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"四季折々 この一枚″

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シリーズ「秋の北陸路」(4)那谷寺 1

2014年10月30日 10時01分06秒 | 紀行

10月21日の「那谷寺(なたでら)」です。

岩山と四季の草花に囲まれた那谷寺は、石川県小松市那谷町(なたまち)にあります。

粟津温泉の旅館、「法師」からマイクロバスで約10分。

那谷寺の門前は、「那谷」の看板目立ちます。

町の人口は700人足らず。
昭和30年に那谷村から「町」として小松市に編入されました。

看板の割には、小松市内の那谷姓は、わずか2軒と聞きましたから、
お寺以外は、みんな「屋号」なのですね。

「 那谷寺由来」にもあるように、このお寺は白山信仰のお寺で、
養老元年(717)、泰澄禅師(たいちょうぜんし)によって開創されました。

禅師は自らが造った十一面千手観音を岩屋に安置し、お堂を建立(こんりゅう)し、
「自生山 岩屋寺」と名付けました。

その後、寛和2年(986)、西国三十三番札所を開かれた花山(かざん)法皇が
この地に行幸されたとき、岩窟内の観音様を見て、
一番札所、紀伊那智山の「那」と三十三番、美濃の谷汲山の「谷」の
各一字をとって「那谷寺」と改め、七堂伽藍を造営された、と伝わっています。

間もなく、平成29年、2017年に那谷寺は、「開創1300年祭」を迎えます。

山門を入って、直ぐの左手に金堂 華王殿(けおうでん)があります。

ご本尊の千手観音や白山曼荼羅、泰澄禅師、花山法皇を安置し、
那谷寺の仏事祈祷は、このお堂で行われていると言います。

この金堂は、平成2年に建立されました。

この日、10月21日もあいにくの天気で、雨こそ降っていませんでしたが、
空はどんよりと曇り、残念ながら、写真にはむかない一日でした。

                                      (那谷寺の項はつづきます)

 


シリーズ「秋の北陸路」(3) 粟津温泉

2014年10月26日 10時39分54秒 | 紀行

JRの加賀温泉駅からマイクロバスで約20分、
粟津の駅からは、約10分で粟津温泉に到着します。

この温泉は、「白山」の開祖と伝えられる、
修験道の僧、「泰澄大師(たいちょうだいし)」によって、
養老2年(718)に発見されたのが始まりと伝えられています。

小松から、一ヵ所、お寺に立ち寄ったあと、
雨の中を、早々と目的地の旅館「法師」にはいりました。

450人を収容するという、この旅館も、この日はウイークデイとあって、
それほどの混雑はありませんでした。

泰澄禅師が、この粟津温泉を弟子に湯治宿として任せたのが
「法師」の始まりとかで、創業、約1300年の歴史になります。

歴史を感じさせる庭には古木も多く、緑の苔に風格があります。

1938年(昭和13年)生まれのご当主、法師善五郎さんは、
42歳で「法師」の46代目、を襲名したと言います。

現在、毎朝、午前6時45分から、ロビー横の広間で
宿泊者への早朝講話をつづけています。

「人々の心と体を癒すという旅館の目的は、1300年前も今も変わりません。
どんな工夫が必要かこれからも考えていく必要があります」、と言っています。

日本人の生活様式が変化する中、「これからではなく」、
素早い対応が大切かもしれません。

                                 (次回は「那谷寺」をお伝えします)


シリーズ「秋の北陸路」(2) 小松市

2014年10月24日 17時28分51秒 | 紀行

10月20日(月)朝、家を出るときは曇り空でした。

11時半過ぎの特急サンダーバード、
京都を出てから車窓に雨が当たりだしました。

これから三日間、雨の「北陸路を往く」、旅の始まりでした。

降り立った小松駅西口広場は本降りの雨でした。

駅前の風景は、私の記憶に無い立派な駅に変わっていました。

と言うのも、この駅には深い思い出があります。

終戦の年、当時、中学校1年生だった私は、縁故疎開でたどり着いた
山代温泉から、この小松市内にあった県立小松工業学校へ約2年間、
下駄履き姿で汽車にかじりついて通っていました。

