日の、「奇跡の軍隊」でも書きましたが、日本 人の余りの民度の高さは、そこまで到底達していない今の日本人や当時の世界の人々には絶対に理解できなかったのじゃない でしょうか。
そんな、我が先人の素晴らしさに比べて、アメリカ人の民度の低さを加瀬さんが鋭く書いてくれています。
加 瀬英明のコラムより Date : 2015/05/13 (Wed)
戦後70年を経ても変わらない米国の人種差別
戦後70年に、日米戦争の原因について考えたい。その1つが、人種差別にあった。
昭和天皇が敗戦の翌年に、対米戦争の原因について、つぎのように述べられている。
「この原因を尋ねれば、遠く(大正8年のパリ講和会議に)日本の主張した人種平等案は列国の容認する処(ところ)と ならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは、日本国民を憤慨させるに充分なものであった。
かゝる国民的憤慨を背景として、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業(もの)ではない。(『昭和天皇独白 録』)
平成12(2000)年に、拓殖大学が創立100周年を祝った。
今上天皇が記念式典に臨席された時のお言葉のなかで、「校歌には青年の海外雄飛の志とともに、『人種の色と地の境 我が立つ前に差別なし』と、うたわれています。当時、多くの学生が、この思いを胸に未知の世界へと、大学を後にしたこと と、思われます」と、述べられた。
父・天皇の想いを、語られたにちがいない。
太平洋戦線で、アメリカのほとんどの部隊が日本人を蔑視して、投降する兵や、負傷兵を見境なく虐殺した。
そう聞かれると、驚く読者もおられようが、チャールズ・リンドバーグの『第二次大戦参戦記』(学研文庫)、マサ チューセッツ工科大学(MIT)のジョ ン・ダワー教授の『容赦なき戦争(ウォア・ウィズアウト・マーシー)』(平凡社)をはじめとする、多くの著作に克明に描 かれている。
アメリカ兵が沖縄戦で住民を虐殺したことが、イギリスの歴史作家M・ヘイスティグスの『日本との戦い 1944―5 年』(ハーパース、未訳)に、取りあげられている。
ノース・カロライナ大学のG・ホーン教授の新著『人種戦争(レイス・ウオア)』(6月に祥伝社から刊行)によれば、 トルーマン大統領がホワイトハウス で「神は白人を土から創り、黒人(ニガー)を屑から創った。その残りが、シナ人(チャイナマン)だ。神はシナ人(チャイ ナマン)とジャップが大嫌いだ。私 もだ。人種差別だが、私は黒人(ニガー)はアフリカへ、黄色(イエローメン)のはアジアにいるべきだと強く主張する」と 語った。
アメリカは日本について、まったく無知だった。そのよい例が、戦争中にアメリカ政府の委託によって、人類文化学者の ルース・ベネディクトが、日本の国民性について研究した『菊と刀』である。
ベネディクトは日本語もできず、日本を訪れたこともないが、日系アメリカ人を拘禁した収容所をまわって調査し、西洋 が内面の「罪の文化」であるのに対して、日本は外面だけを飾る「恥の文化」だと、結論づけた。
私の母方の祖母は、会津若松の武家の血を享けていたが、少年時代に祖母から「心に心を恥じる」とか、「自分の心を証 人として生きなさい」と、教えられた。
日本でベネディクトの『菊と刀』を崇める向きが少なくない。自国について蒙昧なのだ。
アメリカの日本知らずは、今日も変わらない。
ベネディクトが似非(えせ)学者なら、日本にもその男版がいた。
私は有斐閣の昭和47年初版の『六法全書』を、所蔵している。我妻栄東京大学教授が編集代表として、編纂したもの だ。日本が独立を回復して20年後に刊行されたというのに、憲法篇の扉にアメリカ独立宣言文が、全文、英語と日本語で 載っている。
「われわれは、次の真理を自明なものと考える。すなわち、すべての人間は、平等に造られている。彼らは、その造物主 によって一定のゆずり渡すことのできない権利を与えられている‥‥」から、始まる。
