ネクロポリス(死者の国)大阪へ行ってきました〜!
写真は千日前「法善寺」の不動明王。
ミナミの千日前界隈、昔は広大な墳墓地であったらしく、
ここ法善寺前は江戸時代まで公開処刑場だったと。
道頓堀沿いは見世物小屋が建ち並ぶ異界の地。
処刑も謂わば「最期の瞬間」を見せる儀式。
そのような世界の「縁」を見せることで、
生きるエネルギー(=ゾーエー)を確認する。
大阪には、そんな生の循環装置が根付いている場所だと、再認識した次第。
実際、東京に戻ってくると、
なんとこの都市は制御され尽くされているのだろう…と、
萎縮せずには居られなかった。
大阪は街の至る所に異界が顔を出している。
人間の浅ましさをあざ笑うかのごときに。
生命本来の迸り(ゾーエー)が此処かしこに見られ、
自然を畏怖せずにはおられない。
「わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか」
そういった問いかけが、しっかりと共有されている…。
だから内なる自然=性に対しても大らかなのだ。
“ゾーエーは、自然をもあらわすピュシスと同じように、
「不断に立ち現れる」ものをあらわしている。
個体的な生命をとおして、それは存在の中に不断に立ち現れ、
個体の死によっても破壊されない。
ゾーエーはビオスの内部で活動することによって、
存在の中に立ち現れる。しかし、それは個体性をこえていて、
しかも時間の現象でもなく、このゾーエーのうちに、
無数のビオスで構成される生命の世界の全体はあるのだ。
ディオニュソスの祭儀は、個体であるビオスの生命の内部から、
荒々しいかたちでゾーエーが立ち現れてくる、
その瞬間をとらえようとする表現の形だったのだ。
そのためには、あらゆる個体の中でもっとも美しい個体が選ばれ、
その身体をできるだけ暴力的に破壊することによって、
その中からゾーエーが露呈される、
その瞬間をとらえ、祝うために、人々はこの祭儀をおこなった。”
(中沢新一『はじまりのレーニン』より)
東京は…。
もはや人間の内なる自然に対しても、制御の対象…というか。
すべてが監視下に置かれた状態…というか。
だから思考も縮こまっているし、お互いを監視しあっているから、すべてがよそよそしい。
ゾーエーものびのびと迸ることができない。
そんな監視社会が未来を司る首都だなんて〜。
笑い事じゃ済まされないわ。
写真は千日前「法善寺」の不動明王。
ミナミの千日前界隈、昔は広大な墳墓地であったらしく、
ここ法善寺前は江戸時代まで公開処刑場だったと。
道頓堀沿いは見世物小屋が建ち並ぶ異界の地。
処刑も謂わば「最期の瞬間」を見せる儀式。
そのような世界の「縁」を見せることで、
生きるエネルギー(=ゾーエー)を確認する。
大阪には、そんな生の循環装置が根付いている場所だと、再認識した次第。
実際、東京に戻ってくると、
なんとこの都市は制御され尽くされているのだろう…と、
萎縮せずには居られなかった。
大阪は街の至る所に異界が顔を出している。
人間の浅ましさをあざ笑うかのごときに。
生命本来の迸り(ゾーエー)が此処かしこに見られ、
自然を畏怖せずにはおられない。
「わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか」
そういった問いかけが、しっかりと共有されている…。
だから内なる自然=性に対しても大らかなのだ。
“ゾーエーは、自然をもあらわすピュシスと同じように、
「不断に立ち現れる」ものをあらわしている。
個体的な生命をとおして、それは存在の中に不断に立ち現れ、
個体の死によっても破壊されない。
ゾーエーはビオスの内部で活動することによって、
存在の中に立ち現れる。しかし、それは個体性をこえていて、
しかも時間の現象でもなく、このゾーエーのうちに、
無数のビオスで構成される生命の世界の全体はあるのだ。
ディオニュソスの祭儀は、個体であるビオスの生命の内部から、
荒々しいかたちでゾーエーが立ち現れてくる、
その瞬間をとらえようとする表現の形だったのだ。
そのためには、あらゆる個体の中でもっとも美しい個体が選ばれ、
その身体をできるだけ暴力的に破壊することによって、
その中からゾーエーが露呈される、
その瞬間をとらえ、祝うために、人々はこの祭儀をおこなった。”
(中沢新一『はじまりのレーニン』より)
東京は…。
もはや人間の内なる自然に対しても、制御の対象…というか。
すべてが監視下に置かれた状態…というか。
だから思考も縮こまっているし、お互いを監視しあっているから、すべてがよそよそしい。
ゾーエーものびのびと迸ることができない。
そんな監視社会が未来を司る首都だなんて〜。
笑い事じゃ済まされないわ。