長かった梅雨も、今日、東北地方が明け、日本全国で
真夏になりました。
写真は、今日、午後2時の我家の上空です。
まだ、黒い雲が少し残っていますが、いずれ青空に夏の雲が
湧き出してくるでしょう。
写真は、6月になって購入した「スマホ」で撮影しました。
パソコンに写真を取り込むのに苦労しましたが、どうにか出来上がりました。
これからは、写真が減ってくるかも知れません。
長かった梅雨も、今日、東北地方が明け、日本全国で
真夏になりました。
写真は、今日、午後2時の我家の上空です。
まだ、黒い雲が少し残っていますが、いずれ青空に夏の雲が
湧き出してくるでしょう。
写真は、6月になって購入した「スマホ」で撮影しました。
パソコンに写真を取り込むのに苦労しましたが、どうにか出来上がりました。
これからは、写真が減ってくるかも知れません。
その昔、この袋井宿に50軒もの旅籠が軒を連ね、人の往来が激しかったのでしょうか。?
歌川広重(1797~1858)は、62歳で亡くなりました。
36歳のとき、幕府のお馬献上の行列に加わって、東海道を
往復したと言いますから、当時をスケッチしていたのかも
知れません。
ということは、江戸時代の後期、徳川家斉の時代の描写
である可能性があります。
袋井の東隣は「掛川宿」(現掛川市)。西隣は「見附(みつけ)宿」(磐田市)です。
掛川と袋井のあいだが、見附宿との間より、少し長いので、東から来た人たちは、袋井宿で宿をとったり、ひと休みを
した人が多かったかもしれません。
東京2泊、浜松2泊の予定で旅に出た私たち。
家内の姉が袋井に住んでいるので立ち寄った街です。
往時の面影を残すのは、このお茶屋だけかもしれません。
広重の画をよく見れば、出茶屋の先に海が見えます。
現在では、太平洋に面しているとは言っても、海は見えません。
ちょっとした休憩所だったかも知れません。
現在の「どまん中茶屋」は、よくできていました。
なかなか趣のある建物で、模写した浮世絵を飾り、土産品を売る傍ら、立ち寄る観光客にお茶や饅頭を出して接待して
くれました。
接待役は、街から選ばれた数人の女性が「交替で当番を決めて接客に当たっている」とのことでした。
この日の当番は、たまたま、その中でも代表の方で、
「こんな天気なので、お客さんは、ないとおもっていました。それが、4人も来ていただけて、うれしい」。
と喜んでくれました。
茶屋を後にした私たちは、市内の新鮮な野菜市をのぞいて、
親戚の家を訪ねました。
最後にここで買ったお土産をお見せして旅の終わりにします。
「丸凧」の模型です。表現は、丸凧でよかったので
しょうか。
この地方では「凧あげ」が盛んと聞きました。
それは、風が強いからかも知れません。
遠州灘をわたる強い風を、笠と蓑合羽で避けながら、
先を急いだ旅人たち。
「袋井茶」の一服も、待ち遠しかったかも知れません。
「その一」、「そのニ」で取り上げたコピーは、
いずれも「袋井市の観光パンフレット」を複写した
ものです。
(東海道五十三次 終わり)
初代歌川広重が書いた『東海道五十三次「袋井出茶屋之図」』の
コピーです。
静岡県袋井市は南北に細長い地形で、南は浅羽海岸で太平洋に面し、北は遠州森町になります。
法多山尊永寺(はったさんそんえいじ)をはじめ、遠州三山の
歴史ある寺や神社が点在し、いわば、それらの門前町の形で栄えて
きましました。
人口は8万8千人余り、太平洋に面した気候温暖の地で、
クラウンメロンや、お茶、お米を特産品とし、新鮮な野菜が多く獲れる豊かな地域です。。
新鮮な野菜市は、いつの日も買い物客でにぎわいます。
日本の幹線「東海道五十三次」のほぼ中間に位置し、市の東部には
まだ、旧東海道の松並木の一部が残っているそうです。
この旧東海道に宿場の整備を進めたのは徳川家康で、袋井も1616年、徳川秀忠の時代に宿場として整備されました。
袋井市は、「五十三次」の江戸、日本橋から数えて27番目、京の
三条大橋から数えても27番目の宿場です。
そんな位置から、「どまん中」の言葉が生まれました。
上の図は、市の観光案内図から複写したものですが、一時、袋井宿には、本陣が3軒、旅籠(はたご)が50軒もあったそうです。
東西文化の中間点として、物資や人々の往来、秋葉山への参拝客
でにぎわったと言われます。
見取り図の右端、上の方にある茶屋は、現在の「東海道どまん中茶屋」の場所です。
広重の浮世絵木版画に出てくる「出茶屋」とは、ずいぶんと異なり
ますが、現在の「茶屋」は、町おこしの一貫として、ここを訪れる
人たちに喜ばれています。
それでは、「東海道五十三次どまん中茶屋」をのぞいて見ましょう。
(次回へ 続く)
明日、七月七日は「七夕まつり」です。
「笹の葉 さらさら のきばに ゆれる
お星さま きらきら きんぎんすなご ---」
昔から子供たちに親しまれてきた、この歌は、昭和16年(1941年)に
文部省の「うたのほん」(下)に掲載されました。
写真は、私たちの住む街のターミナルに飾られているものです。
「ひなまつり」や「端午の節句」などと同じく、五節句の一つになっています。
その昔は、中国から伝わったとも言われています。
青、赤、黄、白、黒、などの短冊に、願い事を書いて
飾るのが習わしになっています。
最近では、梅雨明けの時期と重なって、大雨情報が
幅を利かせているのが困ったことです。
ところで、6月の27日から7月の1日まで、4泊5日で東京と静岡県を
旅行してきました。
それをブログを掲載するべく、目下、準備中です。