東京都小金井市。午後の「小金井公園」です。
公園の大きさは約80ヘクタール。日比谷公園の約4.9倍。
草地をとりまく雑木林。昭和29年1月に開園しました。
野球場やテニスコートなど、いろんな競技施設を抱え、桜や四季折々の花を咲かせます。
「江戸東京たてもの園」もこの中にあるのです。
今回の東京旅行で、デジカメ263枚のシャッターを切りましたが、上の写真が
いちばん、私の印象に残ったので、あえて、最後に一枚だけ掲載しました。
東京都小金井市。午後の「小金井公園」です。
公園の大きさは約80ヘクタール。日比谷公園の約4.9倍。
草地をとりまく雑木林。昭和29年1月に開園しました。
野球場やテニスコートなど、いろんな競技施設を抱え、桜や四季折々の花を咲かせます。
「江戸東京たてもの園」もこの中にあるのです。
今回の東京旅行で、デジカメ263枚のシャッターを切りましたが、上の写真が
いちばん、私の印象に残ったので、あえて、最後に一枚だけ掲載しました。
東京駅丸の内、南口の天井です。
その南口を出たところ、旧東京中央郵便局が建て替えられて新しくなっていました。
「KITT(キッテ)」という、地下1階、地上6階のビルです。去年の3月の開業です。
1階のアトリウム。大きな吹き抜けの空間です。
はとバスのガイドさんが、「お昼は『KITTE』で食べられるのもいいですよ。
6階からは東京駅が一望に見えます」と、教えてくれました。
6階のテラスから見た丸の内と東京駅です。
レストランやショップもかなりの数入っており、穴場を感じさせてくれました。
私たちは、ここで、昼食を済ませ、午後の新幹線で帰宅の途につきました。
(写真旅 おわり)
水曜日、お昼前の銀座です。
これから、食事時を迎えて、ドット、人が出てくるのでしょうか。
昼食は家内と二人。
ウロウロするのも疲れるので、銀座三越の上階、レストラン街で
探すことにしました。
食事のあと、9階に下りてくると、「銀座テラス」と名付けたフロァーがありました。
広いフロァーに椅子が並び、
軽食やスイーツの店が安い値段で店を開いていました。
高齢者や子供づれのお母さんたちが多く、モールやスーパーのレストラン街を
おもわせてくれました。
買い物客は、自由に座って休憩し、
飲んだり食べたり。
うん、これでなくちゃー。
銀座と言えども、今や、お高くとまっている時代ではなくなっているのです。
デパートの売り上げが云々される時代。まず、お客さんに来てもらうことが第一。
それには、なりふりかまっている時代ではないのでしょう。
関西の新しいデパートも見習うべし。そんなことをおもって眺めていました。。
屋上庭園にも出られる銀座三越9Fの「銀座テラス」です。
(この写真は「銀座三越」のホームページから複写)
今回の東京旅行では、スカイツリーには上りませんでした。
さすがに日本一の高さを誇る「ツリー」だけに、都内のビル陰を除けば、どこにいても
「スカイツリー」が見えました。
2日めの柴又へ行った日は、ツリーの最寄り駅、「押上」駅で
地下鉄と京成電車を乗り換えたため、スカイツリーのそばにも行って見ました。
しかし、この日は風が強く、突風気味で室外に出るのも
息苦しいほどでした。
翌日の早朝から、左眼の上瞼が腫れ、以後のスケジュール調整に難儀しました。
「両国 国技館」
大相撲「夏場所」が5月11日からはじまりました。
ここは、錦糸町駅の隣、JR両国駅です。
駅の構内にも優勝力士の額が飾られ、相撲人気をあおっていました。
中には、力士と背くらべをする人もありました。
この日は相撲を見に行ったのではありませんが、
両国駅を出ると、意外に喧騒なので、つい、国技館の入口までいって見ました。
知り合いのお相撲さんなのか、それとも、通りがかりなのか、
お相撲さんもカメラに向かってポーズをとっていました。
一時に比べて、相撲人気がかえってきているのか、
柵の向こうで、「遠藤!」などと呼ぶ大きな声が聞こえていました。
(5月12日、14時ごろ写す)
「矢切の渡し」
葛飾「柴又帝釈天」から徒歩で10分足らず。
帝釈天の北側の道を東へ歩くと、江戸川の堤に出ます。
堤に上がれば「矢切の渡し」は、もう、目の前、柴又公園の先です。