アメリカ独立宣言は、アメリカ3代大統領となったトマス・ジェファーソンが起草したが、南部の荘園主で、奴隷主だっ た。「すべての人間」というのは、白人だけのことだ。
アメリカ独立宣言文は、鞭打たれる黒人たちの悲鳴を聞きながら、書かれたものだった。
こうした程度の低い人達に我が先人の素晴らしさを理解してもらうには、やはり、根気強く世界に発信していくしかない でしょうね。
そうして、先人の素晴らしさが少しでも理解されるようになれば、如何に自分たちがその素晴らしい人達を貶めて来たこ とが分かり、責めてきたことを反省 するようになるのじゃないでしょうか。というか、そこまで、理解してもらうように広報を続けることが、今の劣化した日本 人が先人の名誉を挽回する責務では ないでしょうか。
世界が理解するようになれば、靖国参拝に世界の人達かこぞって来るようになるのじゃないでしょうか。そこまで、やれ ば、靖国参拝だの南京虐殺だの慰安婦問題などはきれいさっぱり吹き飛んでしまうでしょう。
このところ、戦後の劣化した日本人の国賊・売国奴ばかり取り上げて来たので、戦前の日本の軍隊が如何に凄かったかを取り上げてみました。
この、人間としての差を埋めるのは並大抵のことではないですが、それをやらない限り、日本の本当の再生は無いと言えるでしょう。
それにしても、日本の軍隊の規律の凄さ、精神の高さには恐れ入るしかありません。散々、戦後の劣化した日本人を非難してきましたが、それじゃ同じ行動 がとれるかと問われると、軟弱物の私としては、自信を持って答えることは出来ません。同じような立場にたって、あれだけの矜持を保てるかの自信は全くあり ません。情けないことです。
産経WESTより 2015.5.11
【歴史戦WEST】 南京事件「虐殺30万人」に疑念 日本軍元少尉の日記が明かす「士気」と「規律」、中国匪賊の「蛮行」
「南京事件」はあったのか、なかったのか-。昭和12(1937)年、当時の中華民国の首都・南京を占領した日本軍が、約6週間から2カ月 間にわたって多数の敗残兵や住民らを殺害したとされ、いまだに犠牲者数や存否をめぐって論争が続く南京事件。中国側が「30万人」と主張する犠牲者数は、 日本国内では支持する有識者はほとんどいないものの、国を挙げた中国側の執拗(しつよう)な取り組みによって30万人説が国際的に一人歩きしている側面も ある。事実はどうだったのか。南京攻略戦から78年を経て、新たに明らかになった元将校の日記や手紙からは規律に満ちた日本軍の様相が浮かび上がる。反日 姿勢を強める中国側の喧伝にはますます疑念を抱かざるを得ない。(歴史戦WEST取材班)
「泥の兵隊」日本軍を苦しめた南京への道
歳月の長さを感じさせる黄ばんだ手帳や、封書の束、モノクロ写真…。その数はざっと50点以上はあるだろうか。いずれも約80年前に上海、南京攻略戦を皮切りに日中戦争を戦った陸軍少尉、西山源次郎さんが残した貴重な記録だ。
《毎日十里(約40キロ)余り歩いて、毎朝腰が上がらない。(中略)南京が近くなったので毎日、遊軍機は飛び、攻略戦に早く参加すべく兵の士気があがった》
源次郎さんが手帳に鉛筆でつづった文章からは、昭和12年初冬、当時の中華民国の首都、南京の攻略に向かう日本軍将兵らの息づかいが聞こえてくるようだ。
「父が南京攻略戦に参加していると知っていれば…」。源次郎さんの長男、邦夫さん(78)は父の遺品を手に語る。源次郎さんは平成5年、87歳で死去。 18年に母も亡くなり、遺品を整理していた際、父の日記や戦地から母に送った手紙など膨大な資料を見つけた。資料を見て初めて、父が南京攻略戦に参加して いたことを知った。・・・中略
踏み荒らされた家屋に「惜しい」
日記は数日途絶え、16日から再開する。
この日、雨花門周辺の警備を担当していた源次郎さんは、部下を率いて城壁上を移動。《支那兵の弾薬、迫撃砲弾など夥く、死体も数十ありたり》という状況だった。
午後11時ごろまで任務に就いたが、その間、大隊長から、部隊の団結とともに規律の維持を求められたという。
