お恥ずかしいですが和気清麻呂の名前は知っていましたが何をした方かは全く知りませんでした。学校で教わった記憶も無いのですが、名前をしっているのだから教わったのかも知れません。
さて、最悪の平成からもっと悪いと思われる令和は最初から天候にも恵まれず、何だかおかしなスタートのままです。
もしかしたら令和の道鏡が暗躍しているのかも。
ねずさんが、その清麻呂の姉さんのことを書いてくれています。何と、清麻呂はこの姉さんの代理で宇佐八幡へ行ったんですね。それ程に素晴らしい姉さんだったようです。
何時ものように全文をリンク元で読んでください。
ねずさん のひとりごとより 2019 年 10月7日
和気広虫 (わけのひろむし)のお話
和気広虫(わけのひろむし)は、備前国の藤野郡の生まれで、後に京の都を開いた和気清麻呂(わけのきよまろ)の姉です。
長じて従五位下の葛井戸主(ふじのへぬし)に嫁ぎました。
広く漢学や仏教に通じて、貞淑のほまれたかい婦人です。
孝謙天皇は、深く広虫を信愛され、正六位下に叙せられました。
その孝謙天皇が落飾(らくしょく・髪をおとして仏門にはいること)されたとき、広虫もまた剃髪(ていはつ)して法弟子とな り、このとき上皇から法均(ほうきん)という名を賜り、進守太夫(しんしゅたゆう)の尼位(にゐ)を授けられています。
天平宝字(てんぴょうほうじ)8年(764)9月、藤原仲麻呂の乱があり、数百人が反徒として捕らえられて斬に処せられよう としたとき、法均尼が彼らの命乞いを天皇に上奏し、これによって375人が死を減ぜられて流刑に処せらました。
その後、法均尼は、凶事が続いたことによって生じた孤児たち80余人を自宅に収容し、自らこれを一手に救養し、ことごとく養 子を称してねんごろに撫育(ぶいく)しました。
天皇は、深くその徳行を嘉(よみ)とされ、姓を葛木首(かつらぎのおびと)と賜われ、神護景雲2年(768)には、従四位の 封戸(ふこ)と、位禄、位田を賜りました。
さてこの頃、僧道教(どうきょう)は、君寵(くんちょう)を恃(たの)んで、出入りに警蹕(けいひつ・天皇の出入に際して、 先払いが掛け声を掛けること)して、天皇と同じ輿(こし)を真似し、法王を自称してついに天皇の位を伺おうとしていました。
天皇は、法均尼を宇佐八幡宮に遣(つか)わす神夢を得られるのですが、女性の身で遠路は耐え難いであろうと案じられ、弟の 和気清麻呂を姉に代えて宇佐に遣わすことになりました。
出立に先立ち、法均尼は、身を以て皇位を護り奉るべしと、弟を激励しました。
清麻呂は敢然(かんぜん)と立って宇佐に至り、
「わが国家は、開闢(かいびゃく)よりこのかた君臣が定まっている。
臣をもって君と為すこと、
いまだ之(これ)有らざるなり。
天津日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒(こうちょ)を立てよ。
無道の人はよろしく早く掃除(はらいのぞ)くべし」
との御神託を授かります。・・・以下略
さて、令和の和気清麻呂は出現してくれるでしょうか。それとも道鏡一味の企みで女系天皇となり、日本は滅びるのでしょうか。五輪なんて浮かれている場合じゃないのかも。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます