せる人がいるか。

できそうにないと思ったら違う方向に行く。あの子に対する接し方。アプローチの仕方がわからない。などの意見が出されました。

他の機関からの情報によると、「2歳から3歳の頃 お尻がつかなかった。落ち着きのない子 迷路はできた。パズルはできた。」だそうです。

就学の段階では情緒学級の判定医だったのですが、親の意思で通常学級に入ったそうです。

後日、関係者が集まってケース会議を持ちました。そこでの私の立場は前回と同様です。

会議の出席者の中には児童相談所の支援を受けて、親と話して別の機関で一定期間生活訓練が必要なのではないかという意見も出されていました。

今回、またその学校を訪問する機会がありました。

数ヶ月を経て今回訪問して、驚きました。見事に着席して学習に参加しているPくんの姿を見つけました。

国語の順番読みも友だちの読むのを聞いていて、自分の番になったらちゃんと読んで着席していました。ただ、板書をノートに書くことはしませんでした。

目が合ったので「ノートは取らないの?」と聞くと「いやなことを言われた」と言わんばかりに机につっぷすなどのリアクションを見せました。

以前だったら敵意に満ちた目を向けて「関係ない!あっち行け!」と言ってくるに違いありません。

友だちがノートを取っている間、教科書を見ていたのですが、だんだん手持ち無沙汰になったようで、手を目の前にかざしたり、手を組んでみたりしてやり過ごしていました。

こんな折り合いの付け方ができるなんて素晴らしい変化です。

後の協議の中で校長は「何が彼を変えたのかよくわからない」と言われていましたが、第一は居場所の確保だと思います。

一日1時間は個別の時間を保障してもらっていたようです。教室でも怒られることなく、自分で参加できる活動をしている。

それを認めてもらえている。ノートを取らなくても責めてくる友だちもいない。

そういう中で安心して過ごせる環境になっているのだと思います。

「いてもいい自分」をしっかり感じているのではないかと思います。

その中で、無理しなくてもよくなっているのかもしれません。

私は担任の労をしっかりねぎらいながらたっぷり評価してきました。

こういう事例を見るととってもうれしくなってきます。

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金本選手引退

2012-10-10 23:47:28 | 阪神タイガース

金本選手の引退試合をテレビでずっと観ていて複雑な気持ちになりました。

引退を発表してからは、ずっと応援する気持ちになっていたので、ちょっとさみしい気持ちになりました。

金本選手が阪神に入団した時には本当に驚きました。

いつも広島戦で打たれていたイメージがあったので、ちょっといいかな…と思っていました。

星野監督の誕生と言い、根っからの阪神ファンとしては複雑な心境だったことは、隠せない事実です。

でも、入団してからすぐに優勝を決めて、すっかりわだかまりは消えていました。

二人のパフォーマンスでタイガース人気はうなぎ登りでにわかタイガースファンもたくさん登場してきて、なんだかな~という気にさせられたのを覚えています。

金本選手が肩をけがをして、そのままレフトの守備にずっとついていた時には、連続試合フルイニング出場がかかっていたとはいえ、スタメンを外すことを希望していました。

それでも、試合に出続ける金本選手を観て、「記録なのか?チームの勝ちなのか?」金本選手の起用に対しても反感をもっていました。

レフトから内野に返球する時にゴロでなければ投げられない選手がスタメンでいること、それを許している阪神に対して不信感をもっていました。

でも、引退試合を観ていると、終わりよければ…といことで今までのわだかまりも消えるのだから不思議なものです。

最後の打席がキャッチャーフライだったことや、試合終了のアウトボールが金本選手の所に飛んでくるのも金本選手らしいと思いました。

引退セレモニーの挨拶は長すぎて、いろいろ不評を買ってしまったようですが、それも金本らしいなと思いました。

録画していたので、全文を紹介したいと思います。

まず最初に、僕を産んでくれた両親、アマチュア時代から広島時代、阪神時代、僕の野球人生に関わったすべての人々に心から感謝を申し上げます。

思い返せば10歳の時に野球を始め、常にプロ野球選手を夢見てボールを追っかけてきました。

その夢がかなったのは21年前の地元、生まれ育った広島カープへの入団でした。

プロ野球の世界は自分が思ったよりも、とにかく厳しい世界でした。

必死にバットを振って、必死に重たいバーベルを担いで、一生懸命、本当に一生懸命、無我夢中でやってきましたが、なかなか結果が出ず、苦しい思いをした最初の3年間でした。

