急ぐには当たらない!
本多の軌道がどこへ本多を導くのか、
彼自身知らないのであるから、
急いだとて何になろう、
と決して死を急いだことのない男は考えた。
ベナレスで本多が見たものは、
いわば宇宙の元素としての人間の不滅であった。
来世は、時間の彼方に揺曳するものでもなく、
空間の彼方に燦然と存在するものでもなかった。
死んで四大に還って、
集合的な存在に一旦融解するとすれば、
輪廻転生を繰り返す場所も、
この世のここでなければならぬ法はなかった。
清顕や勲やジン・ジャンが相次いで
本多の身辺に顕れたのは、
偶然というもおろかな偶然だったのであろう。
もし本多の中の一個の元素が、
宇宙の果ての一個の元素と等質のものであったとしたら、
一旦個性を失ったのちは、わざわざ空間と時間をくぐって
交換の手続きを踏むにも及ばない。
それはここにあるのと、かしこにあるのと、
全く同じことを意味するからである。
来世の本多は、
宇宙の別の極にある本多であっても、
なんら妨げがない。
糸を切って一旦卓上に散らばった夥しい多彩なビーズを、
又別の順序で糸につなぐときに、
もし卓の下へ落ちたビーズがない限り、
卓上のビーズは不変であり、
それこそは不滅の唯一の定義だった。
(1970年11月「天人五衰」三島由紀夫著)
●
生命という名の動的な平衡は、
それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、
同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。
それが動的な平衡の謂いである。
それは決して逆戻りできない営みであり、同時に
どの瞬間でもすでに完成された仕組みなのである。
(2007年5月「生物と無生物のあいだ」福岡伸一著)
これを読んだ時、ボクは三島由紀夫の「天人五衰」を思い出した。
DNAの二重らせん構造が発表されたのが1953年だから、
三島由紀夫もDNAの存在は承知していただろう。
生命体を元素の集合体とみなし、
その崩壊と再構築を「卓上のビーズ」にたとえた。
そして、その崩壊(死)と再構築(生)は
時間と場所を問わない不滅の定義へと導いた。
ボクはこの一節を読んだとき、戦慄をおぼえた。
あらゆる生命体(宇宙も含めた)が崩壊と再構築を繰り返し、
絶えず入れ替わっている状態。
大きなうねりのただ中に、自分は今、仮りに存在しているのだ…と
認識することの安堵と絶望のアンビバレントな感慨は、
ボクを漆黒の宇宙へ放擲した。
そして、その認識が
あながち間違っていなかったことを
この「動的平衡」は語っている。
ボクはふたたび、大きな戦慄を感じた。
ボクを形成するあらゆる細胞は、
DNAレベルで崩壊と再構築を繰り返し、
常に新たな構成要素で一方向に営まれている。
ツメや髪の毛が絶えず伸びるように、
体内のあらゆる細胞は死と再生を繰り返し、
「ボク」という生命体を「維持」している。
それはあたかも巨大な都市が
人間の意識を超えて、地下へ天空へと増殖を繰り返し、
絶えずエネルギーを放出している様に似ている。
うごめいている。
ダイナミックにうごめき、
崩壊しながら、その存在を保とうとしている。
「もののけ姫」のシシガミ様が
よろめきながらも自身のこうべを求めて
彷徨うような、危うい均衡状態。
あらゆる生命体が、
数珠繋ぎのビーズのように
連綿と連なっていること
それは地球の外の、太陽系のさらに外の、
銀河系のさらにさらに外まで、つながっているのではないか。
そして、そこにはまた
巨大な生命体が明滅を繰り返しているのではないか。
そんな入れ子構造のだまし絵のような円環が
「世界」そのものではないか。
そんな気がして、ならないのだ。
「生物と無生物のあいだ」
本多の軌道がどこへ本多を導くのか、
彼自身知らないのであるから、
急いだとて何になろう、
と決して死を急いだことのない男は考えた。
ベナレスで本多が見たものは、
いわば宇宙の元素としての人間の不滅であった。
来世は、時間の彼方に揺曳するものでもなく、
空間の彼方に燦然と存在するものでもなかった。
死んで四大に還って、
集合的な存在に一旦融解するとすれば、
輪廻転生を繰り返す場所も、
この世のここでなければならぬ法はなかった。
清顕や勲やジン・ジャンが相次いで
本多の身辺に顕れたのは、
偶然というもおろかな偶然だったのであろう。
もし本多の中の一個の元素が、
宇宙の果ての一個の元素と等質のものであったとしたら、
一旦個性を失ったのちは、わざわざ空間と時間をくぐって
交換の手続きを踏むにも及ばない。
それはここにあるのと、かしこにあるのと、
全く同じことを意味するからである。
来世の本多は、
宇宙の別の極にある本多であっても、
なんら妨げがない。
糸を切って一旦卓上に散らばった夥しい多彩なビーズを、
又別の順序で糸につなぐときに、
もし卓の下へ落ちたビーズがない限り、
卓上のビーズは不変であり、
それこそは不滅の唯一の定義だった。
(1970年11月「天人五衰」三島由紀夫著)
●
生命という名の動的な平衡は、
それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、
同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。
それが動的な平衡の謂いである。
それは決して逆戻りできない営みであり、同時に
どの瞬間でもすでに完成された仕組みなのである。
(2007年5月「生物と無生物のあいだ」福岡伸一著)
これを読んだ時、ボクは三島由紀夫の「天人五衰」を思い出した。
DNAの二重らせん構造が発表されたのが1953年だから、
三島由紀夫もDNAの存在は承知していただろう。
生命体を元素の集合体とみなし、
その崩壊と再構築を「卓上のビーズ」にたとえた。
そして、その崩壊(死)と再構築(生)は
時間と場所を問わない不滅の定義へと導いた。
ボクはこの一節を読んだとき、戦慄をおぼえた。
あらゆる生命体(宇宙も含めた)が崩壊と再構築を繰り返し、
絶えず入れ替わっている状態。
大きなうねりのただ中に、自分は今、仮りに存在しているのだ…と
認識することの安堵と絶望のアンビバレントな感慨は、
ボクを漆黒の宇宙へ放擲した。
そして、その認識が
あながち間違っていなかったことを
この「動的平衡」は語っている。
ボクはふたたび、大きな戦慄を感じた。
ボクを形成するあらゆる細胞は、
DNAレベルで崩壊と再構築を繰り返し、
常に新たな構成要素で一方向に営まれている。
ツメや髪の毛が絶えず伸びるように、
体内のあらゆる細胞は死と再生を繰り返し、
「ボク」という生命体を「維持」している。
それはあたかも巨大な都市が
人間の意識を超えて、地下へ天空へと増殖を繰り返し、
絶えずエネルギーを放出している様に似ている。
うごめいている。
ダイナミックにうごめき、
崩壊しながら、その存在を保とうとしている。
「もののけ姫」のシシガミ様が
よろめきながらも自身のこうべを求めて
彷徨うような、危うい均衡状態。
あらゆる生命体が、
数珠繋ぎのビーズのように
連綿と連なっていること
それは地球の外の、太陽系のさらに外の、
銀河系のさらにさらに外まで、つながっているのではないか。
そして、そこにはまた
巨大な生命体が明滅を繰り返しているのではないか。
そんな入れ子構造のだまし絵のような円環が
「世界」そのものではないか。
そんな気がして、ならないのだ。
「生物と無生物のあいだ」