17日には《午前九時半集合、正午南門を発する予定…(中略)十時には早くも出発》。次の任務地に向かうため南京城を離れた。
自らも航空自衛隊で空将補を務めた邦夫さんは、自身の経験を踏まえ、17日の記述に着目するのだ。
「師団であれば万単位、連隊でも何千人単位で構成されている。部隊は前夜遅くまで警備を行っていたにもかかわらず、急な移動命令でもただちに出発できる態勢を確保していた。このように迅速に行動できるのは、高い士気と規律を維持していたからに違いない」
日記や手記だけでなく、源次郎さんは妻にあてた私信の中でも南京城内の様子について触れている。南京陥落から約1カ月半後の昭和13年1月25日付の手紙にはこうある。
《南京城では千円もするような毛筆を見つけた者や、銀狐や時計、双眼鏡、拳銃、首飾り等々金目の物を大分見つけた者もあるやうです。残幣を何万円も見つけた者があって、将校はいちいち取り締まらなければならないので、困りました》
当時、南京城内にいた住民らは、欧米人らでつくる国際委員会が設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んでいた。だが、多くは貧しい人々ばかりで、裕福な住民らは早々に南京を脱出している。
日本軍が富裕層の家から高級品を略奪したとする意見があるが、中国軍の仕業との見方もある。
源次郎さんの記述について、邦夫さんは「陥落直後の城内の掃討作戦中に目にした様子だろう」と推測した上で、「文面からは、部下の略奪を嘆いているので はなく、部下から発見の報告を受け、父はすべてに対応しなければならず困っていたのでしょう。こうした状況からも規律が守られていたことがうかがえる」と 語る。
さらに、家の中は中国軍により《書籍や家宝となるやうなものが沢山荒し放題あらされて或いは踏み荒らされ》といった状況で、《惜しいと思いました》と無念さを記している。
「支那の兵隊」と同一視は「かなわない」
日本軍は南京城内で住民を殺し、ほかの地域でも残虐行為を行った-と中国側は主張する。
しかし、その後山東省や北京近郊などの戦線で任務に就いた源次郎さんが妻にあてた私信からは、日本兵と住民の異なる関係が浮かび上がる。
手紙では、中国人の匪賊(非正規武装集団)と住民の戦闘が絶えず、住民が殺されたり、子供が誘拐されたりする悲惨な出来事が繰り返されているとし、《いくら日本軍が討伐しても、三年や五年で尽きるものではない》と訴えている。
また、住民との関係について《支那では兵隊は良くない人間ばかりなので(住民は)日本軍も同じように考えているのです。兵隊は悪いことをするものという考えがあるからすぐ逃げる。支那の兵隊と一緒にみられてはかなわないね》
だが、日本兵に対する住民の見方は徐々に変化する。
《最近での評判が大分いいのです。示威行軍に行っても皆出迎えてくれるほどなのです。日本軍は税金も取らないし、品物も買ってくれると…》
《支那兵は毎日食い物をもらいに来る。応じなければ銃殺されることもある。税金はむやみに取る。出さなければ女や子供を人質に取る。こんなやり方をするのだから嫌われるのも当たり前です》
「日中戦争時の日本軍の残虐性を示す」とされてきた当時の写真が、その後の検証で匪賊や中国側によるものと判明したケースもある。源次郎さんの記述からも、中国大陸であったとされる「蛮行」は、果たして日本軍による行為だったのかという疑念すら浮かんでくる。
日記に「虐殺」記述なし
戦後、源次郎さんは郷里に戻って中学校教員として家族を養った。邦夫さんらには戦場での話をしなかった。戦時中はひげを生やし、いかつい風貌(ふうぼう)だったが、家族には終始穏やかな態度で接していた。
「父が話したかったことは、残された日記や手紙にすべて収まっている。父らの世代が戦時中のことを語らないのは、言えば自己弁護になるし、語ることを潔しとしない世代だったからではないか」
邦夫さんは父の足跡を伝えようと、日記や手紙などを本にまとめ、子供や孫、親類に配った。
