"四季折々 この一枚″

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「能勢電鉄」と ともに「50年」 (9)最終回

2020年05月27日 15時44分50秒 | 紀行

昭和45年(1970)、私たち一家4人は、神戸の御影から能勢電鉄の沿線の

新しい造成地に家を建て、12月の半ばに引っ越してきました。

能勢電鉄の沿線は、その後、変貌、目覚ましく、長男は未だ完成まじかの

新しい小学校へは通学できず、自宅からかなり遠い地元の小学校へ通っていました。

長女は、その翌年、出来上がるのを待っていたかのように、近くの幼稚園へ

通い出しました。

子供たちが、学校へ落ち着いて通えるようになったのは引っ越してきて
2~3年後のことでしょうか。

写真は、整備された 国道173号の多田銀橋の東詰。鼓ケ滝駅の西になります。

能勢電鉄の沿線が住宅地として整備されてから、十数年後の風景です。

歌人、西行法師が、猪名川の滝の音を聞きながら詠んだという、

歌の石碑が、新しい街への道しるべになっています。

  「音にきく 鼓(つつみ)が瀧(たき)をうちみれば
                    川べに咲くや  しら百合の花」

交通量の多い国道のそばなので公園の中、とは言え「石碑」は目立ちません。

西行の歌は、猪名川に滝があった当時、(八百年あまり前)、有馬温泉の

帰路に、この付近で詠まれたものと言われています。

能勢の妙見山に参詣する目的で設立された「能勢電車」は、大正2年(1913年)、
「能勢電気軌道」と名付けられました。

会社の設立は、1908年5月(明治41年)です。

大正2年に、能勢口~一の鳥居間が開業。
その後、沿線の米や炭、三ツ矢サイダーなど、沿線の産物を運ぶようになり、
やがて、沿線の宅地化がすすみます。

1960年代に入って、阪急電車の資本も入り、社名も能勢電鉄株式会社と変わって
川西市の発展に大きな役割を果たしていきます。

当時、私はマイカーで会社に通っていたため、地元のことはよく解かりませんが、
家内の話によれば、現在の川西能勢口駅にある、スーパー「コーヨー」の南側に
鉄筋建てのスーパー、ジャスコができ、休みの日や学校が終わってから、子供たちを
連れて、その屋上にあった遊園地へ、遊びに「よく、連れて行った」、とのことです。



当時の川西能勢口は、その頃から、大きな変貌を遂げようとしていました。

能勢電鉄の複線化が急ピッチで進められるとともに、能勢電の絹延橋の西から

能勢口の駅にかけて、土地改良計画進み、能勢口に阪急川西百貨店が進出。

宝塚線と能勢電鉄が相互乗り入れをする、と言った計画話がすすんでいました。

1981年(昭和56年)、能勢電鉄の能勢口終点から国鉄の池田駅まで、産物を
運んだ路線が、ついに廃止されました。

晩年は、利用客も少なく、一日に数往復という寂しい運行だったそうです。

自動車輸送の発展に電車は、とうとう押し出されたことになります。

そうこうするうちに、川西能勢口駅は、阪急宝塚線の高架駅になり、能勢電も高架の
ホームに乗り入れ、ホームからホームへの乗り換えも可能になりました。

周囲の変化とともに、車内もきれいになっていきました。

能勢電鉄は、現在、運転士一人のワンマン電車とは言いながら、日々、工夫をこらし
ながら、朝夕は通勤客、昼間は生活者の買い物に役立っています。

季節ごとに車内の雰囲気も変わりました。

歴史を告げる写真電車や暖かい食べ物を用意した「おでん」電車。季節に
合わせた「風鈴電車」なども走ります。

山下駅から日生中央まで、線路が伸びて、朝は、特急「日生エキスプレス」が
乗り換えなしで、梅田まで走ります。

1989年(平成元年)、川西能勢口に「川西阪急」や「アステ川西」が開業。

古い「ジャスコ」はビルごと解体されて、あとにイオンとマンションが新しく

建ちました。

(川西能勢口駅南側のバスターミナルです)

