とりあえず一所懸命

鉄道の旅や季節の花、古い街並みなどを紹介するブログに変更しました。今までの映画や障害児教育にも触れられたらと思います。

たったひとことが聞きたかった

2006-05-31 23:02:35 | 障害児教育
 いつもの朝の出来事です。いつも登校してくると我先に家庭からの連絡帳を提出し、それに日刊で出している学級通信を入れます。その写真入りの学級通信を子どもたちは大変楽しみにしています。
 レオくんはいつものように最前列に陣取って、「カバンを下ろしてください」と声をかけます。それを聞いて瀬川先生がカバンを取って、レオくんに渡しました。「違う!」というので車いすの横に下ろしました。レオくんは、連絡帳を取り出して渡してくれて、他の荷物も整理して渡してくれるものと思っていたのが、違ったので「キー!」となっています。瀬川先生は病休の代替で月曜日から教室に入ったばかりなので勝手がわかりません。

 レオくんは、「僕の言った“カバンを取ってください”の意味はそれをすべて含んでいるのになぜわからない!」と、怒っています。
 そこで、連絡帳を取り出してレオくんに手渡しました。それでも怒りは収まらず、その連絡帳を手で横にはたいたので、「わかりました。連絡帳はいらないのですね。ドリーマー(学級通信)もいらないのですね」と堅い口調で言って、連絡帳をカバンにしまいました。レオくんが泣き顔を見せましたが、無視して他の子どもたちの連絡帳を見ながら、書いてある文章で簡単な話もしながらてきぱきとドリーマーを入れていきました。

 しばらく(それほど時間はたっていない)すると、レオくんから「Dylan先生」と声がかかりました。「はい、何でしょう?」と聞くと「Dylan先生、ごめん!」と言いました。香川先生と顔を見合わせてびっくりしました。こんなことは今までありませんでした。

 こちらから和解を求めていくことはあっても、レオくんの口から自然に「ごめん!」は聞いたことがありません。気持ちの切り替えが苦手なレオくんだけにびっくりです。

 悪いことした時に「ごめんなさいは?」「○○ちゃんに謝りなさい」という指導は学校でもよく聞くのですが、こういった形でため口ではあっても、すっと謝られると、「この一言を聞くために教師やってきたんだー!」と思えます。

 時々だけど、こんな場面があるから、しんどい職場でも頑張られるのかな?

 ちょっとしてから「レオくん、トイレ行った?」と聞きました。「まだー!」との返事。「今日プールあるから、早めに行っておいて!」ということで、瀬川先生と一緒に行くことになりました。そこでお節介のワンポイントアドバイスをしました。「トイレで紙おむつを布おむつに替えてください…」そこに居合わせた里中先生に「布おむつ?布パンツです!」とつっこまれてしまいました。「布おむつって何言ってるんでしょ!」と子どもたちに向かって笑っていたら、それを聞いていたたらちゃんが「かにおむつ?」と聞いてきました。「かにおむつなら、はさまれて痛いでしょう!」と朝一番の大笑いをしました。


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ボーフカレー

2006-05-30 23:00:14 | 障害児教育
 先日話題にしていた「ボーフカレー」が判明しました。何と「ビーフシチュー」のことだったのです。「ボーフ」と「ビーフ」しかも「シチュー」と「カレー」似たようなものです。子どもたちから見れば同じように見えるのは当然かもしれません。
 もう一つ、オムライスとドライカレーを食べた件もわかりました。お母さんはカレーパン用にドライカレーを作っていたそうです。でも、この日ケロちゃんはどうしてもオムライスが食べたいと言ったので、オムライスの上にドライカレーをかけて食べたそうです。「オムライスの中身がドライカレーなんじゃないの?」「ちが~う!」の論争にやっと終止符が打たれました。ケロちゃんに確認しても納得してくれませした。

 今日給食の時に、いろんな話をしていました。その時レオちゃんと一緒に教室に行くという話題を口にしていたもっちゃんは、「今からレオちゃんと僕が、連れションで教室に帰る!」と得意そうに言っていました。一瞬みんな大爆笑です。「えー!教室におしっこしに行くの?」
 「連れション」の意味を「一緒に行動すること」と思いこんだようです。こんな間違いはたくさんありますよね。