当時の駅の面影が無いのは、年月の経過による、
当然のことかもしれません

この日は、知人の老舗和菓子店のご主人の出迎えを受け、車でお宅へ伺いました。

隣の家を買い取られたご主人は、和菓子店のほかに、隣のスペースも
焼き物や絵画の愛好家の展示場にされていました。

そして、私が通った工業学校の跡地へ案内してもらいました。

場所は、市内の中央部、「向野地方(じかた)2-29」。
現在は、「桜木町」という地名になり、大きな石碑が立っていました。

終戦を迎えたのもこの土地でした。

小松の駅からは徒歩で、2キロ弱の距離でしょうか、
もう、校舎は、ありません。

約70年も前の思い出の土地です。

当時の記憶は、薄れてはいますが、ここへ通っていたのです。

雨は止むことも無く、降り続いています。

それにしても、人口11万弱の小松市内は、
道路の道巾が広く、よく、整備されているのには驚きました。


小松市内から加賀市勅使にある、お寺、「洗心寺」に寄って、
雨の中を粟津温泉へ向かいました。

 


シリーズ「秋の北陸路」(1) 新幹線を待つ

2014年10月23日 14時43分19秒 | 紀行

来年3月の北陸新幹線の乗り入れを前に、金沢駅周辺は活気に満ちていました。

JR金沢駅はその中心とあって、工事も急ピッチに進んでいます。

東口のガラス張りのドームは、雨にぬれない「もてなしドーム」。

そして、伝統芸能の鼓(つづみ)を模した「鼓門」が訪れる人を迎えてくれます。

私が知っていた「金沢駅」とは、ずいぶん、様変わりしていました。

この前、北陸を旅してから、もう、15年は経つでしょうか。

駅には、昔の面影は見当たりません。

今回は、小松市内、粟津、那谷寺、金沢市内、二泊三日の雨の中の旅です。

次回から、シリーズでお伝えします。


「KITTE(キッテ)を見る」 写真旅(6) 

2014年05月29日 10時45分07秒 | 紀行

東京駅丸の内、南口の天井です。

その南口を出たところ、旧東京中央郵便局が建て替えられて新しくなっていました。

「KITT(キッテ)」という、地下1階、地上6階のビルです。去年の3月の開業です。

1階のアトリウム。大きな吹き抜けの空間です。

はとバスのガイドさんが、「お昼は『KITTE』で食べられるのもいいですよ。
6階からは東京駅が一望に見えます」と、教えてくれました。

6階のテラスから見た丸の内と東京駅です。

レストランやショップもかなりの数入っており、穴場を感じさせてくれました。

 

私たちは、ここで、昼食を済ませ、午後の新幹線で帰宅の途につきました。

                                                  (写真旅 おわり)

 

 


「銀座テラス」 写真旅(5)

2014年05月27日 10時47分48秒 | 紀行

水曜日、お昼前の銀座です。

これから、食事時を迎えて、ドット、人が出てくるのでしょうか。

昼食は家内と二人。
ウロウロするのも疲れるので、銀座三越の上階、レストラン街で
探すことにしました。

食事のあと、9階に下りてくると、「銀座テラス」と名付けたフロァーがありました。

広いフロァーに椅子が並び、
軽食やスイーツの店が安い値段で店を開いていました。

高齢者や子供づれのお母さんたちが多く、モールやスーパーのレストラン街を
おもわせてくれました。

買い物客は、自由に座って休憩し、
飲んだり食べたり。

うん、これでなくちゃー。

銀座と言えども、今や、お高くとまっている時代ではなくなっているのです。

デパートの売り上げが云々される時代。まず、お客さんに来てもらうことが第一。

それには、なりふりかまっている時代ではないのでしょう。

関西の新しいデパートも見習うべし。そんなことをおもって眺めていました。。

屋上庭園にも出られる銀座三越9Fの「銀座テラス」です。

(この写真は「銀座三越」のホームページから複写)


