3月30日の「能勢電鉄との50年(5)」の続きです。
昭和35年(1960)、結婚した私は、神戸市東灘区の岡本・北畑に
文化住宅を借りて生活をしていました。
結婚、3年目に長男が誕生。さらに、2年後、御影の鴨子ヶ原の公団住宅
(3K)が当たり、そこへ引っ越しました。
鴨子ヶ原の公団住宅では、狭いながらも小さな風呂がついていました。
団地では、やがて、長女が誕生。4人家族の「3k」では、手狭になりました。
あれは、昭和45年の春だったでしょうか。
千里ニュータウンの最後の宅地抽選会に立ち会った私は、抽選に外れ、
そこでもらった新しい住宅地のビラを頼りに、能勢電鉄の沿線をまわって
帰宅しました。
翌日、マイカーに家内と子供を乗せて、川西市内へ車を走らせました。
当時の能勢電鉄沿線は、まさに、建築ラッシュ。
15年・20年、のローンは、すぐにも、OKで、商談はまとまりました。
その年の12月には入居が可能ということで、商談成立。
ここまでに何日かかったでしょうか。
当時の能勢電鉄にも試乗しました。
暑い日、窓は全開で風を通し、電車が揺れるたびに「つり革」が「カチャ、カチャ」、
「カチャ」とリズムを奏で、夜は虫が車内を飛び回っていたのが忘れられません。
この年は、千里丘陵で「万国博」が開かれた年で、景気はよかった記憶があります。
上は、能勢電鉄の終点。「妙見口」駅です。
(つづく)