今もその3年間の苦しみというものは、僕の野球人生、僕の人生そのものにおいても大きな財産となっています。

2003年にタイガースに移籍してきまして、いきなり2003年、感激の優勝を味わわせていただきました。

立て続けに2005年も4番としてリーグMVPを獲得し、また優勝させていただきました。

2003年からは常にこの甲子園球場は毎年300万人の観客を動員し、あのジャイアンツにも10年間で2回しか負け越していません。

この甲子園球場というのは自分の持っている力以上のものを引き出してくれました。

しかし、そうも人生はうまくいきません。

3年前に肩をけがしてからは、自分の思うようなプレー、パフォーマンスを出すことができなくなりました。

それから常に引退の二文字が頭をよぎるようになりました。

自分でも、もう辞めたい、もう嫌だと、悔しい思いをしながらも、ファンの皆様の、あの金本の特大ホームランがもう一回見たい、

あの弾丸ライナーのホームランがもう一度見たい、もう一度3割30本を打つ金本を見たいという思いに励まされ、

必死にリハビリに励んできました。しかし、なかなか元のパフォーマンスに戻ることができず、きょうここでユニホームを脱ぐ決意をしました。

悔いや心残りはたくさんあります。チームとして2回優勝を経験しましたが、最後にもう一度、優勝したかったです。

そして、阪神ファンが一番よろこぶ瞬間である日本一という瞬間を、この甲子園球場でどうしても達成したかったです。

残念ながら、その悔いと心残りは、きょうここにいる後輩たちに託すことにします。

DeNAベイスターズのみなさん、きょうは自分の引退セレモニーにご参列いただき、ありがとうございます。

DeNAベイスターズは今年、中畑新監督を迎え、チームの雰囲気もガラッと変わり、常に注目されるチームでした。

しかし、一番目立っていたのは中畑監督でした。

選手のみなさん、選手より監督が目立つようではダメだと思います。

監督より選手が目立つことを、中畑監督も望んでいることと思います。

来年ベイスターズが優勝争いをするようなことになると、一番日本で注目されるチームになると思います。

日本球界のためにも、何とか来年意地を見せて、優勝争い、期待しています。

最後になりますが、もう僕はこの甲子園の左バッターボックスでフルスイングすることはありません。

ダイヤモンドを全力で走り抜くことも、もうありません。

レフトのポジションでボールを必死に追いかけることも、もうありません。正直言って寂しいです。

やり残したことはたくさんあります。僕のやり残した分まで、今ここにいる後輩たちが、僕の分まで必ずやってくれると信じています。

そして、外野を守っていると、『アニキ夢をありがとう』とか『ありがとう』とか、いろいろ看板というかボードが目につきます。

それは、僕がファンの皆様に言いたい言葉です。タイガースに移籍してきて、本当に快く迎え入れてくれたファンの皆さん。

たまにキツいヤジもありましたが、こんな僕でも、成績が落ちたときでも、大多数のファンは『頑張れ頑張れ』と背中を押してくれました。

阪神ファンは温かかったです。やさしかったです。

最後に、最後に、ファンの皆様にひと言。本当に夢をありがとうございました。心からありがとうございます。

そして、野球というスポーツ、野球の神様、ありがとうございました。

DeNAの金本選手らしいジョークだったと思うのですが、誰も笑わなかったので、ジョークにならずに空気が凍るような感じでした。

…とは言え、城島選手が引退し、藤川球児投手はメジャー希望、鳥谷選手までもがフリーエージェント権を獲得しているという状況です。

来季、タイガースで輝く選手が見当たりません。

地味なチームになってしまうような気がします。

岩本投手、歳内投手などの若手に期待して、今年のような不甲斐ない成績にならないようにしてほしいと思います。

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映画「アントキノイノチ」

2012-10-09 22:28:50 | 映画

私ごとで言えば、映画館ではまず観ない部類の作品です。

出演者も岡田将生と榮倉奈々というアイドルムービーのお涙ちょうだい的な映画だろうと勝手に想像していました。