 レオちゃんは、ことばは達者なのですが、語尾が微妙に変化します。毎回違うこともあるのですが、いつも同じ間違いをすることがあります。訂正しようとしてもその方が的を射ていることがあって、これはレオちゃんの感覚のなせる技なのかもしれないと思うことがあります。最近のヒットは「目が曲がる」です。使用例としては「そんなクルクルしていたら目が曲がるよ!」
 もちろん、正しくは「目が回る」ですが、この「目が曲がる」というのもニュアンスとしては伝わってきませんか。



 
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バーバー吉野

2006-05-29 23:21:56 | 映画

 先日「バーバー吉野」が久しぶりに見たくなってビデオレンタルのTSUTAYAに出かけました。探しても見つからないので店員に言って探してもらうことにしました。店員に言うとタイトルでピンとこなかったようで、変な顔をしてパソコンで検索して「当店にはないようです」と答えました。「そんなことはないはずだ。以前ここで借りたことがある」と食い下がりました。でも、やっぱりありません。「他の店から借りることもあるし、メーカーから借りることもあるので、その時はあったかもしれません。申しわけありませんが今はありません。」と答えたのであきらめて店を出ました。その時はたと気づきました。「TSUTAYAじゃなかった。シネマ館だった…」

 さすがに別の店まで行く元気はなかったのでこの日はあきらめました。

 この映画は先日紹介した「カモメ食堂」の監督が撮ったものです。詳しいことは下のアマゾンの広告を参照してもらえればと思いますが、いろんな感想があると思いますが、私は、この映画で学校教育の矛盾というものを考えさせられました。

  
 とある田舎町の少年はみんな吉野ガリと呼ばれる髪型をさえられていました。少年たちはそのことについて何の疑問も持たなかったのに、ある日都会から来た少年はまったく違う髪型をしていた。おまけにその少年は女の子に人気があった。少年たちは、その少年にあこがれて髪型を変えようとし始める。大人たちはその革新的な髪型の少年も吉野ガリにしてしまおうとする。そういったどたばた喜劇なのです。

 でも、もたいまさこ扮するバーバー吉野のおばちゃんは、「あなたたちのことを思ってやってあげてるのよ。この髪型をしていれば、どこの町に行ってもここの子どもだとわかって悪いことできないでしょ」と言い放つ。子どものことを思ってやっているから決して悪くないと思いこんでいる。こんな場面いろんなところででくわしますね。

 高校時代のことを突然思い出しました。70年代前半です。当時長髪が流行っていました。長髪には制帽というものが邪魔になります。生徒総会で校長相手に制帽を廃止するように訴えていました。すると、校長は「制服や制帽はその学校の生徒の証である。Gパンをはいていたらどこでも寝っ転がられるが、制服を着ていたのでは、どこの生徒かすぐにわかるからそんなことはできなくなる。」と自分自身の行動を抑制していくために制服制帽が必要なんだと強く指導してきました。

 高校生の制服は時代とともにどんどん新しくなっていき、制帽などが残っている学校はほとんどありません。あの時代のあの闘い(?)は何だったのでしょう。この時同時に要求されたのは、「購買(学校の中の店)を昼休みだけでなく中間休みにも開けてほしい。」「コーヒー牛乳の本数を増やしてほしい。」「コーラを置いてほしい」などです。他愛もない要求です。私はもう少し別の次元で社会を見ていたので、これらにはあまり関心はありませんでした。それでも校長の態度に業を煮やして討論には立っていました。

 校則というものは、ある意味矛盾をかかえこんでいるものです。社会に照らし合わせてみると、道理の通らないものが多いようです。それを限られた空間だけで通すためには、あらゆる屁理屈がまかり通るのです。

 日本という国は学校だけでなく、いろんなレベルで複雑なルールをつくっているように思います。そういったことを考えるにはいい映画だと思います。ぜひ、一度みてください。私自身も近いうちにもう一度見てみようと思います。

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等身大の自分で考えよう

2006-05-28 22:24:26 | 障害児教育
先日ある集会で、奇妙な感覚を味わいました。学校の先生たちばかりの集会だったのですが、そこで教育基本法の改正法案のことが話題になりました。現行の教育基本法を変える必要はないことは自明の理なのですが、そこで発言をしている人たちの声を聞いていると、異口同音に「教育基本法を変えると、戦争をする国になってしまうから…」とか、「愛国心云々は戦前の道への回帰…」などが言われていました。確かに大筋のところではつながっているんだろうけど、そんなスローガン的な理解でいいの?と思いたくなりました。もう少し、法律の性格や、実際に書いてあるものを自分の頭で読んでから発言をした方がいいんじゃないの?とひねくれた聞き方をしてしまいました。