「渡し」のかかる江戸川は、利根川水系の分流で茨城、千葉、埼玉の各県と
東京都を流れる 全長 59.5kmの一級河川です。
葛飾柴又と対岸の千葉県松戸市矢切の間に残る、この「渡し」は、
寛永8年(1631)、幕府が、関東代官を管理者としてはじめましたが、
今は私営の「観光渡し」となっています。
運航期間はきめられており、いつでも乗れるというものではありません。
柴又側の渡船場も看板がはげていました。
「見すてないでね・・・・ ついておいでよ・・・・
北風が 泣いて吹く 矢切の渡し・・・・ 」
この日も強い風が吹いていました。砂塵が舞い上がっていました。
しかし、それは、北風ではなく、南からの風でした。
歌碑もありましたが、木陰で字も黒く、光線も悪く、よく読めませんでした。
大ヒットをした演歌、「矢切の渡し」ですが、
現地は、何か、もの悲しい雰囲気が漂い、早々に立ち去りました。
(写真は、2014年5月12日 11時過ぎに撮影しました)
(ブログ「春夏秋冬 75」でも、「東京・旅物語」を掲載しています。
ご覧になる場合は、画面、右のブックマークの下、「春夏秋冬 75」の文字を
クリックしてください。リンクしています)
5月11日(日)、長男一家と会うため、家内と二人で上京しました。
この日は快晴で、富士山がよく見えました。
車窓から見る、こんなきれいな富士は初めてです。
新装成った東京駅です。3枚の写真を合成しました。
丸の内のオフイス街です。
日曜日とあって家族連れが目立ちました。
ホテルの前の錦糸町公園から見た「スカイツリー」です。
ブログ「春夏秋冬 75」とあわせてご覧ください。
タイトルだけをご覧になった方は「こりゃあなんじゃあ」と
おもわれたかも知れません。
近くの公園で見かけた「ヒトツバタゴ」の木です。
モクセイ科に属し、同科の「トネリコ」に似ていると言われます。
ご覧のように別名、「ナンジャモンジャ」の木と表示されおり、
ニレ、コレ、それに、菩提樹などもこの木に似ているということです。
新緑に映えて花は雪をかぶったような感じです。
空が、もう少し青かったら、もっと、映えたかもしれません。
一昨日、神戸市灘区役所に所用があり、出かけました。
区役所は、「JR六甲道」駅から南へ約3分のところです。
付近は、「阪神・淡路大震災」から立ち直り、
高層マンションが目を奪う繁華街に変貌していました。
帰路、JR線路の南側、六甲道駅の東、約300mにある、
神戸市立成徳(せいとく)小学校に寄ってみました。
ここは、太平洋戦争が終わって間もない昭和22年、私が通った校舎です。
と言うのも、当時、空襲で一部が焼けた小学校は、校舎を補修し、
小学校と中学校が同居していました。
私は、石川県の疎開先から神戸に戻り、
JRの線路(当時は国鉄)の北側、高羽の家から、
この校舎に間借りをしていた中学校(工業学校)に約2年間、通ったのです。
当時とは、スッカり変わった、たたずまいを見せる「成徳小学校」です。
当時は、B29の空襲から校舎を守るため、外壁が黒く塗られたいました。
校舎も、たしか、南北に長い一面でしたが、今は、かぎ形になっていました。
人口が増え、増築されて、こんな形になったのでしょうか。
運動場の南東隅には、これまでの歴史を伝える石碑が残されていました。
「皇紀二千五百九十二年昭和七年四月一日開校」と刻まれた石碑もありました。
国鉄で通う電車通学の生徒も多く、
徒歩通学の私は、学校まで、ずいぶんと遠いおもいをしたことを
思い出しました。
当時、国鉄の線路を徒歩で越えることはできませんでした。
現在は線路が高架になり、人も車も通れるようになっていました。
私たちは、その後、学制改革で、市内西部の新制高校へ通うことになり
小学校との同居生活に別れを告げました。
学校の東側には整備された小さな川が流れ、
近所には大きな公園がありました。
震災後、災害に強い街づくりを目指した市や付近の人たちの
努力が実を結んだのでしょう。
それにしても、あれから67年、ずいぶんと古い、昔の話です。
食糧難の時代、ここに通った当時を思い起こしました。
住宅地の中の立派な小学校に変貌した「成徳小」には、
現在、900人余りの児童が通っているそうです。