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16日、JR新神戸駅南側の「ANAプラザホテル」
34階の「なだ万」で「いとこ会」を開きました。
18年ぶりの集まりです。
上の写真は、その34階から西方向を見下ろした
北野付近です。
参加者は7人の予定でしたが、
1人、体調が悪く欠席が出ました。
年齢は、90歳代前半から60歳前後まで、6人です。
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2枚目の写真は、明治の半ば、
石川県から神戸に出てきて商売を成功させた祖父が、
最初に足場を固めた三宮界隈です。
出席した6人は意外に元気で、久しぶりの近況に
花が咲きました。
私たちは大家族でした。
その中で、戦死したのは一人。叔父になる祖父の五男です。
彼は大正5年8月4日生まれ、
京都の「現 京都芸大」を昭和16年3月に卒業、
翌月、4月に出征。間もなく旧満州の牡丹江に赴任します。
その後、野戦重砲隊に配属になったそうです。
この叔父が出征した時、私は9歳だったことになります
戸籍によれば、彼の欄には、
『昭和拾九年拾貮月拾七日時刻不明比島レイテ島
ルピーオルモック東南六十二粁ニ於テ戦死
兵庫縣知事岸田幸雄報告 仝貮拾貮年拾月参日受附』
と、あります。。
戦況不利で北部戦線の兵力を南方海域に異動させた
日本の犠牲になったものとおもわれます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/fe/d3060a96d89b3e16e010fcc75b7f3447.jpg)
最後のこの写真は、平成28年に写した
神戸メリケン波止場付近の現在です。
祖父の子供(私たちの親)も
全員、鬼籍に入りました。
私たちも、「今は亡き人たちの冥福を祈る」黙祷から
始めました。
終戦後だったでしょうか、私の父親が
「戦死を知らせる箱には何も入っていなかったなあ」と
嘆いていた言葉を思い出しました。