 子どもたちは、教科書に書かれたことを記憶することに追われて、それを教える教師の側も教科書的なものを求めて、その解説マニュアルを通して理解しようとするそんな傾向が多いのではないでしょうか。

 アメリカ最初の女性連邦議会議員でジャネット・ランキンという人がいます。1941年パールハーバーをやられたアメリカが日本に宣戦布告するかどうかという投票の時、私は女だから投票に行かない。しかし、誰であれ戦場に送ることには同意できないという演説をして、上院・下院を通じてただ一人反対をしたそうです。非国民扱いを受け、大変な非難を受けますが、後にこれこそ、アメリカの自由と民主主義を体現した生き方だと徐々に認められ、今ではワシントンの議会議事堂に銅像が建っているそうです。『非戦の人 ジャネット・ランキン』より

 これこそ、主体的にものごとをとらえて、行動することの重要性、「あなたの頭であなた自身が考えなさい」という当たり前のことを示しているのではないかと思っています。

 もちろん、一人では何もできません。でも、一人ひとりが深いところで命や人権、人格について自分のこと、自分の子どものこと、何を守りたいのか、何を失いたくないのかを自分の頭で語っていかないと、いろんな人の耳には届かないのではないかと思います。

 最近、絵本の読み聞かせをしているグループが多くなっているそうです。でも、ある出版社がその人たちに、最近読んだ本で感動した本は何かアンケートをとったら、ほとんどの人が何もないと答えたそうです。本を読んで感動しない人(本を読んでいない人)が子どもに読み聞かせをしているわけです。

 自分の中をくぐった感覚、自分のことばで語らずに、一足とびに「いのちを守れ!」「平和を守れ!」の運動ではやっぱり多くの人には響かないと思います。よくわからない。どっちかわからない。そんな人たちに響かせたいものです。
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ドラえもんカレー

2006-05-27 23:39:00 | 障害児教育
 子どもたちの勘違いから出発する発言はいつも心がほんわかなります。そんな時こそ、どういう聞こえ方をしているのか、どんなことを考えているのか、どんなわかり方をしているのかがわかる時です。そのことによりどんな伝え方をすれば子どもたちに本当にわかってもらえるのか考えていけることもあります。もちろん、しばらくしてかたです。その時は大笑いしているだけですが…。

 先日のケロちゃんの「ボーフカレー」は未だ不明のままです。次の日にケロちゃんは、ドライカレーを食べたと言い出しました。またカレーなの?と聞くとそうだと答えます。オムライスも食べたというので、二つも食べたのか聞くと違うと言います。どっちが本当なのか、時空間がごっちゃになっているのか不明です。わざわざお母さんに連絡帳で聞くまでのことはないので、今度会った時に確かめようと思っています。

 レオちゃんは、記憶力が抜群の子です。店の名前や場所など地理関係も含めてよく記憶しています。スーパーなどに無料で置いてある転職・パートの雑誌が好きでよく見ています。その中に掲載されている店の写真を見て、「これはどこどこの何という店だ」と答えることができるほどです。そのレオちゃんが給食前のひととき、「ケロちゃんは、ドラえもんカレー食べたよね」と話しかけてきました。ドライカレーをドラえもんカレーと思いこんで記憶したようです。耳から入った情報を頭の中で映像化して覚えていたのだと思います。耳から入った時にすでにドラえもんカレーになったのか、映像化する時にドラえもんカレーになったのかは定かではありませんが、耳からだけの情報だと正確には理解しにくいことがわかります。レオちゃんには、耳からの情報と、視覚からの情報を両方用意した方がいいという教訓になりました。

 レオくんは、話が好きでいろいろ話しかけます。でも、話しかけるやり方がなかなかユニークなのです。ストレートに相手に向かって話すこともありますが、伝えたい第3者がいる時に、自分にとって親しい人間を使って第3者に客観的に伝えようとすることがあります。「○○先生、踏切!」「レオちゃん踏切行ったよね」「プリン」「レオちゃんプリン好きよね」「ちやう(違う)駐車場」「駐車場に座ってプリン食べたよね」「お外!」「お外で今度プリン食べようね」散歩の途中、バッタン遮断機が上がる駐車場を見ながら、二人でプリンを食べたことを別の人に聞かせたいのです。

