団塊の世代のつぶやき

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★新渡戸記念館問題続報

2016年02月10日 | 新渡戸記念館

  ねずさんが、2015年8月24日 (月)、第51 回の 「十 和田市の暴挙と新渡戸記念館」などで取り上げてくれて、知った大問題ですが、やっと新聞が取り上げてくれた そうです。やはり、産経新聞です。

  これも、ねずさんが取り上げてくれました。こんな大問題を未だに取り上げないマスコミや政府は、やはりおかしいです ね。

   小名木善行 ねずさんの ひとりごとより   2016年02月05日

  新 渡戸記念館問題続報(5)

  青森県十和田市にある新渡戸記念館が、在日と思しき十和田市の一部の悪質な連中によって廃館の危機に貧しているとい う問題について、このブログでみなさまにお知らせをしてまいりましたが、このたび、産経新聞がこの問題を全国紙の記事と してとりあげてくださいました。
実に冷静な記事です。

  産経ニュースより     2016.2.2

  【視線】 『武 士道』が泣いている 編集委員・安本寿久

  「市としては、資料は称徳館に移そうと考えています。どう展示するかはその後、考えたい。向こうは拒否されています が」

  この説明を聞いたとき、裁判になるほどもめている理由がわかった気がした。青森・十和田市立新渡戸記念館の存廃をめ ぐって、市と新渡戸家が争っている問題についてである。

  騒ぎの発端は昨年2月だった。同市が、同館の耐震診断を行ったところ、極低強度と判明したとして、4月1日からの休 館と館の取り壊しを発表したのである。休館後の資料保存、展示のための代替施設案は示されなかった。

  同館は、同市発展の基礎になった三本木原の開拓に尽力した新渡戸傳(つとう)、十次郎父子らの足跡を伝えるため、昭 和40年に開館。もともとは十次郎 の三男で国際連盟事務次長を務め、著書『武士道』で知られる新渡戸稲造の蔵書、遺品などを収めた私設新渡戸文庫だったた めに、新渡戸家が無償貸与した土地 に市が館を建て、資料を新渡戸家が寄託する形を取った。館長には新渡戸家の人が就任してきた。

  市の発表が急で一方的だったため、館長の新渡戸家8代目、常憲氏が専門家に耐震性の調査を依頼。補強すれば使用は可 能という判断を得て再調査や館の存 続を求めたが、市は応じず、資料の撤去や鍵の返還などを求めたため、新渡戸家が廃館・取り壊し決定の差し止めと耐震診断 の再調査を求めて提訴した。

  新渡戸家が憤慨し、懸念も持っているのは約8千点に及ぶ資料の扱い方である。市は、東北地方で同様の耐震診断で問題 があった博物館が約10館あった が、すべて財団法人や自治体が寄贈を受けた資料を保存展示していると指摘。市の予算を使っての保存は今後しないと告げ、 資料の寄贈か撤去を求めている。も し寄贈した場合はどう扱うのか。筆者が市の担当者に質問した際の回答が冒頭のものだ。称徳館とは、名馬の里でもある同市 が、馬に関する資料5千点を展示し ている馬の文化資料館である。新渡戸稲造の蔵書などが、馬の資料と同等の価値という判断なのである。

  「今も資料を市の所有物である展示ケースから出せ。その後は段ボール箱にでも入れておけばいいといわれている。その 判断は人類共通の遺産である文化財の保存上、妥当なものでしょうか」

  館長はそう語る。市がこの遺産の展示・保存のために支出する年間予算は館長、学芸員の給与も含めて2300万円であ る。その費用対効果ともいえる入館 者数は平成26年度で1万308人。稲造が五千円札になって5万3831人を集めた昭和59年度ほどの集客力は今はない が、それでもコンスタントに1万人 前後が入館する。

  作家・童門冬二氏の呼びかけで、地元ゆかりの先人を街づくりに生かそうとする自治体が集まる「嚶鳴(おうめい) フォーラム」という団体がある。参加自治体の一つ、岐阜県恵那市は江戸期の儒学者、佐藤一斎の「三学の教え」を生かした 街づくりをしている。

  〈少にして学べば即ち壮にして為す有り。壮にして学べば即ち老いて衰えず。老いて学べば即ち死して朽ちず〉

  この教えを実践するため、教える意志と知識のある人たちに公民館などを開放したところ、高齢者の病院通いが減り、医 療費が減ったという。先人は十分、活用方法があるという好例である。

  今年開かれる岩手国体は「東日本大震災復興の架け橋」という冠が決まっている。新渡戸稲造の「我、太平洋の架け橋と ならん」という言葉にちなんだもの だ。新渡戸家はもともと盛岡藩士。岩手県は先人の価値を熟知しているが、青森県では『武士道』が泣いている。(やすもと  としひさ)


  新聞には、記者の記名記事と、そうでない匿名記事があります。
記名記事は筆者が責任を持って書いているため、たいていまともな内容になっています。

  この記事の冒頭にある市の回答は、「(新渡戸記念館の)資料は称徳館に移す。どう展示するかはその後考えたい」とい うものですが、その「称徳館」は、馬の展示記念館です。
本文にもあるように、人類の宝である新渡戸稲造博士の遺品を、馬の道具と同じ扱いとしてしか、十和田市は考えていないと いうことです。

  しかも、具体的に「どこに資料を移すか」について、十和田市が明らかにしたのは、不思議な事に、これが最初です。
それまでは記念館側の「記念館取り壊し後、資料はどこに保管するのか」という質問に対して、市は「ダンボールにでも入れ ておけば良い。新渡戸家が資料を市に寄贈するなら、その後にちゃんと考える」という、まるで人を小馬鹿にしたような回答 しかしていません。

  もともとこの問題は、十和田市が突然「市の施設である記念館を取り壊す」と言ってきたことに由来します。
理由は、コンクリートの強度が不足し、耐震上問題があるというものです。
ところが記念館側で調査をすると、耐震上の問題など何もない。

  しかもこの強度検査をするに際して、市が主張するコンクリートの強度は、なるほど数値の上では不足だけれど、市が調 べたところを調べると、市が「コンクリート」として標本採取したのは、コンクリートの構造体そのものではなくて、その表 面に塗られたモルタルです。
モルタルに強度がないのは、あたりまです。

  さらに市は、このことを言ってきたとき、この時点で記念館の建築図面の確認さえしていません。
図面は、市がおかしなことを言ってきたときに、記念館側ではじめて取り寄せたのです。
つまり、標本はモルタル、しかも建築構造の確認さえしないで十和田市は、「コンクリートの強度に問題があるから記念館を 取り壊す」と言ってきたのです。

  新渡戸記念館の文化財とは何かといえば、保管している建物ではなく、中に所蔵されている史料です。
では、その史料をどうするのかといえば、当初の十和田市の回答は、「市に寄贈しろ」です。
寄贈後、史料をどのようにするのかという質問への市の回答は、「そんなことは、あんたには関係ない」です。
冗談じゃあないです。
  世界遺産のひとつと言って良い新渡戸家の財産を、無償で提供させ奪った挙句、その史料を、どのように扱うかについて は、まったく不明なのです。
まさに暴挙としかいいようがありません。…以下略

  今、やっと日本を取り戻そうという機運が盛り上がってきている日本にとって、この世界に武士道を広めてくれた新渡戸 稲造さんの記念館を、こんな扱いされたまま放って於いたのでは、余りにも情けないし、世界に対しても恥と言えるでしょ う。
  何とか、阻止したいものですね。と言うか、やはり、これは、国が乗り出してもらいたいし、そうあって、しかるべきで しょう。



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