小学校から高校と、川西に暮らした子供たちは、成長するとともに、家を出て

行きました。

長男は、京都の大学から東京の会社へ。娘は、芦屋の大学から就職へ。

長男一家は、東京に住み。娘は大阪の中之島で布を扱う商売をしています。

  (駅の南側、「アステ川西」と「川西阪急」です)

一口に「50年」と言っても、早いものです。
私たちも、ずいぶんと歳(とし)をとりました。

これから先、何年、生きられるのでしょうか。

新しい造成地に建った家も、今は、お年寄りが多く住んでいます。

家も、手入れが大変になってきました。

住まいの歴史と住人の変化に、一抹の寂しさを感じるこの頃です。

能勢電鉄の発展とともに伸びてきた川西の人口です。これからも、

さらなる、発展を期待して、筆をおきます。

 

          「能勢電鉄」とともに「50年」 ~おわり~

                                                                                            

                      

 


「能勢電鉄」と ともに「50年」(8)

2020年05月11日 15時32分57秒 | 紀行

新しい造成地に夢を抱いて変わってきた私たち一家。

小学校は、まだ建設中で、長男は自宅から遠く離れた隣町の小学校へ
転入していきました。

そして、長女は、母親とともに幼稚園を探して、走り回り、何とか
滑り込みました。

このころの能勢電鉄沿線は、新しい造成地を求めて建設関係者が入り乱れ、

新しい土地を求める人、引っ越しの荷物を積んだトラックなどが走り回って
いました。

こんなとき、川西能勢口駅の建て替えが話題になり、阪急宝塚線と能勢電の
相互乗り入れが進み始めました。

昭和50年、阪急日生ニュータウンが販売を開始。

日生線の開通と同時に開発が進み、川西能勢口駅の工事のため、能勢電鉄の
支線ともいうべき国鉄への連絡線(600m)は、1981年(昭和56年)12月に
廃止され、川西市栄町の歩道の一隅に、かつての車輪が、その名残りを止めています。

残念ですが、この電車には、私も乗ったことがありませんでした。

                          (つづく)

 

 

 


「能勢電鉄」とともに50年(7)

2020年05月05日 14時24分14秒 | 紀行

昭和45年(1970)能勢電鉄の沿線、新しい造成地にプレハブとはいえ、

一戸建ての家を建て、その年の12月13日に、神戸の御影から引っ越しました。

長男は、7歳、4月に御影の小学校の1年生に上がったばかり。

娘は、4歳で、「これから幼稚園へ」と言った年齢でした。

私は、マイカー通勤で会社が吹田市にあったため、通勤時間が短縮されました。

しかし、家族は大変です。

造成地の新しい家から、能勢電車の駅まで、子供を連れて歩いて下りるか、

川西能勢口まで、少ないバスダイアの中から買い物に合わせてバスに乗るか、

大変な苦労があったこととおもいます。

そのころ、能勢電鉄は沿線の宅地開発に力を入れ、鶯の森住宅地、ときわ台、

東ときわ台住宅地、と次々と手を伸ばして、将来に明るい希望を持っていました。

昭和36年(1961)には、自社の増資とともに、京阪神急行(阪急)電鉄の資本が入り、

能勢電鉄株式会社と社名を変更。

昭和53年には沿線の山下駅から日生線を開通させました。

 

                          (つづく)

 

 

 

 


能勢電鉄とともに50年(6)

2020年05月01日 11時04分53秒 | 紀行

3月30日の「能勢電鉄との50年(5)」の続きです。

 

昭和35年(1960)、結婚した私は、神戸市東灘区の岡本・北畑に

文化住宅を借りて生活をしていました。

結婚、3年目に長男が誕生。さらに、2年後、御影の鴨子ヶ原の公団住宅

(3K)が当たり、そこへ引っ越しました。

鴨子ヶ原の公団住宅では、狭いながらも小さな風呂がついていました。

団地では、やがて、長女が誕生。4人家族の「3k」では、手狭になりました。

あれは、昭和45年の春だったでしょうか。

 