摂津三湯のひとつ「平野湯」

2014年04月24日 16時48分09秒 | 紀行

兵庫県川西市、南北に走る能勢電鉄の「平野駅」周辺です。

線路の側を「塩川」が流れ、その西側を「国道173号」が走っています。

この付近、江戸時代は、有馬、一庫(ひとくら)とともに、
北摂三湯のひとつとして、「平野湯」があり、賑わったと言われています。

能勢電鉄、「平野駅」の改札を出ると、その歴史を記した標識が目に入ります。

駅から北へ、350m、国道173号の西側に「多田平野湯温泉薬師庵」の表示があります。

その東側、国道を隔てて、「三ツ矢サイダー発祥の地」の表示も出ています。

このあたり、古くから塩泉が湧き出ていたらしく、元禄年間には温泉場として
20数軒の旅舎があった、と書かれています。

それが江戸時代の末の大火で衰退し、今は、薬師堂の名残りを伝える
薬師庵があるだけです。

 その薬師庵を東へ、国道を渡ると「三ツ矢サイダー発祥の地」の
標識があります。

下の画像は平野付近から北方向を見たところです。

この画像の前方、国道を跨いで、間もなく、新名神高速道路の橋桁が
架かろうとしています。

 


若狭路「敦賀」紀行 3

2014年03月13日 10時54分55秒 | 紀行

北陸本線「敦賀駅」は大改修の真っ最中でした。

駅前広場や改札などを新しくするため、現在、乗り降りは、いささか不便を感じます。

明治15年に金ヶ崎線の敦賀駅としてできた駅は
、同29年北陸線が福井駅まで開通、
敦賀は日本海側への玄関口として発展してきました。

その後、幾多の変遷を繰り返して現在に至ります。

               (上の写真は、平成27年に完成する駅前広場のイメージ図です)

27年ぶりの敦賀だったものですから、
かっての駅前の風景などもよく覚えていません。

現在、工事中であることを除けば、駅前の大通りなども立派になっていました。

覚えているのは、こどものころ、敦賀から石川県へ汽車で行く途中、
柳ヶ瀬付近で、車両の前後に機関車を付け、
「スイッチバック」方式で山を登り、
それがおわったとおもったら、
間もなく、敦賀の駅に到着したことぐらいでしょうか。

(つづく)


若狭路「敦賀」紀行 2

2014年03月09日 15時51分52秒 | 紀行

3月4日の敦賀湾。

冬の名子海水浴場から見ると、湾の東側、史跡「金ヶ崎城跡」方向から、
太陽が昇ってきます。

穏やかな敦賀湾の朝です。

敦賀湾は、若狭湾の東の端。敦賀半島によって若狭湾と区切られています。

北前船や大陸への航路の要衝として古くから栄えてきました。

鉄道の発達で、一時は港湾としての機能が危ぶまれましたが、
最近は、国際コンテナの取り扱い港としても
見直されてきたといいます。

やがて、釣り人を運ぶ船も行き交いはじめ、湾は活気を見せてきます。

 (つづく)


若狭路「敦賀」紀行 1

2014年03月08日 14時36分41秒 | 紀行

JR大阪駅から特急電車で1時間20分。

福井県の敦賀まで、意外に速いので驚きました。

敦賀の人口は6万8,000人あまり。京阪神に近く、
大陸への日本の窓口として栄えた土地です。

昭和20年、あの敗戦の年、叔父を頼ってこの地に疎開していた私たち家族は、
北陸では、はじめてというB29の空襲に見舞われました。

(ブログ「春夏秋冬 75」にも記載しました)

それから「敦賀」は、私にとって,思い出の土地になりました。

敦賀湾の波静かな海岸。気比の松原。冬のカニ、若狭のふぐ。原子力発電所。

敦賀は話題に、こと欠きません。

これまで、敦賀を通過することは何度かありましたが、訪問するのは
27年ぶりになります。

季節は、「カニ」を過ぎて、「ふぐ」になろうとしていました。

昭和62年2月、敦賀の叔父が亡くなったとき、
弟と二人で、お葬式に来て以来の旅です。

それも、3月3日からの、わずか一泊二日。

こんなに近いのなら、もっと、早く来ればよかった、とおもっています。

(つづく)


