"四季折々 この一枚″

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映画「武士の献立」を見る

2013年12月28日 12時30分26秒 | 報告

このあわただしい? 年末に、映画「武士の献立」を見ました。

話は、江戸時代、加賀藩に実在した、「包丁侍」舟木伝内と、その息子の安信の物語。

この親子が、優れた味覚と料理の腕を持つ、出戻りの女性、春を息子の嫁にもらって、
諸国大名をもてなす豪勢な饗応料理をつくるまでに成長する話です。

それにしても、昔の武士たちは「よく食べたもの」だと感心しました。

饗応料理は、「七の膳」までつづきます。

刀ではなく「包丁」で藩に仕えた武士。料理で動乱を乗り越えた実在の家族。

主役を演ずる、上戸 綾、母親の余 貴美子。
出演者たちの熱演も映画を楽しく見せてくれました。

こう言ってはなんですが、先に見た「利休にたずねよ」にくらべれば、よくできた映画だ
とおもいました。

映画を見おわって感動をおぼえ、気持ちが明るくなりました。


皆様にとって、「新しい年が良い年でありますよう」願っています。

 

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「鬼平犯科帳」の世界

2013年12月23日 20時32分16秒 | 画像

池波正太郎氏の「鬼平犯科帳」。ご存知、長谷川平蔵の活躍する捕物帳です。

中村吉衛門が「鬼平」で、テレビ映画として長く放送がつづいています。

きのう、たまたま、録画をしていた同番組を再生していたら、
最後のタイトルバックに11月に訪ねた京都「今宮神社」の参道が出てきました。

 

テレビでは、この常夜灯の右に屋台のそば屋が店を出しています。

現地ではなんとも珍しい風景だ、とおもっていましたが、
あの「犯科帳」の一場面につかわれていたのです。

おわりのタイトルバックですから、出演者の人数によって、変わってきますが、
写真の部分は番組の紹介字幕の10カットめぐらいです。

毎回、画面にでてきます。機会があればご覧ください。

なお、今宮神社(京都市北区紫野今宮町)東参道の『「あぶり餅」と今宮神社』は
このブログの11月25日に掲載しています。

 

(追) 上記の「毎回、画面に出てきます」と記載したのは誤りでした。
編集上、カットされているものもあるようです。訂正します。)

 

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あべのハルカス

2013年12月20日 10時59分46秒 | 画像

地上60階、屋上300メートルの「あべのハルカス」が完成し、報道陣に公開されました。

最上階の展望台からは、周囲360度、遮るものはなく見晴らしは抜群とか。

来年の、3月7日にオープンするそうです。

                                (写真は、11月29日に撮影したものです)

 

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「戊辰戦争」発端の地を見る(4)-淀

2013年12月12日 10時41分32秒 | 紀行

錦旗を掲げた新政府軍に対して、幕府歩兵隊や会津藩兵、それに新選組ら
旧幕府軍は、数こそ優勢でしたが砲火に劣り、
京都への前進は阻まれます。

4日には、鳥羽方面で一時、盛り返したとは言うものの指揮官らの
相次ぐ戦死などで退却、
淀から南で態勢を立て直そうとします。

上の写真は、京都方向から南方向を撮影した京阪電車「淀駅」付近です。

京都市伏見区納所(のうそ)の
鳥羽街道沿いに、「妙教寺(みょうきょうじ)」というお寺があります。

お寺の境内は、かって、淀君(茶々)が鶴松君を生んだという、
「淀古城」の本丸があったところと言われ、この付近でも
両軍の激戦が展開します。

妙教寺の本堂に、東軍の大砲の弾痕が残っています。

本堂の西側の板壁を突き抜けた砲弾は、
本堂を横切り、反対側の直径、約35cmの柱を貫通しました。

砲弾の飛び込んだ箇所には、
「戊辰ノ役(慶応四年 一八六八)東軍砲弾飛込口」の
表示が読み取れます。

柱にも「砲弾貫通柱」と書いた板が掲げられていました。

飛び込み口には、ガラスがはめられ、風雨を防いでいました。

 

淀駅近くには徳川時代になって建てられた淀城の跡があります。
今は、石垣と森が残るだけで公園になっています。

旧幕府軍は、5日、現職の老中でもあった稲葉正邦のこの淀城に入り、
戦況を立て直そうとしますが、藩主が江戸に滞在し、留守の淀藩は
城門を閉じて旧幕府軍の入城を拒否します。

このため、旧幕府軍はさらに南の男山、橋本方面へ退却します。

 現在の京都競馬場の駐車場入口脇に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の石碑と
慰霊碑がありました。

 慰霊碑には
「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない それが日本人同族の争でもあり 
いづれもが正しいと信じたるままにそれぞれの道へと己等の誠を尽くした
 然るに流れ行く一瞬の時差により或いは官軍となり 或いは幕軍となって士道に
殉じたので有ります ここに百年の歳月を閉じ 其の縁り有る此の地に不幸賊名に
斃れたる誇り有る人々に対し今慰霊碑の建つるを見る 在天の魂以って瞑すべし
                                            中村勝五郎
昭和四十五年 奉」
の碑文が読み取れました。