千里ニュータウンの最後の宅地抽選会に立ち会った私は、抽選に外れ、

そこでもらった新しい住宅地のビラを頼りに、能勢電鉄の沿線をまわって

帰宅しました。

翌日、マイカーに家内と子供を乗せて、川西市内へ車を走らせました。

当時の能勢電鉄沿線は、まさに、建築ラッシュ。

15年・20年、のローンは、すぐにも、OKで、商談はまとまりました。

その年の12月には入居が可能ということで、商談成立。

ここまでに何日かかったでしょうか。

当時の能勢電鉄にも試乗しました。

暑い日、窓は全開で風を通し、電車が揺れるたびに「つり革」が「カチャ、カチャ」、

「カチャ」とリズムを奏で、夜は虫が車内を飛び回っていたのが忘れられません。

この年は、千里丘陵で「万国博」が開かれた年で、景気はよかった記憶があります。

上は、能勢電鉄の終点。「妙見口」駅です。

 

                       (つづく)

 

 

 


能勢電鉄とともに50年(5)

2020年03月30日 14時38分52秒 | 紀行

私たち一家が神戸の御影から川西市内に引っ越してきたのは

1970年(昭和45年)日本万国博覧会が吹田市内の千里丘陵で

開催された年でした。

ご覧いただいているのは、現在の川西能勢口駅とその周辺です。

JRの川西池田駅とも歩道橋でつながっています。

当時、私は吹田市内の会社にマイカーで通勤していました。

年齢は、私が38歳、長男が7歳で小学校へ上がったばかり、

長女は4歳でした。

 

1965年当時、能勢電鉄の沿線は宅地開発が進みはじめ、沿線の

人口が増えはじめていました。

「能勢電気軌道」が「能勢電鉄」に社名を変えるのは1978年(

昭和53年)になります。

 

            (つづく)

 


能勢電鉄とともに50年(4)

2020年03月25日 11時23分36秒 | 紀行

この車輪は川西能勢口駅とJRの川西池田駅を結ぶ短い路線を走っていた
能勢電鉄の「国鉄前線」の車両の車輪と車軸のモニュメントです。

場所は、川西能勢口駅の北側を西へ、車道を越えた横断歩道の側です。

説明板もついていすが、字がかすれて定かには読めません。

横断歩道の南側には、当時の車両をかたどったマンホールが
はめ込まれていますが、これも表面が擦り切れて、見にくく
なっていました。

国鉄前線の開業は1971年(大正6年)。能勢電鉄としては一の鳥居まで
開通してから4年後のことで、川西北部の人と物資が、戦後、国鉄となった
池田駅を経由して大阪や各地へ運ぶ連絡線として役割を果たしました。

沿線に工場のあった「三ツ矢サイダー」も連絡線に積み込まれたと言います。

この連絡線が廃線になるのは、1981年(昭和56年)のことで、60余年も
続いた連絡線も最後のころは利用者も減り、一日に5往復の運転だったと言います。

私も一度も乗ったことがありませんでした。

                       (つづく)


能勢電鉄とともに50年 (3)

2020年03月24日 11時02分56秒 | 紀行

上の画像は、再開発で川西市の玄関口になった阪急電車宝塚線の川西
能勢口駅の北側です。
川西阪急百貨店が駅の南側にあり表玄関とすれば、北側は裏口でしょうか。

かっては、ここから約600メートル離れた国鉄の池田駅前駅(後の川西
国鉄駅前駅)まで 、電車が走っていました。

その後、阪急資本 が入った能勢電は、やがて、阪急電車の子会社として、
沿線の宅地開発や、行楽客の誘致に取り組んでゆきます。

1978年(昭和53年)能勢電気軌道は、社名を能勢電鉄㈱に変更します。

 

                        (つづく)   

 


能勢電鉄とともに50年(2)

2020年03月22日 10時20分26秒 | 紀行

1908年(明治41年)、能勢電鉄は能勢妙見への参詣客の輸送と沿線で産出
する酒や米、寒天、炭、などの特産物を運ぶ目的で設立されました。

最初は「能勢電気軌道」と言いましたが、経営に難儀し、1913年、能勢口
駅(現川西能勢口駅)と一の鳥居駅間が開通。その後、幾多の変遷を経て、
1923年(大正12年)、一の鳥居~妙見口駅が開通します。