原作もさだまさしということで、「やれやれ…」という思いでした。

WOWWOWで放映するというので、まあ録画しておこうか程度で観ることにしました。

結果から言うと意外や意外…けっこうヒューマンな作品に仕上がっていました。

最初の印象があまりに悪かったのでその反動かもしれません。

オープニングからなかなかのスタートです。

引き裂かれた制服にナイフが刺さっていて、「僕は二人の人間を殺した」という独り言から始まって、屋根の上に全裸の永島(岡田将生)が座っています。

永島(岡田将生)は、遺品整理業者で働き始めます。

そこで、暗い過去を持つゆき(榮倉奈々)と知り合います。

二人の物語を中心に、遺品整理をするシーンを映しながら亡くなった人たちの生活を映し出します。

一人暮らしの人もいれば、家族と離れて生活しなければいけなかった人まで、人々の生と死を描いていきます。

人が生きるということ、死ぬということの意味を観客に投げかけていきます。

現実の場面と、永島の高校生時代の過去を挿入していきます。

高校生の頃にいじめに会い苦しんでいたこと、ネットで執拗に苦しめられていた友人を助けることができなくて自殺に追い込んでしまったこと。

そのいじめをしていた同級生(松坂桃李)を山の上から突き落とそうとする衝動に駆られたことや、

友だちとナイフでもみあいになったことなどから精神的に不安定になってしまう姿をフラッシュバックさせて描いていきます。

一方のゆきは、友だちからレイプをされ妊娠してしまうことから、心を閉ざしてしまいます。

そういった過去をもつ二人が徐々に心を許しあうそういった場面がていねいに描かれていきます。

この夏休みに場面緘黙の本を読みあさった関係で、心がいかにもろいものなのか…考える機会がありました。

そういう意味で、心が蘇っていく二人に一縷の希望を持って観ていました。

遺品整理の中で子どもをキーワードにして、ゆきは仕事を続けることができなくなります。

遺品整理で見てきた“生と死”自分たちに関わる生命そういったものを考えさせるシーンが続きます。

どういう形で締めるのかと考えていたら、タイトルにつながる海岸のシーンです。

「アントキノイノチ」…「アントニオ猪木」…「元気ですか~!」正直どうなんだろう?と思わせる終わり方です。

これだけ、見ている側にいろんなことを預けていって命のバトンタッチ的な終わり方でいいの?そんな思いがしています。

原作がさだまさしでもともとこういうお話しなのかもしれませんが、映像にした以上、もう少し終わり方を考えて欲しいと思いました。

ラストのお涙頂戴で終わることが予定調和なのかもしれません。

でも素直に物語を追いかけ、素直にラストシーンで涙ぐむということは、そのことを期待して観る人たちには直球ど真ん中の作品だったのかもしれません。

私的には、途中ではいろんなことを考えることができたので有意義な時間となりました。

作品に対する評価は人それぞれだろうなと思います。

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豊後森町散策

2012-10-08 23:19:48 | 写真日記

森本町通り(レンガ通り)を歩いていくと、突き当たりに三島公園があります。

三島公園は旧久留島氏の庭園で廃城になった「角牟城(つのむれじょう)」の山麓に森陣屋を置いていた頃に作られたとされています。

三島公園から栖鳳廊(せいほうろう)、末廣神社を経て角牟城まで道がつながっています。

角牟城までは三の丸までは車で上がれるみたいですが、ここは歩かなくてはということで歩くことにしました。

これがとんでもない道のりで判断に過ちがあったことはすぐに明らかになりました。

栖鳳廊、末廣神社までは普通の道のりでした。それでも坂道や石段はあって少し息が切れる程度でした。

ここでやめれば良かったのですが、展望台ということばに釣られてそのまま登ることにしました。

ひたすら登る一本道で坂道と石段以外はありません。

山登りと覚悟していればそれなりの心つもりはしていたのですが、そんなことは考えずにいたので完全に息が上がっていました。

でも、途中に石の像が刻んであってそれがなかなか形がいいので、由緒あるものだと思いながら登りました。

三の丸あたりから立派な石垣が出てきます。

  

