"四季折々 この一枚″

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奈良・東大寺を見る 4

2012年04月30日 15時16分12秒 | 紀行

二月堂の上から西方を見る。中央、大仏殿の屋根が見える。

大仏殿から東へ、坂をあがったところに「二月堂」がある。
過去に兵火や失火で焼けたが、現在のお堂は、1669年に再建されたもの。
これも国宝。

本尊は十一面観音。三月一日から十四日まで行われる修二会は、
お水取りの行事で知られている。

お水取りの行事を修二会と呼ぶようになったのは平安時代で、
関西では、「お松明(おたいまつ)」と呼ばれることが多い。

国宝の二月堂といえども、いまや、外国人観光客を無視するわけにはいかない。
外国語の案内文字も目立つ。

画面の手前は「閼伽井屋(あかいや)」、別名「若狭井(わかさい)」と呼ばれる井戸。
「お水取り」では、この井戸から香水を汲み、本尊に供える。

お水取りの行事は、「興隆仏法」「天下安泰」「万民豊楽」「五穀豊穣」を
祈ったとされている。

(つづく)


奈良・東大寺を見る 3

2012年04月29日 10時00分45秒 | 紀行

修学旅行か遠足か、東大寺には、生徒たちの姿が多かった。

修学旅行といえば、昔は「秋」の行事だった。それが、4月から始まっているのだ。
観光バスの駐車場も入れ替わり立ち代り、バスの出し入れで混雑していた。

鹿だけは、いつもと変わらぬ様子だ。春は、毛が生え変わる時期なのか、いささか、汚かった。

(つづく)


奈良・東大寺を見る 2

2012年04月28日 14時16分46秒 | 紀行

奈良時代、聖武天皇によって創建された東大寺は、大仏殿が完成した翌年の
天平勝宝4年(752)に大仏開眼供養が行われた、といわれている。

東大寺は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂と南北に一列に並んで建てられた。
これは、「中門」。

その後、何度か兵火にあい、現在の大仏殿は、江戸時代、18世紀初頭(元禄時代)に
再建されたものと伝えられている。

この大仏殿の高さは、46.8m、間口は、再建前の3分の2で、57mと言われている。

本尊は盧舎那仏。
大仏さんの座高は14.98m、蓮華座高は3.04m。

掌の長さは1.48mもあるそうです。

(つづく)


奈良・東大寺を見る 1

2012年04月27日 15時59分28秒 | 紀行

華厳宗大本山 東大寺。
先に見えるのは、その「東大寺」の南大門(なんだいもん)です。

1199年に上棟され、1203年、左右の仁王像とともに竣工した。国宝です。

門の高さは基壇上25.46m。わが国最大の山門。
奥に見えるのが金堂(大仏殿)です。

南大門の左右にある「金剛力士立像」。
大仏殿に向かって右が「吽形」(うんぎょう)、左が「阿形」(あぎょう)。

高さ8.4m。これも国宝です。

この日、修学旅行生が多く、引率の先生が声をからしているのが気になった。

(つづく)  

 


わらじや

2012年04月21日 10時04分02秒 | 紀行

京都市東山区七条通本町東入ルにある「わらじや」。

  

  

   創業400年余りという老舗。

   豊臣秀吉がここで休憩をとり、わらじを脱いだと言い伝えられている。

   玄関脇の大きな「わらじ」の飾りもそこから来たらしい。

   場所は、三十三間堂の西北側になる。

  

   料理は、「う雑炊」のコースのみ。

     抹茶にらくがん、先付け、う鍋、う雑炊、漬物、果物と 出てくる。

     伝統の「う雑炊」一品だが、味も逸品だった。

  
 

 

 

 

趣のある建物は、京都風の料理屋さんで、2階からも中庭が見え、風情がある。

歴史のある店だけに、ご存知の方はともかく、「京都の旅」を楽しまれたついでに、
一度、味わってみられるのも、「話のタネ」になるかとおもいます。 


洛東遺芳館 2

2012年04月19日 16時13分53秒 | 紀行

洛東遺芳館については、先の 1 で詳しく説明しましたので、ここでは、
邸の内部の写真を見ていただきます。

部屋は、よく手入れがされておりきれいだった。部屋の数が36と聞いて驚く。

 

 洛東遺芳館が収蔵する遺産は、婚礼衣装や調度品など8,000点、
古文書や古書籍など 1万冊に及ぶという。

ここに写っているのは、この日、部屋に出ていたものだけで、季節によって並ぶものも
異なってくるのだろう。

玄関脇の井戸。金属製の水桶も、さすが、と言った感じ。

とにかく、豪商の「夢のあと」、とでも言うべきか。
これを維持していくだけでも大変なことだろう。

それにしても、屋敷内を自由に見学させてくれるおおらかさ。
ひと時、目の保養をさせてもらった。


洛東遺芳館 1

2012年04月18日 11時05分31秒 | 紀行

洛東遺芳館(らくとういほうかん)。

あまり聞きなれない建物ですが、たしか、新聞で読んだことがあり、せっかく、
京都の洛東へ来たことでもあり寄ってみました。

京都の豪商の屋敷跡というだけに、問屋町通五条下ルに面した玄関は、間口も広く、
立派な門構えの屋敷でした。

この遺芳館の母体、柏原家は、肥後熊本の藩主加藤清正公の家臣、柏原郷右衛門を祖と
すると言われ、初代、三右衛門が1645年に、この地に居を構えました。

最初は「京小間物」や「扇子」などを商い、元禄のころからは江戸へも店を出し、木綿や
漆器、紙なども扱い、「江戸持ち京商人」として豪商の列に加わったと言われています。

