"四季折々 この一枚″

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能勢電鉄とともに50年(5)

2020年03月30日 14時38分52秒 | 紀行

私たち一家が神戸の御影から川西市内に引っ越してきたのは

1970年(昭和45年)日本万国博覧会が吹田市内の千里丘陵で

開催された年でした。

ご覧いただいているのは、現在の川西能勢口駅とその周辺です。

JRの川西池田駅とも歩道橋でつながっています。

当時、私は吹田市内の会社にマイカーで通勤していました。

年齢は、私が38歳、長男が7歳で小学校へ上がったばかり、

長女は4歳でした。

 

1965年当時、能勢電鉄の沿線は宅地開発が進みはじめ、沿線の

人口が増えはじめていました。

「能勢電気軌道」が「能勢電鉄」に社名を変えるのは1978年(

昭和53年)になります。

 

            (つづく)

 


能勢電鉄とともに50年(4)

2020年03月25日 11時23分36秒 | 紀行

この車輪は川西能勢口駅とJRの川西池田駅を結ぶ短い路線を走っていた
能勢電鉄の「国鉄前線」の車両の車輪と車軸のモニュメントです。

場所は、川西能勢口駅の北側を西へ、車道を越えた横断歩道の側です。

説明板もついていすが、字がかすれて定かには読めません。

横断歩道の南側には、当時の車両をかたどったマンホールが
はめ込まれていますが、これも表面が擦り切れて、見にくく
なっていました。

国鉄前線の開業は1971年(大正6年)。能勢電鉄としては一の鳥居まで
開通してから4年後のことで、川西北部の人と物資が、戦後、国鉄となった
池田駅を経由して大阪や各地へ運ぶ連絡線として役割を果たしました。

沿線に工場のあった「三ツ矢サイダー」も連絡線に積み込まれたと言います。

この連絡線が廃線になるのは、1981年(昭和56年)のことで、60余年も
続いた連絡線も最後のころは利用者も減り、一日に5往復の運転だったと言います。

私も一度も乗ったことがありませんでした。

                       (つづく)


能勢電鉄とともに50年 (3)

2020年03月24日 11時02分56秒 | 紀行

上の画像は、再開発で川西市の玄関口になった阪急電車宝塚線の川西
能勢口駅の北側です。
川西阪急百貨店が駅の南側にあり表玄関とすれば、北側は裏口でしょうか。

かっては、ここから約600メートル離れた国鉄の池田駅前駅(後の川西
国鉄駅前駅)まで 、電車が走っていました。

その後、阪急資本 が入った能勢電は、やがて、阪急電車の子会社として、
沿線の宅地開発や、行楽客の誘致に取り組んでゆきます。

1978年(昭和53年)能勢電気軌道は、社名を能勢電鉄㈱に変更します。

 

                        (つづく)   

 


能勢電鉄とともに50年(2)

2020年03月22日 10時20分26秒 | 紀行

1908年(明治41年)、能勢電鉄は能勢妙見への参詣客の輸送と沿線で産出
する酒や米、寒天、炭、などの特産物を運ぶ目的で設立されました。

最初は「能勢電気軌道」と言いましたが、経営に難儀し、1913年、能勢口
駅(現川西能勢口駅)と一の鳥居駅間が開通。その後、幾多の変遷を経て、
1923年(大正12年)、一の鳥居~妙見口駅が開通します。

上の写真は、現在の川西能勢口駅の能勢電ホームに掲げられている
能勢電鉄の再開発前の「同駅風景」です。

能勢電軌は、「能勢口駅・池田駅前駅(のちの川西国鉄駅前駅)」間の
延長など、経営再建につとめました。

                       (つづく)

 

 




能勢電鉄とともに50年(1)

2020年03月21日 15時06分00秒 | 紀行

  

私たち家族が、この能勢電鉄の沿線に引っ越してきたのは
昭和45年(1970年)のことでした。

あれから、もう、50年が過ぎ去ろうとしているのです。 

上の画像は、兵庫県と大阪府の境界を流れる猪名川に架かった
全長60mの橋梁を走る能勢電鉄の車両です。(2014年撮影)

                  (つづく)