「戊辰戦争」発端の地を見る(4)-淀

2013年12月12日 10時41分32秒 | 紀行

錦旗を掲げた新政府軍に対して、幕府歩兵隊や会津藩兵、それに新選組ら
旧幕府軍は、数こそ優勢でしたが砲火に劣り、
京都への前進は阻まれます。

4日には、鳥羽方面で一時、盛り返したとは言うものの指揮官らの
相次ぐ戦死などで退却、
淀から南で態勢を立て直そうとします。

上の写真は、京都方向から南方向を撮影した京阪電車「淀駅」付近です。

京都市伏見区納所(のうそ)の
鳥羽街道沿いに、「妙教寺(みょうきょうじ)」というお寺があります。

お寺の境内は、かって、淀君(茶々)が鶴松君を生んだという、
「淀古城」の本丸があったところと言われ、この付近でも
両軍の激戦が展開します。

妙教寺の本堂に、東軍の大砲の弾痕が残っています。

本堂の西側の板壁を突き抜けた砲弾は、
本堂を横切り、反対側の直径、約35cmの柱を貫通しました。

砲弾の飛び込んだ箇所には、
「戊辰ノ役(慶応四年 一八六八)東軍砲弾飛込口」の
表示が読み取れます。

柱にも「砲弾貫通柱」と書いた板が掲げられていました。

飛び込み口には、ガラスがはめられ、風雨を防いでいました。

 

淀駅近くには徳川時代になって建てられた淀城の跡があります。
今は、石垣と森が残るだけで公園になっています。

旧幕府軍は、5日、現職の老中でもあった稲葉正邦のこの淀城に入り、
戦況を立て直そうとしますが、藩主が江戸に滞在し、留守の淀藩は
城門を閉じて旧幕府軍の入城を拒否します。

このため、旧幕府軍はさらに南の男山、橋本方面へ退却します。

 現在の京都競馬場の駐車場入口脇に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の石碑と
慰霊碑がありました。

 慰霊碑には
「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない それが日本人同族の争でもあり 
いづれもが正しいと信じたるままにそれぞれの道へと己等の誠を尽くした
 然るに流れ行く一瞬の時差により或いは官軍となり 或いは幕軍となって士道に
殉じたので有ります ここに百年の歳月を閉じ 其の縁り有る此の地に不幸賊名に
斃れたる誇り有る人々に対し今慰霊碑の建つるを見る 在天の魂以って瞑すべし
                                            中村勝五郎
昭和四十五年 奉」
の碑文が読み取れました。

鳥羽・伏見から淀へかけて、たくさんのお寺があります。

お寺には戦死者を悼む埋骨碑や
戦跡を伝える石碑が多く建っていました。


1月6日、旧幕府軍は石清水八幡宮のある男山の東西に分かれて
布陣します。

戦況は、ここでは旧幕府軍に有利に見られていましたが、
西の大山崎を守備していた津藩が、朝廷の命に従い、
旧幕府軍へ砲撃を加えました。

おもいもかけない西側からの砲撃に、旧幕府軍は総崩れとなって
淀川を下って大阪へと逃れます。

この写真は、公園になった「淀城跡」から南方向を見たところです。

 

徳川慶喜は、1月6日夜、大阪城から、ひそかに大阪湾にあった幕府の軍艦
「開陽丸」へ脱出、側近とともに江戸へ逃れます。

同年4月、江戸城が無血開城。

8月には、明治天皇が即位、9月に「明治」と改元されました。

そのとき、「慶応4年を明治となす」と詔書にあることから
この年の1月1日からを「明治」と定めました。

翌、明治2年5月には五稜郭の戦いもおわり、「戊辰戦争」は終結。

日本の新しい時代が始まりました。

 

(鳥羽周辺は10月28日に、伏見周辺は11月16日に、
                    淀  周辺は10月12日に、撮影しました)

                                (「戊辰戦争」発端の地を見る  おわり)

 

     (ブログ「春夏秋冬 75」も更新しています) 


「戊辰戦争」発端の地を見る(3)- 伏見その2

2013年12月09日 10時32分52秒 | 紀行

伏見の町は東側が高台で、西南方向へなだらかな下りになっています。

その市街で3日夕方から激戦が展開しました。

御香宮(ごこうのみや)神社に布陣した薩長土らの連合軍は
高台にすえた大砲を大手筋を挟んで南方向に当たる
「伏見奉行所」に撃ち込みました。

奉行所に陣を置いた土方歳三率いる新選組らも
刀槍で応戦しましたが、大砲の力には勝てず、やがて、退却。

市街戦の末、奉行所は焼け落ちます。

この奉行所跡は明治維新以後は陸軍の基地になり、第2次大戦後は米軍に接収、
現在は住宅地や公園、学校にかわっています。

会津藩が陣所とした「東本願寺伏見別院」には、
門の前に「会津藩駐屯地跡」の石碑が建っていました。

二日間にわたって激しい市街戦が展開された伏見の町ですが、

京阪電車「伏見桃山駅」の東側、京町3丁目にある料理屋、

「魚三楼(うおさぶろう)」の表には、当時の弾痕の跡が

保存されていました。

両軍の戦闘は、3日・4日とつづき、町の南半分は
戦火に焼失したといわれています。

あの旅籠「寺田屋」も罹災、焼失しました。

現在の寺田屋は昭和30年代に再建されたものだそうです。

今はのどかな、十石舟の船着場も、当時は戦乱に巻き込まれたのです。



 