柏原家の家訓は薄利多売がモットーで、三世紀半を経た今日も、木綿店を除いて
「柏原紙商事㈱、㈱黒江屋」として堅実な経営がつづいているという。

その「先人たちが蓄えた文化遺産を散逸させず、社会に還元したい」と、昭和49年から
この柏原家旧邸に「洛東遺芳館」の名前をつけて、春秋二回、屋敷や所蔵品を
一般に公開してきました。

訪れたときは、「平成24年春季展」として「美人画展」が邸内に造った収蔵庫の
「展示館」で公開されていました。

 1、2階の展示場には、鳥居清長や喜多川歌麿ら18人の作品、
48点が並んでいました。       

(つづく)


墨染寺・桜寺

2012年04月17日 15時19分29秒 | 画像

京都市伏見区にある「墨染寺」(ぼくせんじ)。桜寺とも言う。京都の桜の名所でもある。

4月15日、すでに満開の時季は過ぎていたが、こじんまりした本堂に、それなりの趣を感じた。

平安時代の歌人、上野岑雄(かんつけのみねお)が、友人であった、藤原基経(もとつね)の
死を悲しんで、「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け」と詠んだ。

すると、桜が薄墨色の花を咲かせたと言い伝えられており、そこから、墨染桜(すみぞめさくら)
と名付けられたと言う。

お寺は「ぼくせんじ」で、桜は「すみぞめさくら」と言うのも面白い。

境内にある現在の墨染桜は、三代目、と書いてあった。


「ダム」と「サクラ」 2

2012年04月14日 15時32分07秒 | 画像

「さくら」続きで恐縮ですが、今日、午後から、また、近くの一庫(ひとくら)ダム直下の公園へ
さくらを撮りにいってきました。

先週の7日(土)は、まだ、つぼみ程度で、「サクラ」は写真になりませんでしたが、
今日は、満開、いや、散りはじめ、と言えそうでした。

4月8日付けの当ブログのさくらとくらべていただければ、
よくお解かりいただけるかとおもいます。

いつまでも寒い寒いとおもっていたら、
春は、足早に通り過ぎようとしているのでしょうか。


さくら 満開

2012年04月12日 14時33分30秒 | 画像

ようやく、桜が満開になった。

兵庫県川辺郡猪名川町では、4月8日に町内の原川沿いで、

「いながわ桜まつり」を開催した。

ところが、あいにく、当日は、桜がつぼみ程度。

それが、今日、12日には満開になった。

原川の堤、松尾台の斜面に植えた桜も大きく成長し、遊歩道も完成した。

まつりを主催した町役場の人たちも、ホットしたことだろう。

それにしても、「桜」という木はむつかしい。


五分咲きの「桜」

2012年04月10日 10時06分34秒 | 画像

「今年は、ほんとうに桜が咲くのか」とおもっていたら、一夜明けた9日、
近所の桜が五分咲きの花を開いた。

関西では、これから桜の時季を向かえるのだろう。


「ダム」と「さくら」

2012年04月08日 15時07分25秒 | 画像

兵庫県川西市にある一庫(ひとくら)ダム。
「桜の季節の土・日曜日にダム直下の公園を開放し、桜を楽しんでもらう」と言うので、
7日の土曜日に、その桜を観に行ってきました。

ところが、桜は、まだ、つぼみで、花見とはいきません。
(「春夏秋冬 まいブログ75」にも掲載しています)

つぼみが膨らんでいるところを探してもこの写真です。

ダム事務所の話では、来週の14・15日にも、
もう一度、ダム下の公園を開放したいと言っていました。
来週は、大丈夫でしょう。

 

 


船場周辺を訪ねて 5

2012年04月03日 13時53分50秒 | 画像

難波橋筋と伏見町通の東南角にある「伏見ビル」。その、東隣にあるのが「青山ビル」。

レトロビルが並んで残っているのも珍しい。いずれも大正時代の建築と言う。

伏見ビルは、元はホテル。青山ビルは、個人の邸宅だった。現在はテナントビルになっている。

土佐堀川から南へ下がった今堀通にある武家屋敷風の木造建築。
これが、「大阪市立愛珠幼稚園(あいしゅようちえん)」だ。

明治の初め、北船場の連合町会の人たちは自分たちの手で幼稚園をつくり、
やがて、市に移管する。
重要文化財のこの建物は、明治34年(1901)の建築になる。

幼稚園の玄関前には、「銅座の跡」の石碑が建っている。

江戸時代、日本は世界一の「銅の生産国」だった。
幕府は、「大阪にその銅を集め精錬させた」という。
銅座として栄えた記録の石碑である。

 それにしても、あの、太平洋戦争の激しい空襲を逃れて、
よくも、これだけの建物が残ったものだと感心する。

ここに登場する建物は、すべて、昭和20年以前に造られたものだ。
まして、木造建築物まで現存している。

大切に後世に伝えていかねばとの思いを新たにした。

(写真は3月29日撮影 この項、おわり)

 

 


船場周辺を訪ねて 4

2012年04月01日 13時29分34秒 | 画像

変わり行く「船場」ではあるが、新しいビルばかりではない。また、古いビルばかりでもない。
そこは、「いとはん、こいさん」の世界だっただけに、木造の家屋も残っている。

この角地の家ではないが、町中で風変わりな料理屋の看板を見つけた。

いわゆる、古い町屋を生かした飲食店が、結構、昼時のサラリーマンを集めていた。

(つづく)