 レオくんは頭に浮かんだ映像をそのまま相手に映しこみたいのですが、それを言葉で伝えることがなかなかできないのですぐに「ちやう!」と言い換えを何度も試みますが、伝わりにくいとわかるので「言わん!」になってしまうのでなかなか大変です。でも生活をともにするとけっこうわかるものなのです。


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音楽の趣味もいろいろ

2006-05-26 14:44:18 | 日記
 映画の趣味もいろいろですが、音楽の趣味もいろいろありますね。誰かがいい音楽だと言って紹介してくれても、それがピタッとはまることって少ないですよね。その人が聞いてきた音楽や、環境によってもずいぶん違ったものになるでしょうね。

 自分の音楽趣味は名前の通りBob Dylan, Neil Young, を中心にFolk&Rockですね。70年代のロックはほとんどあるんじゃないかと思うくらいです。JazzもLPレコードも合わせるとコレクション並みに揃っています。

 大学時代は自分を変えようと思って、クラシックやJazzも本を読みながら勉強したおかげでかなり詳しくなってきています。一日の時間帯や疲れの度合いによってジャンルを聞き分けています。

 日本の音楽は、中学高校時代に完全にはまっていた字余りのフォークがやっぱり好きみたいで、復刻盤を買っているのですが、時々聞きたくなる時があります。でも、高校時代の時のような気分には慣れずにすぐに飽きてしまいます。それがわかっているのに聞きたくなるのも変な感覚です。

 我が家にあるCDのうちロック系のCDは全部高2の息子に取られていて、聞きたい時は頭を下げて借りに行かなければなりません。自分のコレクションなのに矛盾した話ですが、数少ない接点なのだからとがまんしています。大学になったら全部持ち出すつもりなのかもしれません。

 そうそう、何でこんな話になったかと言うと近くに散髪屋さんがあります。朝は7時くらいから営業するとてもまじめな散髪屋さんなのです。土曜日の早朝に行くとその日一日が無駄にならないのでちょくちょく利用しています。

 でもその散髪屋さんの最大の欠点は、BGMが演歌なのです。この演歌ってやつが大嫌いで、聞くだけで気分がブルーになってしまいます。何とか我慢しながら座っているのですが、この間行った時はちょっと体調が悪かったせいもあってどうにも我慢ができませんでした。舌の先まで「音楽をやめてもらえませんか?」と出そうになったのですが、隣のおじさんが気持ちよさそうに演歌の話をしていたので、こんな所までトラブルを起こしてもと思い、何とか我慢しました。

 このBGMってやつは、何とかなりませんかね?最近どの店に入っても必ずといっていいくらいかかっていますよね。価値観の押しつけという気がしませんか?ヘッドホンをすると落ち着ける自閉症の人たちの気持ちがよくわかります。

 それにしても「演歌は日本の心」「演歌がわかればあなたも大人!」何言ってるんでしょうね。これが日本人!だとか、他人が決めつけてくる愛国心というものは断固拒否したくなります!
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青春の蹉跌

2006-05-25 23:37:30 | 映画

 職場でちょっとへこむできごとがあって、いろんなことを考えながら車を運転して自宅へ向かう時に、ふっと「えんやーとっと、えんやーとっと」とつぶやくショウケン(萩原健一」の姿を思い浮かべました。

 何のことかわからないでしょうが、30年くらい前に観た映画「青春の蹉跌」の1シーンなのです。映画館で何回か観て、BSでも一度観ただけなのに何でか克明にいろんなシーンを覚えているのです。若い頃に観た映画に何本かこんなふうに刻印されたものがあります。

 映画は石川達三原作 神代辰巳監督 出演 萩原健一 桃井かおり 壇ふみ 森本レオ 等の顔ぶれです。時代を背景として学生運動あり、貧困からはい上がろうとする青年、将来が約束されようとしている結婚、その前にたちはだかる欲望と過去そういったものがどろどろと描かれていくのです。

 自分の周りにまとわりつく現実をふりほどいて、美化された将来に向かおうとする時に主人公の口から出てくるまるで呪文のようなことばが「えんやとっと、えんやとっと…」なのである。切ないテーマソングとこの呪文が妙に心に残る映画でした。

