Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

EOSな日127. 審査付学術論文

2017年12月20日 | field work

 北浜の近代建築群の一つに芝川ビルがある。竣工は1927年(昭和2年)、近年アート・芸術事業から撤退する企業が多い中で大阪の街を豊かにしてくれる、というのがWEBの伝えるところ。丁寧に改修され、いまでもなかなかよい店舗・業務空間になっている。いつまでも長く使い続けたいと思わせる清潔な空間だ。地下にはベトナム料理のレストランがあり、ドライエリアを設けて地上からの光を導いているあたりは当時の丁寧な設計がうかがえる。

 このブログも大学の話が続いた。大学教員採用時の業績評価の柱である審査付学術論文について書いておこう。

 審査付学術論文とは、アカデミズムの学会によって多少のルールの違いはあるが、総じて投稿されて論文が専門家審査員の審査を受けて、これならば学会誌に掲載してよいとか、あるいは論文の内容でいくつかの問題点を指摘され、その修正に応じ、かつ修正箇所を学会の書式で記述した上で再投稿した後再審査をしたりして、合否が決定される学会の審査制度に基づいたものである。大体は専門会員から後者の修正箇所を盛大に指摘される場合が多い。そうして審査にとおれば学会誌に掲載され実績が1となる。そうなる採択率は日本建築学会の俗にいうイエローペーパーだと50%以下と記憶している。つまり半分は否とされるわけだから頑張ってかかなければならない。研究期間も含めると通例は1年以上の時間をようする。

 私在籍していた研究科では、大学院生で博士論文を提出し学位申請ができるまでには、こうした審査付学術論文2編を学会に投稿し合格しておくことが学位申請の前提条件になっている。だから博士後期課程は、研究のなかで審査付学術論文が学会の審査にパスするよう日夜研究努力をしているわけである。となれば教員は、審査付学術論文の指導ができなければならない。当然教員も審査付学術論文を多数投稿し、頭のパワーを磨いているわけだ。教員が院生を指導して審査付学術論文を投稿したが学会の審査が通過できないでは格好が悪いからね。

 大学教員になるのには、この審査付学術論文の本数がものをいう。当然本数が多く、大学の考え方や必要とする人材分野とが合致していなければならないなど採用には付帯条件がいろいろついてくる。今はオーバードクターという言葉があるように、博士号は取得した、だが勤務先がないとする人間が多いから、教員採用の場面でおおかたは博士の学位は取得している応募者が圧倒的に多い。

 従って教員のキャリアというのも審査付学術論文数ということになる。これが文科省がいうところのキャリアとなる。だから私学のように人寄せパンダ的役割をもった著名人が大学へ特任教授できても審査付学術論文がなければ、自分のキャリアや賞を自慢したところで資格0の人ですねと大学人の意識はそっけないわけである。それを知らぬは著名人達であり、どんなにはしゃごうがキャリア教員からは冷たく見放されている。そうした冷たさが大学なのである。

 そんなわけで私自身も審査付学術論文が28編あった。まあ天皇陛下と同じ数だけ書いたと自慢してもしょうがないのだが(笑)。

 こうした論文の他に審査のない学会の大会用発表論文がある。審査がないのだから、まあ気楽に投稿できるのだが、これは研究のビギナーが論文訓練のために行うことが圧倒的に多い。まあ大学院を指導していれば、私の場合、62編ほどの大会論文があった。業績所には書いてもよいがたいした評価はされない。

 補足だが、イギリスの科学雑誌Natureの投稿案内をみてみよう。投稿された論文は査読に送られるかどうかの判断が編集側でなされ、査読に送られると雑誌の担当編集者が査読者を選びます。その選定基準は、論文投稿者やその所属機関と無関係であり、論文の技術的側面を評価でき、他の論文で査読を行っており、要請された期日までに投稿論文の評価ができるとする4項目である。

 そして投稿論文の合否は誰が決めるかといえばNatureの編集部であり、学識経験者ではない。そこに学会などからの影響を排除するための独立性を確保しているわけである。そうした論文の採択率は4%とすこぶる難関である。従って専門家が査読はするが、学会に所属する学識経験者が査読する日本の学術論文の審査とは異なっている。

 それを思うと小保方問題を思い出す。学術論文ではなく科学雑誌Natureの編集部が科学的価値を認めたのだから、特段メディアや社会からたたかれる理由はない。それにしても、大いにメディアから論文以外の周辺を探られてたたかれ職も失ったのだから、これは日本社会あるいはメディア固有のいじめ現象とする解釈もうかがえる。日本のメディアは、弱いものいじめが好きなんだというのが私の理解。

 もし共著で執筆された小保方論文を、今後発展させてスタッフ細胞ができちゃったら、メディアはどのようにいいわけをするのだろう。科学は、時間軸のなかでみれば様々な理論がひっくり返ったりもする。それを踏まえてのNatureというフォーラムが提供されている。

 そんな社会的物議を表出させた古い例では、ニュートンの万有引力の法則があげられる。いま私たちは、この法則に従って建築を成立させている。だからなんでも今という限定的な視点で成否を判断するのではなく、スパンをもった時間軸で判断することが大切なのである。

 

大阪市中央区

EOS1Ds Mark3,EF16-35mm/F2.8 L USM

IOS1600,焦点距離35mm,露出補正0,f/4.5,1/80

 

 

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