1月4日、京都を守る薩長藩には、錦旗を持った仁和寺宮義彰親王が
征討大将軍として出陣し、薩長軍は正式に官軍となりました。

これは、以後の戦局に大きな影響をもたらすことになります。

錦旗に戦意の衰えた旧幕府軍は淀方向への後退がつづき、
淀でも激しい戦闘がありました。

(次回、「戊辰戦争」発端の地を見る(3)は、「淀」をお伝えします)

 

ブログ「春夏秋冬 75」も更新しています


「戊辰戦争」発端の地を見る(2)ー伏見その1

2013年12月08日 14時05分27秒 | 紀行

伏見は、先の「城南宮」から東南へ直線距離にして2キロ余り。

会津藩、桑名藩を主力とする旧幕府軍は竹田街道を北上し、
3日には伏見市街へ進んできました。

そして、旧幕府軍は、現在の京阪電車「伏見桃山駅」の東南にあった
「伏見奉行所」や市内の寺に入って薩長軍と対峙しました。

伏見奉行所は、この京阪電車「伏見桃山駅」の東南方向へ
200mのあたりにありました。

線路はこのあたり、南北に走っており、商店街の先方向が西になります。
従って、奉行所はこのカメラ位置からは左方向です。

新選組は伏見警備のため、前年からこの伏見奉行所に本拠地を置いていました。

伏見奉行所跡の石碑からさらに南へおよそ300mに市立桃陵(とうりょう)中学校があります。

この中学校の正門を入ったところに石碑が集められていて、
中に、「維新戦跡」の石碑もありました。

また校内のグランドに、「伏見奉行所跡」の別の石碑もあり、
当時の奉行所がかなり大きかったことがうかがえました。

この旧幕府軍を阻止するため、薩摩、長州、土佐藩を主力とする連合軍は、
現在の近鉄「桃山御陵前駅」の東100mにある「御香宮神社」(ごこうのみや)に
陣を構えました。

 

拝殿の右、駐車場の奥に佐藤栄作氏筆の「明治維新 伏見の戦跡」の石碑と

説明板がありましたので、それを先に見ていただき、あとを続けます。

                 (「戊辰戦争」発端の地を見る(2)ー伏見その2 は、次回に続きます)


「戊辰戦争」発端の地を見る(1) - 鳥羽

2013年12月06日 13時52分40秒 | 紀行

NHKの大河ドラマ「八重の桜」も終わりに近く、「今さら」という気もしますが、
手術後の足慣らしに、戊辰(ぼしん)戦争の発端の地を見てきましたので、
シリーズで3回に分けて掲載します。

京都市伏見区中島御所ノ内町、「城南宮」の南西、約700mの

「鳥羽離宮跡公園」にある「戊辰戦争」(鳥羽伏見の戦い)の碑石です。

明治維新のきっかけとなったこの内戦は、「戊辰戦争」、または、
戊辰役(ぼしんのえき)、「鳥羽伏見の戦い」とも呼ばれています。

旧暦の慶応4年(1868)1月3日、京都に向かう幕府軍の主力と
これを阻止しようとする薩長藩の兵が最初に、ここ、鳥羽で衝突、
戊辰戦争が始まりました。

この内戦は、この年が「戊辰」の年に
あたっていたので「戊辰戦争」と呼ばれたものとおもいます。

戊辰(ぼしん)は、古代中国で考えられた十干(じっかん)と干支(えと)を
組み合わせたもので、もともと、干支は、60を周期とする数字でした。

十干は、甲・乙・丙・丁・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)、の10種類。
干支は、子・丑・寅・卯・辰(しん・たつ)・巳・午・未(ひつじ)・申(さる)・
酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)、の12種類。