上の写真は、現在の川西能勢口駅の能勢電ホームに掲げられている
能勢電鉄の再開発前の「同駅風景」です。

能勢電軌は、「能勢口駅・池田駅前駅(のちの川西国鉄駅前駅)」間の
延長など、経営再建につとめました。

                       (つづく)

 

 




能勢電鉄とともに50年(1)

2020年03月21日 15時06分00秒 | 紀行

  

私たち家族が、この能勢電鉄の沿線に引っ越してきたのは
昭和45年(1970年)のことでした。

あれから、もう、50年が過ぎ去ろうとしているのです。 

上の画像は、兵庫県と大阪府の境界を流れる猪名川に架かった
全長60mの橋梁を走る能勢電鉄の車両です。(2014年撮影)

                  (つづく)               


東海道五十三次どまん中茶屋・袋井宿(そのニ)

2019年07月18日 15時57分49秒 | 紀行

 
その昔、この袋井宿に50軒もの旅籠が軒を連ね、人の往来が激しかったのでしょうか。?

歌川広重(1797~1858)は、62歳で亡くなりました。

36歳のとき、幕府のお馬献上の行列に加わって、東海道を

往復したと言いますから、当時をスケッチしていたのかも
知れません。

ということは、江戸時代の後期、徳川家斉の時代の描写
である可能性があります。

袋井の東隣は「掛川宿」(現掛川市)。西隣は「見附(みつけ)宿」(磐田市)です。

掛川と袋井のあいだが、見附宿との間より、少し長いので、東から来た人たちは、袋井宿で宿をとったり、ひと休みを
した人が多かったかもしれません。


東京2泊、浜松2泊の予定で旅に出た私たち。

家内の姉が袋井に住んでいるので立ち寄った街です。

往時の面影を残すのは、このお茶屋だけかもしれません。

 広重の画をよく見れば、出茶屋の先に海が見えます。

現在では、太平洋に面しているとは言っても、海は見えません。

ちょっとした休憩所だったかも知れません。


現在の「どまん中茶屋」は、よくできていました。


なかなか趣のある建物で、模写した浮世絵を飾り、土産品を売る傍ら、立ち寄る観光客にお茶や饅頭を出して接待して
くれました。


 

接待役は、街から選ばれた数人の女性が「交替で当番を決めて接客に当たっている」とのことでした。

この日の当番は、たまたま、その中でも代表の方で、
「こんな天気なので、お客さんは、ないとおもっていました。それが、4人も来ていただけて、うれしい」。

と喜んでくれました。

 
茶屋を後にした私たちは、市内の新鮮な野菜市をのぞいて、
親戚の家を訪ねました。

 

最後にここで買ったお土産をお見せして旅の終わりにします。

 

「丸凧」の模型です。表現は、丸凧でよかったので
しょうか。

この地方では「凧あげ」が盛んと聞きました。

それは、風が強いからかも知れません。

遠州灘をわたる強い風を、笠と蓑合羽で避けながら、
先を急いだ旅人たち。

「袋井茶」の一服も、待ち遠しかったかも知れません。

 

 「その一」、「そのニ」で取り上げたコピーは、
いずれも「袋井市の観光パンフレット」を複写した
ものです。

             (東海道五十三次 終わり)

 

 

 

 

 

 

 


東海道五十三次どまん中茶屋・袋井宿(その一)

2019年07月16日 13時38分38秒 | 紀行

初代歌川広重が書いた『東海道五十三次「袋井出茶屋之図」』の
コピーです。

静岡県袋井市は南北に細長い地形で、南は浅羽海岸で太平洋に面し、北は遠州森町になります。
法多山尊永寺(はったさんそんえいじ)をはじめ、遠州三山の
歴史ある寺や神社が点在し、
いわば、それらの門前町の形で栄えて
きましました。