鳥羽・伏見から淀へかけて、たくさんのお寺があります。

お寺には戦死者を悼む埋骨碑や
戦跡を伝える石碑が多く建っていました。


1月6日、旧幕府軍は石清水八幡宮のある男山の東西に分かれて
布陣します。

戦況は、ここでは旧幕府軍に有利に見られていましたが、
西の大山崎を守備していた津藩が、朝廷の命に従い、
旧幕府軍へ砲撃を加えました。

おもいもかけない西側からの砲撃に、旧幕府軍は総崩れとなって
淀川を下って大阪へと逃れます。

この写真は、公園になった「淀城跡」から南方向を見たところです。

 

徳川慶喜は、1月6日夜、大阪城から、ひそかに大阪湾にあった幕府の軍艦
「開陽丸」へ脱出、側近とともに江戸へ逃れます。

同年4月、江戸城が無血開城。

8月には、明治天皇が即位、9月に「明治」と改元されました。

そのとき、「慶応4年を明治となす」と詔書にあることから
この年の1月1日からを「明治」と定めました。

翌、明治2年5月には五稜郭の戦いもおわり、「戊辰戦争」は終結。

日本の新しい時代が始まりました。

 

(鳥羽周辺は10月28日に、伏見周辺は11月16日に、
                    淀  周辺は10月12日に、撮影しました)

                                (「戊辰戦争」発端の地を見る  おわり)

 

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「戊辰戦争」発端の地を見る(3)- 伏見その2

2013年12月09日 10時32分52秒 | 紀行

伏見の町は東側が高台で、西南方向へなだらかな下りになっています。

その市街で3日夕方から激戦が展開しました。

御香宮(ごこうのみや)神社に布陣した薩長土らの連合軍は
高台にすえた大砲を大手筋を挟んで南方向に当たる
「伏見奉行所」に撃ち込みました。

奉行所に陣を置いた土方歳三率いる新選組らも
刀槍で応戦しましたが、大砲の力には勝てず、やがて、退却。

市街戦の末、奉行所は焼け落ちます。

この奉行所跡は明治維新以後は陸軍の基地になり、第2次大戦後は米軍に接収、
現在は住宅地や公園、学校にかわっています。

会津藩が陣所とした「東本願寺伏見別院」には、
門の前に「会津藩駐屯地跡」の石碑が建っていました。

二日間にわたって激しい市街戦が展開された伏見の町ですが、

京阪電車「伏見桃山駅」の東側、京町3丁目にある料理屋、

「魚三楼(うおさぶろう)」の表には、当時の弾痕の跡が

保存されていました。

両軍の戦闘は、3日・4日とつづき、町の南半分は
戦火に焼失したといわれています。

あの旅籠「寺田屋」も罹災、焼失しました。

現在の寺田屋は昭和30年代に再建されたものだそうです。

今はのどかな、十石舟の船着場も、当時は戦乱に巻き込まれたのです。



 

1月4日、京都を守る薩長藩には、錦旗を持った仁和寺宮義彰親王が
征討大将軍として出陣し、薩長軍は正式に官軍となりました。

これは、以後の戦局に大きな影響をもたらすことになります。

錦旗に戦意の衰えた旧幕府軍は淀方向への後退がつづき、
淀でも激しい戦闘がありました。

(次回、「戊辰戦争」発端の地を見る(3)は、「淀」をお伝えします)

 

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「戊辰戦争」発端の地を見る(2)ー伏見その1

2013年12月08日 14時05分27秒 | 紀行

伏見は、先の「城南宮」から東南へ直線距離にして2キロ余り。

会津藩、桑名藩を主力とする旧幕府軍は竹田街道を北上し、
3日には伏見市街へ進んできました。

そして、旧幕府軍は、現在の京阪電車「伏見桃山駅」の東南にあった
「伏見奉行所」や市内の寺に入って薩長軍と対峙しました。

伏見奉行所は、この京阪電車「伏見桃山駅」の東南方向へ
200mのあたりにありました。

線路はこのあたり、南北に走っており、商店街の先方向が西になります。
従って、奉行所はこのカメラ位置からは左方向です。

新選組は伏見警備のため、前年からこの伏見奉行所に本拠地を置いていました。

伏見奉行所跡の石碑からさらに南へおよそ300mに市立桃陵(とうりょう)中学校があります。

この中学校の正門を入ったところに石碑が集められていて、
中に、「維新戦跡」の石碑もありました。

また校内のグランドに、「伏見奉行所跡」の別の石碑もあり、
当時の奉行所がかなり大きかったことがうかがえました。

この旧幕府軍を阻止するため、薩摩、長州、土佐藩を主力とする連合軍は、
現在の近鉄「桃山御陵前駅」の東100mにある「御香宮神社」(ごこうのみや)に
陣を構えました。

 