角牟礼城は、13世紀後半に築かれたとされています。その後戦国時代には大内氏と大友氏との争いで強固にされたとされます。

16世紀後半には島津氏による侵略にも耐えて、難攻不落の城として名をはせたと言われています。

1594年秀吉の家臣の毛利高政によって、中世の山城から石垣や櫓門をもつ近世の城郭に作り変えられたとされます。

その遺構からは中世の城郭から近世の城郭への移行の様子をうかがうことができる貴重な城跡だそうです。

角埋山の頂上(576m)から本丸、二ノ丸、三ノ丸の順に配置され、伝搦手門跡には滋賀の穴太衆(あのうしゅう)が積んだとされる穴太積み(あのう)と呼ばれる野面積みの石垣が残っています。

これは安土城などと同じ石の積み方ださそうです。

やっとの思いで山頂に上がりました。

山頂は大変広い台地になっています。小さな小学校の運動場くらいはあります。

これは、ビュートと呼ばれる山の形だそうです。

でも、展望はあまり開けません。

少し降りた所に展望デッキがありました。

そこからは大岩扇山(おおがんせんざん)や、伐株山(きりかぶやま)や万年山(はねやま)が一望できます。遠く久住の山も見えてきます。

玖珠盆地の山々はメサ、ビュートと呼ばれるテーブル状の形をしたものが多く見られます。

50万年前~60万年前の火山活動でできたものが浸食されたとされています。

 

 

こういった風景から、日本のグランドキャニオンとか、緑のグランドキャニオンと呼ばれているそうです。(笑い)

それでも、大岩扇山の柱状節理の絶壁は見事です。岩の扇を広げたようです。

山から下りると末廣神社はお祭りの準備をしていました。

 

 

昔ながらの祭の風景で、地域の伝統というものを感じました。

栖鳳廊は茶室のようで茶室からは久住連山を借景として使っていたようです。

 

やっとの思いで降りてきて、そろそろ帰り支度です。

でも、せっかく大分まで来たのですから、温泉に入らなくてはということで日帰り入浴ができる場所を地図で探しました。

耶馬溪方面に見つけたので入ることにしました。

露天風呂だけの小さな温泉です。入湯料は400円とリーズナブルな値段でした。

誰も入ってなくて独り占めでゆっくりつかることができました。

帰りは耶馬溪方面から10号線経由で北九州空港から東九州道を通って帰る道を選びました。

途中青の洞門の所で大きな石橋を見つけました。

耶馬溪橋(オランダ橋)と言うそうです。

 

 

帰りの道すがら見た空はきれいな空でした。

 

 

 

 

 

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豊後森の町散策

2012-10-07 10:45:39 | 写真日記

機関庫を撮影する以外にそれほどの期待をしていなかった森町だったのですが、非常に興味深い町でした。

車で移動する際には見逃してしまうけど、歩けば意外と面白いものが目につくそんな町でした。

  

 

昨日のブログにも書きましたが、「童話の里」というネーミングが気になっていました。

そこで久留島記念館をめざすことにしました。

なんでも日本のアンデルセンと呼ばれた久留島武彦の記念館だそうです。

車を停めて煉瓦通りを歩いていると右手に久留島記念館が見えてきました。

「すみません!」と何度も声をかけますが、なかなか出てきません。

向かい側のお店の人が見るに見かねて声をかけてきました。

やっと出てきた人は、感じのいいご年配の男性でした。

さっそく案内していただいたのですが、ていねいにとても詳しく案内をしていただきました。

大変長い話だったのですが、端折って説明すると以下のようになります。

明治7年(1874年)、大分県玖珠郡森町の久留島藩邸で生まれた久留島武彦は、

17年の大火で藩邸が消失したため、母の実家である中津市に移り住みます。

そこで小学校時代、中学校を過ごし、S・M・ウエンライトと出会い、3年のときに彼に誘われてウエンライトの転勤先である関西学院の神学部に転校します。

このことが彼の人生を大きく変えていきます。キリスト教の洗礼を受けたため勘当されてしまい、苦労されたようです。

軍隊生活を経て、帰国後は神戸新聞、大阪毎日新聞、横浜貿易新報、東京中央新聞などで活躍します。

子ども向けに戦記物など書かれて講評を博していたようです。

やがて、童話の世界にめざめて会社をやめ口演童話の普及に全勢力をつぎこむことになります。

86年の生涯の60年も口演童話の世界で過ごすことになります。

その間、東京に早蕨幼稚園を開設したり、幼児教育にも力をつくしたようです。

「子どもたちにとってお話は、遊びの道具ではない。彼らがその置かれた環境を解釈し、共鳴し、思索、研究するための真剣勝負の材料である。

文学的基礎の上に立つことは否定できないが、文学としてだけ取り扱うことは適当ではない。

大人の見地からは、文芸の一つだろうが、子どもたちからからみれば、主要な生活要素の一つである。」(『ある手紙』より)

