兵庫県川西市水明台1丁目の猪名川沿いの斜面に、
いま、エドヒガンザクラが満開になっています。
「寒い、寒い」、と言っていた今年の冬でしたが、
3月の下旬になって、ようやく、暖かくなってきました。
ここ、水明台の斜面には、地元の「サクラを守る会」の人たちが再生させた
エドヒガンザクラの森が大勢の人たちを集めています。
兵庫県川西市水明台1丁目の猪名川沿いの斜面に、
いま、エドヒガンザクラが満開になっています。
「寒い、寒い」、と言っていた今年の冬でしたが、
3月の下旬になって、ようやく、暖かくなってきました。
ここ、水明台の斜面には、地元の「サクラを守る会」の人たちが再生させた
エドヒガンザクラの森が大勢の人たちを集めています。
長かった冬も、ようやく終わりを告げて、今日あたりから暖かくなってきました。
関西地方の「桜の便り」も、もうすぐ聞けそうです。
写真は、グランフロント大阪の南館です。
梅田スカイシティーとの間、貨物駅の跡地もずいぶんと整備されたきました。
月日のたつのは早いもので、暖かくなればなったで、暑い暑い、そして、また、
季節は巡ります。
神戸に初めて入港した豪華客船、「クイーン・エリザベス」は、19日夜、
神戸港を出航するまで大勢の市民の歓迎をうけました。
望遠レンズを通して見た、豪華客船の向こう側です。
ポートターミナルのデッキには乗客を歓迎する舞台も設営されていました。
「クイーン・エリザベス」は、21日朝、長崎に入港。
その日の夕方、韓国に向かって出航します。
(「神戸のクイーン・エリザベス」 おわり)
ワールドクルーズの途中、19日、午前8時に神戸港のポートターミナルに接岸した
「クイーン・エリザベス」は、その日の23時59分、次の寄港地、長崎に向けて
出航しました。
この画像は、神戸港に停泊していた「クイーン・エリザベス」の表情です。
「クイーン・エリザベス」は、21日、午前8時に長崎港に入港するそうです。
(つづく)
敦賀駅前から「ぐるっと敦賀周遊バス」が、ほぼ、1時間おきに市内を走っています。
所要時間は約1時間。
「気比神宮」や「日本海さかな街」など、ここと言った見所を走ります。
乗っているだけなら、一人、500円。
途中で乗り降りすれば、その都度、一回200円。
途中に12駅あり、観光には便利にできているとおもいました。
「日本海さかな街」は、たくさんの海産物店が並び、観光バスも止まっていました。
子供のころから、なじみのある町なので、一種の郷愁を感じたのでしょうか。
「また、夏にでも来たい」。
つくづく、旅はよいものだとおもいました。
(敦賀紀行、おわり)
北陸本線「敦賀駅」は大改修の真っ最中でした。
駅前広場や改札などを新しくするため、現在、乗り降りは、いささか不便を感じます。
明治15年に金ヶ崎線の敦賀駅としてできた駅は
、同29年北陸線が福井駅まで開通、
敦賀は日本海側への玄関口として発展してきました。
その後、幾多の変遷を繰り返して現在に至ります。
(上の写真は、平成27年に完成する駅前広場のイメージ図です)
27年ぶりの敦賀だったものですから、
かっての駅前の風景などもよく覚えていません。
現在、工事中であることを除けば、駅前の大通りなども立派になっていました。
覚えているのは、こどものころ、敦賀から石川県へ汽車で行く途中、
柳ヶ瀬付近で、車両の前後に機関車を付け、
「スイッチバック」方式で山を登り、
それがおわったとおもったら、
間もなく、敦賀の駅に到着したことぐらいでしょうか。
(つづく)
3月4日の敦賀湾。
冬の名子海水浴場から見ると、湾の東側、史跡「金ヶ崎城跡」方向から、
太陽が昇ってきます。
穏やかな敦賀湾の朝です。
敦賀湾は、若狭湾の東の端。敦賀半島によって若狭湾と区切られています。
北前船や大陸への航路の要衝として古くから栄えてきました。
鉄道の発達で、一時は港湾としての機能が危ぶまれましたが、
最近は、国際コンテナの取り扱い港としても
見直されてきたといいます。
やがて、釣り人を運ぶ船も行き交いはじめ、湾は活気を見せてきます。
(つづく)
JR大阪駅から特急電車で1時間20分。
福井県の敦賀まで、意外に速いので驚きました。
敦賀の人口は6万8,000人あまり。京阪神に近く、
大陸への日本の窓口として栄えた土地です。
昭和20年、あの敗戦の年、叔父を頼ってこの地に疎開していた私たち家族は、
北陸では、はじめてというB29の空襲に見舞われました。
(ブログ「春夏秋冬 75」にも記載しました)
それから「敦賀」は、私にとって,思い出の土地になりました。
敦賀湾の波静かな海岸。気比の松原。冬のカニ、若狭のふぐ。原子力発電所。
敦賀は話題に、こと欠きません。
これまで、敦賀を通過することは何度かありましたが、訪問するのは
27年ぶりになります。
季節は、「カニ」を過ぎて、「ふぐ」になろうとしていました。
昭和62年2月、敦賀の叔父が亡くなったとき、
弟と二人で、お葬式に来て以来の旅です。
それも、3月3日からの、わずか一泊二日。
こんなに近いのなら、もっと、早く来ればよかった、とおもっています。
(つづく)