人口は8万8千人余り、太平洋に面した
気候温暖の地で、
クラウンメロンや、お茶、お米を特産品とし、新鮮な野菜が多く獲れる豊かな地域です。。

新鮮な野菜市は、いつの日も買い物客でにぎわいます。

日本の幹線「東海道五十三次」のほぼ中間に位置し、市の東部には
まだ、旧東海道の松並木の一部が残っているそうです。

この旧東海道に宿場の整備を進めたのは徳川家康で、袋井も1616年、徳川秀忠の時代に宿場として整備されました。


袋井市は、「五十三次」の江戸、日本橋から数えて27番目、京の
三条大橋から数えても27番目の宿場です。


そんな位置から、「どまん中」の言葉が生まれました。

上の図は、市の観光案内図から複写したものですが、一時、袋井宿には、本陣が3軒、旅籠(はたご)が50軒もあったそうです。

東西文化の中間点として、物資や人々の往来、秋葉山への参拝客
でにぎわったと言われます。

見取り図の右端、上の方にある茶屋は、現在の「東海道どまん中茶屋」の場所です。

広重の浮世絵木版画に出てくる「出茶屋」とは、ずいぶんと異なり
ますが、現在の「茶屋」は、町おこしの一貫として、ここを訪れる
人たちに喜ばれています。

それでは、「東海道五十三次どまん中茶屋」をのぞいて見ましょう。


                      (次回へ 続く)

 


久しぶりの「神戸北野町」界隈

2018年10月06日 14時05分06秒 | 紀行

台風25号が北へそれて
近畿の中部にはこれと言った被害は無い,
とわかって
神戸へ出かけました。

それは、10月3日の水曜日で、久しぶりに異人館街の
北野町付近を見て回りました。

やはりマンションが増えていました。

賑わいを見せる古物商や、空き店舗の看板も多く見え、
商売も大変な感じでした。

18年前に異人館で出版記念会を開きましたが、そのレストランが
火災で焼け、再建された後、フランス料理の店に代わっていました。

神戸ならではの雰囲気のある店でした。

今日は、異人館ではなく、付近の「おや!」、とおもう店舗の
表情を見てもらいます。

 昭和11年(1936)に完成した「神戸モスク」。

イスラム教徒の寺院です。

第二次大戦の空襲や阪神大震災にも耐え、神戸っ子自慢の
建造物にもなっています。

 


梅雨の晴れ間、「池田城跡公園」を見る(4)

2016年07月03日 11時55分46秒 | 紀行

雨こそ降ってはいなかったが、天気は曇り空で、
もっと晴れた日に来ても良かった、と
少し残念におもいました。

帰途、公園の東南から櫓をふり仰いだところです。

最後の画像は、櫓から見て、全面が開けている西南方向です。

3枚の画像を合成しました。
写真は、やはり天気次第でしょうか。

               (この項、おわり)

 


梅雨の晴れ間、「池田城跡公園」を見る(3)

2016年07月02日 11時04分01秒 | 紀行

それでは、櫓の上にご案内しましょう。

枯山水の庭園。
5~6年前に、ここを訪ねた時にはありませんでした。

その後、整備されたものとおもいます。

櫓の上から北東方向を眺めたところです。

五月山が眼前に迫り、箕面にかけての山々が見渡せます。

こちらは西方向。阪神高速の「ビッグハープ」が目の前です。

見取り図の左方向が北です。

池の右下、こげ茶の位置がこの櫓になります。

南は豊中、伊丹を超えて、尼崎、大阪まで見通せそうです。

(つづく)


梅雨の晴れ間、「池田城跡公園」を見る(2)

2016年07月01日 10時45分21秒 | 紀行

 

 大阪府池田市城山町の「池田城跡公園」の東側「大手門」です。

 

池田城跡公園は、五月山の南麓、標高50mの丘陵地に
あります。


室町時代に池田から豊中、箕面、一帯を治めていた豪族、
池田氏が
この地に居城を築いたと言われています。

池田城はその後、幾多の変遷を経て現在に至り、
平成12年4月に新しい城跡公園としてよみがえりました。

公園の中には、茶席や枯山水の庭もつくられ、
見晴らしの良い櫓の上からは四方が見渡せます。

北は五月山、西は川西市、そして、南は豊中、伊丹から
大阪と豪快な「眺め」は興味がつきません。

(つづく)