頼まれればどんな所へでも出かけたようです。訪ねた幼稚園、学校は6,000校を超えるともいわれ、日本中足を踏み入れていないところはないとまで言われています。

「身動かざる者は心働かず」これが久留島先生の口癖だったそうです。(反省しろってか?)

若き日、師ウエンライトから「人を牧する人間になれ」と教えられた久留島武彦は、まさにその言葉どおり、一生をかけて子どもたちを育てたのかもしれません。

お話という子どもたちにとって真剣勝負の材料を使って久留島武彦という人は、童話家である前に教育者だったようです。

こんな人がいたとは全く知りませんでした。

またこの久留島という殿様はもともとは村上水軍の末裔で、瀬戸内海を思う存分暴れていたそうです。元々は愛媛の来島が名字だったようです。

関ヶ原の戦いの後に、豊後森藩に移封された後に、幕府からにらまれるのを恐れて来島から久留島に改名したという話も興味深いものでした。

1万4千石の小さな大名が270年間取りつぶしもなく生きていくというのは並大抵のことではなかったと思います。

次に向かったのは「わらべの館」です。ここは、子どもたちの文化をたいせつにした町づくりをしている象徴でもあります。

図書館を併設していて2階は日本中の民芸玩具を集めた記念館になっていました。

この日も絵本作家の講演会が予定されていました。

さらに町を散策すると、古い街並みを生かしたかざりつけなどが目に着きます。

 

スーパーも商店も新しいものをなるべく排除して町づくりに努力していることが窺われます。

この町を維持することは大変なことだと思います。

 

 

昔の看板も目に着きます。

私は子どもの頃由美かおるさんの看板にドキドキしたことを覚えています。

  

白い建物はもとの森町郵便局だそうです。現在は喫茶店を経営されているようです。

店の前には鬼がでーんと立っています。「勇気」って何だ…?

 

古い家並の向こうにグランドキャニオンがそびえ立っています。

次回はそこらへんを書いていきます。

 

 

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豊後森駅界隈に行ってきました。

2012-10-06 22:53:39 | 写真日記

先日のブログでも紹介しましたが、映画「僕達急行 A列車で行こう」に影響されて、

どうしても旧豊後森機関区の扇形機関車転車台跡地が 見たくなりました。

場所は大分県玖珠郡玖珠町です。日田や湯布院の近くになります。

けっこう遠いのですが、どうしても行きたい場所だったので無理して出かけることにしました。

朝早く高速に乗り、山陽道、九州道を通り、鳥栖JCから大分自動車道に入ります。

混んでいたら、東九州自動車道で北九州空港の方に迂回してそれから10号線経由で向かうことも考えていました。

車は多かったのですが、思ったより進んでいたので、そのまま高速で走って行きました。

でも、突然渋滞の知らせが入ってきます。福岡~筑紫野間10㎞渋滞だそうです。

「しまった…」と思ってももう手遅れです。仕方なく流れに沿って行くしかありません。

何とか大分道に入るとまた調子よく走ることができます。

玖珠ICで降りるとすぐに道の駅「童話の里くす」があります。トイレ休憩がてら立ち寄ることにします。

ここは大分です。やっぱり最初に目につくのはしいいたけの販売です。

大きなしいたけを目の前で焼きながら販売しています。

 

私はしいたけが大嫌いです。この世の中で一番嫌いと言ってもいいと思います。

でも、世間の人たちには飛ぶように売れていました。

秋ですから新米の季節でもあり、いろんな収穫物のなかで何となく華やかな感じがしていました。

 

でも、桃太郎のオブジェがあったり、山の中腹にも赤鬼が出迎えていたりと、どうして「童話の里」なのか合点がいきません。

これは、あとあとわかってくることなのですが…

ゆるキャラも登場してますますお祭り気分を盛り上げます。

豊後森のゆるキャラは“モリリン”だそうです。

背中にはしいたけを満載したかごをしょっています。ちょっと働き者のようです。

  

