【on_Flickr】0617_haruna
布を纏い、舞う。
布はすなわち「纏(てん)」。
煩悩として衆生にまとわりつき、
生死に流転する人間の欲望そのもの。
「纏縛(てんばく)」とは
その煩悩によって、身動きが定まらなくなる意。
現世はまさに「纏縛」。
欲望の赴くままに資本が巡り、経済システムが一人歩き。
生命体が壊滅しても、そのまま暴走することだろう。
布を纏い、舞う。
布はすなわち「纏(てん)」。
煩悩として衆生にまとわりつき、
生死に流転する人間の欲望そのもの。
「纏縛(てんばく)」とは
その煩悩によって、身動きが定まらなくなる意。
現世はまさに「纏縛」。
欲望の赴くままに資本が巡り、経済システムが一人歩き。
生命体が壊滅しても、そのまま暴走することだろう。
【on_Flickr】0617_haruna
原初において神と鬼は同一であった。鬼は神のもうひとつの顔であった。
畏れ多い自然との対峙を余儀なくされた島国の民は、畏怖し祀ることでその脅威を鎮めようと願った。
時には生け贄を捧げることで、その力を納めてくれるよう祈った。
その「供犠」という儀礼が、神仏習合により「神楽」とカタチを変えた。
つまり音楽や舞はもともと「供犠」として捧げ、神を〔鬼を)鎮めるための儀礼だった。
今回、ダンサー渋谷陽菜さんには3つの場所で舞を「供犠」してもらった。
ひとつは「浄名院」八万四千体の地蔵=死者が祀られているところ。
ひとつは「谷中霊園」神仏西洋の墓が整然と並ぶところ。
ひとつは「乙女稲荷神社」市井の人々の思いがあつまるところ。
生と死の「あわひ」の際に感応して、
ダンサー渋谷陽菜は時に憑依し、時に語り、時に黙して、その舞を「供犠」した。
あちら側とこちら側が交差する場所で、ダンサーは舞った。見事に巫女を務めてくれた。感謝。
原初において神と鬼は同一であった。鬼は神のもうひとつの顔であった。
畏れ多い自然との対峙を余儀なくされた島国の民は、畏怖し祀ることでその脅威を鎮めようと願った。
時には生け贄を捧げることで、その力を納めてくれるよう祈った。
その「供犠」という儀礼が、神仏習合により「神楽」とカタチを変えた。
つまり音楽や舞はもともと「供犠」として捧げ、神を〔鬼を)鎮めるための儀礼だった。
今回、ダンサー渋谷陽菜さんには3つの場所で舞を「供犠」してもらった。
ひとつは「浄名院」八万四千体の地蔵=死者が祀られているところ。
ひとつは「谷中霊園」神仏西洋の墓が整然と並ぶところ。
ひとつは「乙女稲荷神社」市井の人々の思いがあつまるところ。
生と死の「あわひ」の際に感応して、
ダンサー渋谷陽菜は時に憑依し、時に語り、時に黙して、その舞を「供犠」した。
あちら側とこちら側が交差する場所で、ダンサーは舞った。見事に巫女を務めてくれた。感謝。