防衛大学校に4期生として入校した邦夫さんが、防大の講義やその後の自衛隊生活で常に求められたのは規律だったという。
「強い軍隊ほど規律の保持が徹底される。逆に軍紀が厳粛だからこそ、戦場という場で能力が発揮できる」と実感を込めて語る邦夫さん。戦後、突如として現れた「南京大虐殺」説に対して疑念をぬぐえず、悔しさをつのらせる。
「もし当時、虐殺といった不当行為を目撃していれば、父は真実を日記や手紙に書き残していただろう。日記からはそんなことはうかがえない。物理的に30万人を虐殺するのは無理なのに、戦後の大きな風潮のうねりの中で歴史の歪曲(わいきょく)に染まってしまった」
勝者が敗者を裁き、勝者が主張する虚構と欺瞞(ぎまん)に満ちた歴史観がまかり通る戦後の国際社会。歴史の真実を明らかにすることは、源次郎さんら多くの日本軍将兵らとともに日本の名誉を回復することにほかならない。
「支那の兵隊と一緒にみられてはかなわないね」に日本人の精神の凄さが見事に表されている。要するに、日本人の民度の高さは世界とは比べ物にならなものだったので、世界には理解できないと言うことでしょう。
もう一つ、ねずさんが書いてくれている凄まじい日本人の生き様があります。この白骨街道の話は、何度読んでも涙を禁じ得ません。この、物凄い我が先人 を貶めることができる今の日本の劣化と比べるとその余りの人間としての差に愕然とさせられます。世界のどこの国の人達がこの精神を理解できるでしょうか。
要するに、この余りの精神の高さを、今の劣化した日本人も世界の人達も想像することができないから、貶めることが出来るのでしょう。つまりは、自分たちのレベルでしか考えられないと言うことです。
それにしても、我々の先人の凄さは恐ろしいものがありますね。少しでも近づきたいものです。
例によって、全文はリンク元で読んでください。外務省に、これを、英文などで世界に紹介して欲しいものですが、外務省にこれを理解できる民度の高い人がいるかが心配です。
ねずさんの ひとりごとより 2015年05月13日
上にある写真は、ミャンマー西部にあるチン州のティディム道です。
ここは、かつて白骨街道と呼ばれた道のひとつで、ここを約6万人の若い日本人の兵隊さんたちが通り、うち4万名が飢えと怪我とマラリアによる高熱で命を落としました。
この模様の詳細については、『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第一巻』に詳しく触れさせていただきました。
写真を御覧頂いて、すぐにわかると思いますが、街道の周囲には畑であり田んぼです。
もちろん集落もあります。
けれど、そんなところを武器を携帯し、腹を空かせた日本人の青年たちが通りながら、盗みや強奪強姦などの事件をただの1件も起こしていないのです。
これは世界史でみたら、奇異なことというより、もはや奇跡に近いことです。
なぜなら世界中どこでも、敗残兵といえば「最も危険な掠奪集団」と相場が決まっているからです。
すでに軍の統制から切り離された敗残兵には、軍から支給される食料もありません。
彼らは武器を手にし、周囲の村を襲って掠奪するしか生き残る道がなかったわけです。
しかも追われる身です。いつ殺されるかわからない。
いわば「明日のない身」であり、自暴自棄になった彼らは、まさに欲望集団に堕ちたわけです。
ですから「敗残兵=掠奪集団」というのは、まさに世界の常識なのです。
ところが日本人は、6万人の青年達が敗残兵となって街道を落ち、そのうち4万人が飢えて死ぬという過酷な状況にありながらも、誰一人、コソ泥さえする者がいなかった。
これはものすごいことです。
なぜなのでしょうか。
どうして彼らは、泥棒さえもしなかったのでしょうか。
それだけではありません。
戦後、インパールの戦いについては、この街道を実際に落ちのび、ようやく生還した元日本の軍人さんたちが、多くの手記を残していますが、その中で、誰一人 (誰一人です!)「私はお腹が空いていたけれど、泥棒も強盗も強姦もしませんでした。立派でしょ?」などと書いていないのです。