 司法試験をめざし、次々に突破していき将来を嘱望されている矢先、妨害が入ってきて、事件を引き起こしてしまい、挫折していくというようなありきたりのストーリーなのですが、何ともいえない切なさがありました。観た時に自分が青春まっただ中だということがあると思いますが、いいとこのお嬢様役の壇ふみとすさんだ家庭の短大生の桃井かおりが対照的に描かれていて、女性観という角度から観ても面白いかもしれません。

 大学に入ることで自分の生活もかわっていくんじゃないかという自分の中の変身願望やはい上がりたい気持ちが、この映画のテーマと波長があったのかもしれません。当時の小説の中でも、松本清張や森村誠一の中にもこのようなテーマがたくさんあったように思います。

 映画の中で司法試験をめざしていた先輩方が次々に離脱していく姿を見せつけながら、そこからの帰りにもやっぱり「えんやとっと…えんやとっと…」のつぶやきながら歩いていく主人公…。

 そんな映画のことをどうして思い出したんだろう?

 「えんやとっと…えんやとっとと…まつしまの、えんやとっと…えんやとっとと…」
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翻訳こんにゃく

2006-05-24 23:01:07 | 障害児教育
 毎日、朝の会で『昨日のお話コーナー』をやっています。昨日のできごとをみんなの前で話すようにしています。時間をおいた出来事の再現と、相手にわかるように意識して話すことを目的にしています。お家からくる連絡帳をヒントにいろんな話を引き出せるようにしています。

 けろちゃんは、今4年生です。入学した頃に比べると発音はかなりはっきりしてきていますが、時々さすがに聞き取れなくて何度も言わせるのが、つらくなるのであいうえお表を持ち出して聞くことがあります。そのあいうえお表のことをクラスでは「翻訳こんにゃく」と呼んでいます。「翻訳こんにゃく」とはドラえもんのポケットから出てくる道具の一つで、これがあれば宇宙人でも外国人でも誰とでも会話ができる不思議な道具なのです。

 今日の話はほとんどわかったのですが、ただ一つわからないことばがありました。2回くら聞き直したところでけろちゃんは、自分から「翻訳こんにゃく!」と叫び、カードを取りに行きました。

 あいうえお表をたどっていくと、「ボーフカレー」になりました。「これでいいのか?」と尋ねるとこれでいいと答えます。「ポークカレーじゃないの?」と聞いても「違う!」と断固「ボーフカレー」だと言い張ります。

 正しいことばを言ったり、書いたりする時に正しく聞こえ、正しくそれを音の通り再現することの難しさをあらためて実感させられたできごとでした。真相は後日お母さんに確認したいと思います。

 音だけ聞いて勘違いして覚えることばってけっこうありますよね。歌の歌詞など、変なところで伸ばすからわかりにくいところがありますよね。

 子どもの頃、友だちに徳ちゃんという面白い子がいました。黛じゅんという歌手がいてその人のヒット曲に「夕月(ゆうづき)」という曲がありました。友だちはある日得意そうに「昨日姉ちゃんが“たづき”というレコードを買ってきた!」と言いふらしていました。最初はみんなポカンとしていたのですが、漢字の「夕」のところをカタカナの「タ」と読み違えていると気づいて大爆笑でした。それから彼の名前はしばらく「タヅキちゃん」でした。

 勘違いつながりでもう一つ紹介します。これは某養護学校の学部主事になった同級生の話です。小学校3年生の時にアポロ計画が月面着陸の可能性を見せた時に、学習発表会の劇でこのことを取り上げることになりました。
 田舎の小学生がああだこうだ議論した時に「宇宙人を登場させるべきだ!」ということになりました。「宇宙人の台詞はどうする?」という話の時に、突然日頃あまり発表もしない文ちゃんが手をあげて「カタカナでしゃべったらいいと思います」あまりのできごとに司会をしていた私は、まじめにしゃべっているのか疑ってしまいました。それ以来この文ちゃんはどこか違った世界に生きている人だと思うようにしました。
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映画について

2006-05-23 23:59:26 | 映画
 自分のブログに映画の感想など書いておいて今さら言うのも変ですが、映画を評価するというのは何なのでしょう?映画の話をするとけっこう盛り上がることもあるけど、話している人と映画の価値観が違った時の気まずさったらないですね。時によっては、「こいつと二度と口きいたるかい!」と思うこともあります。