道の駅の近くに「豊後森駅」はあります。

駅から少し歩いた所に目的の機関区はあります。

三脚を立てて、超広角のレンズを据えて、F22まで絞り込んで撮影しました。

大分県玖珠町の豊後森駅は、久留米駅と大分駅をむすぶ久大本線の駅です。

その構内に今では珍しい扇形の機関庫(扇形庫)が廃墟状態で残っています。

電気・ディーゼル機関車と異なり、前後の区別がある蒸気機関車は方向転換に転車台という回転装置を必要とします。

機関車を収容する機関庫を転車台を中心に扇形にすれば効率的なので、蒸気機関車の時代には各地に扇形庫が建設されました。

蒸気機関車の廃止後は扇形庫も次第に解体され、国内にはもはや数カ所しか残っていません。

また、現存する扇形庫はだいたい現役で使われており、豊後森機関庫のように廃墟のまま解体されずに残っているのはかなり珍しい事例です。

豊後森駅の開業は1929(昭和4)年。扇形庫が竣工したのは1934(昭和9)年で、1970(昭和45)年に廃止されました。

まるでギリシャ神話の宮殿を思わせるような優雅な姿なのですが、廃墟の姿で現れてくるだけにいろんな思いを感じさせる場所です。
 
関係者以外柵の中に入ってはいけないとロープが張られているのがとても残念です。
 
もう少し近くで撮影できると、もっとリアルな姿が撮影できるのに…
 
でも、満足のいく撮影になりました。
 
今度は、現役の豊後森駅に行って撮影をしました。
 
 
 
駅まで行くと、“ゆふいん号”の到着まで10分少々だったので入場券を買って待つことにしました。
 
まるで本物のてつおくんです。
 
ここまで撮影に来ているだけでも十分その要素があるかもしれません。
 
 
 
木製の電柱が何ともいい感じをだしています。
 
ホームには一人しか乗客はいません。
 
大分方面のゆふいん号を待つこと10分やっと来ました。
 
 
  
 
ゆふいん号と機関庫のツーショットもねらいの1つでした。
 
何とかまとまった感じがします。
 
 
次回は森町界隈の紹介をしたいと思います。
 
 
 
 
 

 

 