拝殿の右、駐車場の奥に佐藤栄作氏筆の「明治維新 伏見の戦跡」の石碑と

説明板がありましたので、それを先に見ていただき、あとを続けます。

                 (「戊辰戦争」発端の地を見る(2)ー伏見その2 は、次回に続きます)


「戊辰戦争」発端の地を見る(1) - 鳥羽

2013年12月06日 13時52分40秒 | 紀行

NHKの大河ドラマ「八重の桜」も終わりに近く、「今さら」という気もしますが、
手術後の足慣らしに、戊辰(ぼしん)戦争の発端の地を見てきましたので、
シリーズで3回に分けて掲載します。

京都市伏見区中島御所ノ内町、「城南宮」の南西、約700mの

「鳥羽離宮跡公園」にある「戊辰戦争」(鳥羽伏見の戦い)の碑石です。

明治維新のきっかけとなったこの内戦は、「戊辰戦争」、または、
戊辰役(ぼしんのえき)、「鳥羽伏見の戦い」とも呼ばれています。

旧暦の慶応4年(1868)1月3日、京都に向かう幕府軍の主力と
これを阻止しようとする薩長藩の兵が最初に、ここ、鳥羽で衝突、
戊辰戦争が始まりました。

この内戦は、この年が「戊辰」の年に
あたっていたので「戊辰戦争」と呼ばれたものとおもいます。

戊辰(ぼしん)は、古代中国で考えられた十干(じっかん)と干支(えと)を
組み合わせたもので、もともと、干支は、60を周期とする数字でした。

十干は、甲・乙・丙・丁・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)、の10種類。
干支は、子・丑・寅・卯・辰(しん・たつ)・巳・午・未(ひつじ)・申(さる)・
酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)、の12種類。

これを組み合わせていくと60年に1回、同じ組み合わせがめぐってきます。
「還暦」という言葉も、60年に1回もどってくるので、60歳が還暦と言われています。

ここは、大阪から京都へ向かう京阪国道(国道1号)の「城南宮前」です。

この城南宮前から南区九条町の「東寺」まで、直線距離にして約3.5キロ。

大阪から京都を目指した幕府軍はこの付近で進軍を阻止されます。

慶応3年10月、大政を奉還した徳川慶喜は、京都にあっては、
政局おもわしくなく、
恭順の意を表わすため、12月に大阪城へ退去します。

しかし、大阪にあった徳川慶喜は、京都にある薩長を中心とする政府に対し、
挙兵を決意。

慶応4年1月2日、歩兵隊・会津、桑名藩を主力とする旧幕府軍は、
京都に向かって軍をすすめ、
3日夕方には15,000の兵が鳥羽、伏見に布陣。

これを迎え撃つ薩摩、長州藩を主力とする新政府軍5,000が
鳥羽・伏見で衝突しました。

城南宮の西、約500mの伏見区中島秋ノ山町の角地に建つ、
「鳥羽・伏見の戦い」の戦跡の碑です。

この戦跡碑から少し西へ、土堤を上がると鴨川があります。

そこに、今は立派な橋が架かっています。「小枝橋」です。

橋の欄干には、「こえだばし」(小枝橋)とあります。

当時、小枝橋は、もう少し下流にあって小さな橋だったそうですが、
ここが、戊辰戦争発端の地になりました。

1月3日の夕方、この橋の付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と旧幕府軍が
「通せ、通さぬ」で押し問答になり、
ついに、薩摩藩兵が発砲、ここに両軍が衝突しました。

小枝橋から500メートルほど東の「城南宮」に布陣していた長州藩兵も
「小枝橋」付近の衝突に気づき、戦端を開きます。

当時は、道も狭く、長い隊列を組んで進む旧幕府軍は、
薩長藩の砲火の前に前進を阻まれ後退を余儀なくされます。

さらに、伏見でも鳥羽方面での砲声が聞こえ、
竹田街道を北進してきた幕府軍と、これを迎え撃つ薩長藩の間で
戦闘がが始まりました。

戊辰戦争の発端となった「鳥羽伏見の戦い」は、

①の鳥羽地域から②の伏見地域へひろがります。

そして、薩長の強力な砲火に圧倒された幕府軍は、③の淀へと退却し、
そこでも激戦が繰り広げられます。


(戦跡の記述は、できれば画面を拡大してお読みください。
画面上で右クリック、編集のコピーをクリック、ワード画面に貼り付け、
開いた画面を拡大すれば読みやすくなります)

(次回は、「伏見」の戦跡を見ます)

 

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クリスマスと師走・うめきたに人出

2013年12月02日 16時44分41秒 | 画像

ジングルベルガ聞こえたとおもったら、「師走」になりました。

グランフロント大阪の「うめきた広場」は日暮れとともにイルミネーションが輝き、
きのうの日曜日はたいへんな人出でした。

イルミネーションには23万個のLED電球を使い、節電には気を配っていると
言われています。

まだ、ボーナスには少し早いためか、人出の割には、買もの袋を下げた人は少なく、
歳末商戦もこれからと言ったところでしょうか。