これを組み合わせていくと60年に1回、同じ組み合わせがめぐってきます。
「還暦」という言葉も、60年に1回もどってくるので、60歳が還暦と言われています。

ここは、大阪から京都へ向かう京阪国道(国道1号)の「城南宮前」です。

この城南宮前から南区九条町の「東寺」まで、直線距離にして約3.5キロ。

大阪から京都を目指した幕府軍はこの付近で進軍を阻止されます。

慶応3年10月、大政を奉還した徳川慶喜は、京都にあっては、
政局おもわしくなく、
恭順の意を表わすため、12月に大阪城へ退去します。

しかし、大阪にあった徳川慶喜は、京都にある薩長を中心とする政府に対し、
挙兵を決意。

慶応4年1月2日、歩兵隊・会津、桑名藩を主力とする旧幕府軍は、
京都に向かって軍をすすめ、
3日夕方には15,000の兵が鳥羽、伏見に布陣。

これを迎え撃つ薩摩、長州藩を主力とする新政府軍5,000が
鳥羽・伏見で衝突しました。

城南宮の西、約500mの伏見区中島秋ノ山町の角地に建つ、
「鳥羽・伏見の戦い」の戦跡の碑です。

この戦跡碑から少し西へ、土堤を上がると鴨川があります。

そこに、今は立派な橋が架かっています。「小枝橋」です。

橋の欄干には、「こえだばし」(小枝橋)とあります。

当時、小枝橋は、もう少し下流にあって小さな橋だったそうですが、
ここが、戊辰戦争発端の地になりました。

1月3日の夕方、この橋の付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と旧幕府軍が
「通せ、通さぬ」で押し問答になり、
ついに、薩摩藩兵が発砲、ここに両軍が衝突しました。

小枝橋から500メートルほど東の「城南宮」に布陣していた長州藩兵も
「小枝橋」付近の衝突に気づき、戦端を開きます。

当時は、道も狭く、長い隊列を組んで進む旧幕府軍は、
薩長藩の砲火の前に前進を阻まれ後退を余儀なくされます。

さらに、伏見でも鳥羽方面での砲声が聞こえ、
竹田街道を北進してきた幕府軍と、これを迎え撃つ薩長藩の間で
戦闘がが始まりました。

戊辰戦争の発端となった「鳥羽伏見の戦い」は、

①の鳥羽地域から②の伏見地域へひろがります。

そして、薩長の強力な砲火に圧倒された幕府軍は、③の淀へと退却し、
そこでも激戦が繰り広げられます。


(戦跡の記述は、できれば画面を拡大してお読みください。
画面上で右クリック、編集のコピーをクリック、ワード画面に貼り付け、
開いた画面を拡大すれば読みやすくなります)

(次回は、「伏見」の戦跡を見ます)

 

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「あぶり餅」と今宮神社

2013年11月25日 11時44分30秒 | 紀行

京都の洛北、大徳寺の北側に、創建1100年といわれる
「今宮神社」があります。

その神社の東門に通じる参道です。

   

こちらは、神社の南側の正門です。

京の都の疫病を鎮めるために創建されたという神社です。

その東門参道に二軒の「あぶり餅」屋さんが向かい合わせに商売をしています。

この店は、参道の南側、「かざりや」。


 創業、400年をうたっているそうです。

こちらは北側にある一文字屋和輔こと、「いち和」屋。

こちらは、創業、1100年だとか。

「あぶり餅」は親指大の餅に、きな粉をまぶし、竹串に指して、炭火であぶったあと、
白味噌のタレをぬった餅菓子です。

材料は、餅、きな粉、白味噌、砂糖でしょうか。

味は、なかなか乙なもので、15串で500円。

二軒とも同じように仕上げ、値段も同じです。

23日の勤労感謝の日に訪ねましたが、大勢の参拝客が「あぶり餅」を食べていました。

どちらの店が古いのか判りませんが、平安時代のころからある、
日本最古の和菓子屋さんとされています。

一文字屋の暖簾の横には、「廿五代」と染めてありました。

応仁の乱や飢饉のとき、庶民に振る舞ったと言い伝えられ、

病気回復、厄除けを祈願し、あぶり餅を食べるとご利益があると親しまれているそうです。

 

参道の北側、駐車場の奥に見える大ケヤキです。

「 紅葉」を見ながら大勢の観光客の中を歩くのにくらべ、
鄙びた感じの参道で、厄除け祈願のあと、「あぶり餅」を食べるのも、
それなりの雰囲気がありました。

 

 

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