 女性と話して代表的な例は、「映画は現実を忘れるためにあるもの」などと言われる方がいます。そういう方が見られる映画は、大それた古典的ラブソトーリーだったり、ラブコメだったりします。一方であり得ないようなSFXなどもお好きなようで、こういう方とは「あっそう…」くらいで話を合わせるようにしています。

 テレビの視聴率を稼いでいるようなドラマを見るとだいたいその傾向は顕著なような気がします。あり得ない話ばかりが目白押しです。「どこにそんなやつがおるんじゃー!」とテレビにつっこみをいれても始まらないのですが…。  結局、何が言いたいのかというと映画は好きずきで何を見ようと、何を評価しようといいんだよということです。

 でも、何を評価する(何を良いものと選択する)という基準のようなものは、人を判断するときに有効な手段になりえるということです。「面白ければいい!」「泣ければいい!」「心がほんわかすればいい!」いろんな基準があるのだと思います。

 何かを表現するしようと思う時に、メディアはいろんな形があると思います。落語のような口承文化、純粋にメロディだけの音楽。歌詞をともなった歌、その小説や詩のような読み手が頭の中で描き出す世界に頼るような文化、この場合読んだ者どうしが交流しなければ、それぞれの読み手の世界は無数に存在することになります。

 今問題にしている映画というメディアは、作り手が自分の頭の世界で映像化したものを相手に伝えようとしているものです。その時、描き手が何を表現しようとしているのかはつかみ取りたいと思います。例えば荒唐無稽であっと驚くような表現を駆使していたマトリックスやターミネーターも元のストーリーはありえない矛盾に満ちているようなものです。

  あるいは、ワイヤーアクションにあふれている中国映画の大作などもストーリーは敵討ちだったり、ただの時代劇だったりするようです。  見終わった後で、「何だったんだ!金と時間を返せ!」と思うか、「ああ面白かった!楽しい時を過ごせた!」と思うかの違いだと思います。初めの話にもどりますが、後者の場合はやっぱり『現実逃避』になってしまうのかな?と思います。

 …となれば、現実逃避型の映画がどんどん量産されているアメリカ映画は、逃避させたい現実がたくさんあるということなんじゃないかと思ってしまいます。ベトナム戦争の傷跡生々しいアメリカで、映画の世界はどんどん宇宙を描いていたことを思えば、的外れの話ではないのでは…。
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お魚くわえたサザエさん

2006-05-22 23:06:35 | 障害児教育
 障害児教育をやっていると面白いできごとに何度か出会います。子どもたちはユーモアのつもりでやっているのではないんだろうけど、思わず笑ってしまうことが何度もあります。
 相手の失敗を笑うつもりはないんだけど、「こういう間違い(ボケ)はちょっと思いつかないよな」と後で感心するほどの出来事も少なくありません、下手なお笑いを見せてもらうよりはずっと面白いかもしれません。

 先日、こんなことがありました。タラちゃんが突然歌い出しました。「お魚くわえたサザエさん。おっかけて…」思わず吹き出しました。お魚くわえたサザエさんを想像してしまいました。これなちょっと怖い…。みんなにウケたと思ったタラちゃんは何度も歌います。他の子どもたちも笑いながら真似をします。

 そこで、「タラちゃん、違うよ。お魚くわえたどらねこ追いかけて…だよ」すると、ケロちゃんが「違うよ。お魚くわえたサザエさんだよ」と言います。「何言ってるの…」と思いながら「もしかして、子どもたちのとらえ方ってこんな間違いをたくさんしているのかな?」と思い、このことを日頃の実践に生かさなければと思っていました。

 でも次の日、同僚のふうちゃんが「お魚くわえたサザエさんって流行っているみたいですよ。ネットに替え歌がたくさんありましたよ。きっとお兄ちゃんがふざけて歌っているのを聞いて、それが本当と思いこんだんじゃないんですか?」なるほどyahooで検索してみるとたくさん存在していました。

 子どもが示した行動をわかった風に解釈して、それに理屈をつけて納得してしまう…。これって怖いですね。レッテルを貼ってしまって子どもたちを知らず知らずのうちに傷つけていることもあるのかもしれません。

 子どもがやったことを、いいふうに勘違いしてほめることによってその子の行動がうんと変わることもよくあるものです。でも、悪い勘違いもあるだろうから肝に銘じないといけませんね。

 頭ごなしではない事実に基づいた評価をしていきたいですね。
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