それは、書いても良いくらい、世界史的に見たら実はすごいことです。
にも関わらず、誰一人、そんなことを自慢などしていない。
それどころか、「現地の人達が屋台を出してくれたおかげで飢えをしのぐことができた。けれどそのときの代金を軍票で払ったから、あとでそれが紙くずになってしまって申し訳ないことをした」などと書いているわけです。
片や生きるか死ぬかの瀬戸際にいるわけです。
一方で現地の人達が屋台まで出したということは、それだけ日本兵(武器を持っています)が安心できる存在、決して民間人を脅したり奪ったりするような人達ではないということを、現地の村の人達自身が一番よくわかっていたということです。
そしてさらに言うならば、目の前の街道をお腹を空かせて落ちのびて行く日本の兵隊さんたちが、畑の作物を奪ったりしないかわりに、街道で次々と白骨になっていく。
だったら、屋台にしさえすれば、みんなすこしでも食べ物を口にできるのではないかと、現地の人が思ってくれたから、屋台が出たのです。
この時点で、すでに日本側の敗色が濃いことは現地の人達は知っています。
ですから軍票をもらったところで紙切れになることは、彼らはとうに知っているわけです。
「それでも何か食べてもらいたかった」
それが彼らの偽らざる気持ちだったのであろうと思います。
これまた世界史どころか、人類史上の奇跡ともいえる出来事であると思います。
なぜ彼ら日本の兵隊さんたちは、飢えてまでしても泥棒や強盗をしなかったのでしょうか。
いくつかの理由がありますが、そのひとつに昔の日本には「命よりも魂を大切にする」という価値観がありました。
人には魂があり、その魂は何度も生まれ変わる。
いわゆる輪廻転生ですが、それを繰り返す。
命は今生限りのものだけれど、魂は永続するものだ。
だから今生で、たとえ自分の命が失われることがあっても、自分の魂だけは汚さない。
そういう思考です。…以下略
これを、今の劣化した日本人に真似が出来るでしょうか。到底無理のような気がしますが、それでも、世界に比べればまだ可能性は残っているような気がします。
本田宗一郎さんを取り上げた、第 5695回の「本田宗一朗さん」で西村幸佑さんとの対談でホンダを語ってくれた関野通夫さんがホンダを退職 して書いた本が本業の技術とは違って、GHQの焚書坑儒に関してだと言うのには驚かされたものですが、その動画が桜チャ ンネルでアップされていました。
話は、ちょっと変わりますが、下はあの時の関野さんの動画です。
【特 別企画・対談】どうする日本の製造業 ホンダF1は復活するのか?/西村幸祐+関野通夫
あの時もう一つアップした動画のタイトル「知 恵泉 : 本田 宗一朗 / 町工場のオヤジの心を 持ち続けた生涯」 の宗一郎さんの名前が宗一朗になっているので、これは、もしかしたら、私が長い間勘違いしていたのかと不安になって、朗 の方を使ったのですが、その後いろ いろ検索してみても、やはり、郎の方が正解のように思えます。気になっていたのですが、未だにどちらかはっきりしないの で、取りあえず郎の法を使わせてい ただきます。
話が飛んでしまって済みませんでした。どうにも人の名前だけに気になっていたのです。
本題の関野さんの話題に戻ります。
GHQの焚書坑儒と言えば、第 115回の「GHQ焚書」を書いてくれた西尾幹二さんですが、その西尾さんと関野さんの対談が動画になって います。
占領下、大東亜戦争を戦った日本人の物語を断ち切るかのように、7千冊以上の戦前・戦中の書物がGHQによって没収 された。
理不尽な“焚書”に遭ったそれらの図書を“開封”し、当時の日本の実相を読み解いていきます。
こうやって、GHQによって自虐史観を植え付けられ、今や劣化してしまった日本人ですが、西尾さんや関野さんのよう な方達の努力で、少しずつ日本人が目覚めて、戦前の民度の高い日本人に近づくことができれば、日本の再生も間違いないで しょう。