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映画「害虫」

2012-10-01 23:34:49 | 映画

WOWWOWで「害虫」を観ました。2002年の公開ということで結構前です。

主演は宮崎あおいです。蒼井優も出ています。今を代表する若手二大女優が出ているというのがすごいです。

「害虫」というタイトルだからけっこうコアな中身になるんだろうと予想していましたが、その通りになりました。

監督は、『黄泉がえり』や『どろろ』で有名な塩田明彦さんです。

ストーリーを簡単に紹介しておきます。

サチ子(宮崎あおい)は、小学校時代に担任の先生と怪しかったことや、母親(りょう)が自殺未遂したことが学校で噂になり不登校状態になります。

家は普通に出て行きながら、町中をふらふらしながら時間を過ごします。

コンビニで時間をつぶして夜道を一人で歩いていると、後ろから中年(石丸 謙二郎)に付け狙われます。

その時助けてくれたのが、万引きや当たり屋で生活する少年タカオです。

タカオの導きで知的障害だろうと思われるキョウゾウとも知り合います。

この二人の奇妙な生活に付き合いますが、そこにもサチコの居場所はありません。

お金を得ようとして、サチコはタカオのまねをして当たり屋をしようとしますが、肝心な所で怖じ気づいてできません。

お金があればタカオの中に自分の場所を得られると思いますが、うまくいきません。

援助交際を考えてラブホテル近くにいきますが、中年男性(大森南朋)から声をかけられて、慌てて逃げ出します。

母親には新しい彼氏(天宮良)ができ、さらに家に居づらくなります。

そういう時にタカオから「どっか遠くへ行かないか?」と聞かれ、待ち合わせの場所にタカオは現れません。

タカオのアパートに行くと、タカオともめていたヤクザの死体があります。怖くなって逃げ出します。

一方、クラスメイトの夏子(蒼井優)は何度も登校するように説得してくれていました。

居場所がなくなったサチコは再び学校に行くようになります。

文化祭の合唱のピアノ伴奏者にさせられたり、夏子が好きだった男の子と付き合うようになったりと少しずつ変化が見られるようになります。

居場所ができたかなと思えた時に母親の彼氏にレイプ未遂をされてしまいます。

助けてくれたのは、様子を見に来てくれた夏子でした。

少し遅れて母親が帰ってきます。

夏子は母親を罵倒します。

「おばさん、さーちゃん(サチ子)可哀そうです。こんなこと…どうして…どうして…やっと学校にも来れるようになったのに…。父さんはいなくて、お母さんは自殺未遂して…さーちゃんだって辛いんです。私たちまだ中一です…さーちゃんだけがこんなに可哀そうなの…私、さーちゃんが…」

サチコは無言で無表情のままです。

母親は人格が破壊されたように泣き崩れていきます。この親子に今まで何があったんだろうと思わせるシーンです。

その後、学校ではまた噂が広まり、学校に居づらくなります。

彼氏も、小学校時代の話を持ち出されてしまいます。

再び登校拒否になったサチ子は、キュウゾウのもとを訪れるようになります。

キョウゾウはサチコに好かれようとしていろんなことをして見せます。善悪の判断が難しいキョウゾウはどんどんエスカレートしていきます。

最後には、キュウゾウとともに夏子の家を火炎瓶で放火するに至ります。

途中までははしゃいでいたサチコですが、夏子の家が激しく燃えているのを見て後ずさり、一人で逃げ出します。

秋田の原発で働いている小学校時代の先生緒方(田辺誠一)のもとへヒッチハイクで向かいます。

2人はあるファミリーレストランで待ち合わせをしますが、車が故障して先生はきません。

そこへ急に見知らぬ男(伊勢谷友介)が現われ、お金を稼げる仕事があるからとサチ子を誘います。

誘いに応じて車に乗り込みます。

その車がレストランを出たのと同じときに、緒方の乗った車が到着します。

振り返ったサチ子に男は「どうしたの?」と尋ねますが、サチコは前を見据えて「何でもない」と呟きます。

何が「害虫」なんだろう?と考えてしまいます。家にも学校にも居場所のないサチコが害虫なのか…

サチコの周りにいつもつきまとう嫌な大人たちが「害虫」なのか…

みんなサチコに恋をしていきます。そしてみんなが不幸になっていきます。

同級生でさえも、健康的で優等生の夏子には恋をせずに、サチ子に恋をします。

サチコのことを真剣に考え、母親に訴えかけようとまでする夏子に男子は恋をしません。

サチコもそんな夏子に放火という方法で応じます。(どういうこと???)

サチコはとにかく無防備なのです。

夜中に一人で歩いて襲われかけたり、タカオの肩に頭をのせたり、母親の彼氏からレイプされかけた後でもヒッチハイクでトラック運転手(男)の助手席に乗ったり

最後には、「いい仕事があるよ」と言って声をかけてきた男についていく。

その無防備さは自分の魅力というものを知っていて計算されたものなのか、単に純粋で無防備なのか…そこらへんが「害虫」の意味とリンクするのかもしれません。

話が淡々と進んでいくわりには、サチコの状況はどんどん悪い方向へ向かっていきます。

観ている方が辛くなるような流れです。

居場所のないサチコが求めていたのは、小学校時代の担任の緒方との文通です。

緒方はサチコとの噂のためか、学校をやめて原発労働者として秋田で働いています。

サチコは映画の随所で文通をしている様子を文字で映し出します。

宮崎あおいはこの映画で賞を得ています。

こうした演技が彼女の魅力を最大限に引き出すのかも知れません。

でも、今は笑顔100%で健康的な女性を演じています。大河ドラマで篤姫でも圧倒的な国民的人気を博しました。

どっちの宮崎あおいが本物なのか、そんなことはどうでもいいのですが、彼女のキャラクターはたぐいまれなものだと思います。

映画の主題に戻ります。

居場所がないことは、自分自身を見失うことなんだと思います。

映画の中でいくつかの事件が登場しますが、事件があったから居場所がなくなったのか、事件がなくてもサチコの居場所はなかったのか…

いろいろ考えさせられる映画です。

決して面白い映画ではないので、観る人は心してみないといけないと思います。



 

コメント (2)
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