#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【転機】NAHAマラソン その9

2008-12-14 | Photo-diary
午後1時48分。
東京から参加した友だちがゴールする。

4時間40分弱。ベストタイム更新。
40才にして新記録はすばらしい。

2005年の年を除いてここ9年間、
欠かさずエントリーし、すべて完走している。
ボクからしてみれば、化け物。

その不摂生からどんなパワーが生まれるのだろう。
青春期の基礎体力が備わっているから、強いのだろう。

やはり個々の体力は10代で育まれる。

帰宅部はどこまでいっても、軟弱なまま。
30歳過ぎてから頑張ってもポテンシャルがないので、先が続かないのだ。
…半月板損傷の憂き目に遭うのがオチ。

マラソンとは、これから先も縁がないだろう。
水と戯れている方が、ボクには向いてる。

      ●

BESELERの引伸機の続き。

      ●

ダメもとで宇賀神さんにメールで問い合わせる。
BESELERの引伸機は、アシスタント時代、師匠が使用していたので、愛着があった。

丸いネガキャリア。
2本の支柱で支える安定感。

そんな思いもあって、
ぜひともお譲りいただきたい!

プロのカメラマンが使っていた機材だ。
問題あるワケがない。

      ●

その思いが通じたのか、
宇賀神さんはBESELERを快く譲ってくれた。
ありがとうございます!

数々の素晴らしいカットを焼き付けた名機。
その写真魂と共に、このボクがお引き受けします!

      ●

名機は今週、届く。
徐々に視界は開けていく。

一歩一歩、新たな道を歩んでいる。
着実に導かれている。

Let It Be。
ポールの母メアリーが語る…あるがままに。




      

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【転機】NAHAマラソン その8

2008-12-14 | Photo-diary
沿道に連れてこられたミニチュアダックス。
マラソンになんか興味ないって感じで
そわそわと外ばかり眺めている。

目がうるうるしていた。
早く散歩の続きをしたいんだろう。

カワイイ奴だ。

      ●

今までカラーネガの現像に使っていた医学写真研究所
というラボ屋(あらためて見ると凄い会社名!)から
カメラマンの紹介で「システムカラー」というラボ屋に現像をお願いしてみる。

仕上がりの違い、歴然!

こんなところからも【転機】は訪れる。
粒子が細かく、発色も色ノリもいい。
(この写真がそれ。ピントも幾分クリアだ)

またひとつ視界が開けた気がした。

      ●

さらに引伸機との出会いもすばらしかった。

ヤフオクでLPLLUCKYのカラー引伸機を落とそうとしていたのだが、
なかなか気乗りしない。どれも中古の転売で、愛情がこもってない。

質問しても実際に写真のことを知っているわけではなく、
アナログ衰退に便乗して金儲けをしているような感じなのだ。

それでも何とか年内にカラー引伸機を手に入れないと、
ペーパープロセッサーだけでは作業にならない。

そんな感じでGoogleでキーワード検索を掛けながら
引伸機との邂逅を待ちわびていたら、BESELERのカラー引伸機が
オークションに出ていた事実を知る。

オークションは終了していたが、成立はしていなかった。
日付は11月末日。まだアプローチできる時間だ。

さっそくヤフオクのプロフィールから
本人のサイトへアクセスする。
Yoshiyuki Ugajin Online Portfolio

  カメラマンだった。

それも素晴らしいポートレイトを撮影している
仕事のできるカメラマンという印象をもった。

ネガキャリアを削って黒フチを付けている点も、ボク好みだった。

      ●
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【驚愕】第32軍司令部壕

2008-12-14 | Photo-diary
12月13日(土)。
汗ばむ陽気。12月とは思えない。

午後1時。
琉球大学の生徒に混じって
首里城周辺の歴史を学ぶべく
講習会に参加。

西岡先生引率のもと
首里城の歴史を散策する。

驚愕の連続である。

「旧日本軍首里司令部壕跡」
などというものが、首里城地下に存在している…。
そのために首里は壊滅的な戦禍に襲われた…ということを。

沖縄戦はもともと本土決戦を迎えるまでの
時間稼ぎとして行われた争いで、
1945年4月1日、米軍が読谷に上陸した際も、
何も報復せずに力を温存し、軍勢を南部へ移動することしか考えていなかった。

首里の頂きをベースに「鉄血勤皇隊」と呼ばれる学徒隊を使って
米軍の戦車を自らの命で足止めさせたりした…という。

琉球人の尊厳を真っ向から否定し、
彼らの命を爆弾のひとつとしか認識せず、
ひたすら時間稼ぎのためだけに、むやみに沖縄戦を長引かせた。

指令を司った第32軍は、もともと中国の南京大虐殺実行部隊だった。
だから琉球人の命など、中国人と同等ぐらいにしか思っていなかった。

1945年5月28日、首里司令部壕が占拠され、摩文仁方面への退去を余儀なくされたときも
日本軍は降伏せず、ひたすら平民を巻き添えにしながら、戦禍をいたずらに長引かせた。

そして6月23日、日本軍最高責任者の牛島司令官と長参謀長が
摩文仁の丘で自決を謀り、米軍の勝利が決定的となったあとも、
平民はその後2ヵ月ものあまり、米軍の圧力に屈せずひたすら逃げまどっていた…という。

つまり、沖縄戦は日本軍から放っておかれた。

8月15日に終戦を迎え、玉音放送が流れたあとも、
指揮系統が崩壊していた沖縄は、戦闘継続が個々の判断で行われ、
結果、何も知らない沢山の平民が集団自決で死んでいったのだ。

結局、沖縄守備軍の降伏調印が9月7日に嘉手納で行われるまで
約1ヵ月間も無法状態だったという事実。
実際には6月23日の司令官自決より2ヵ月半、意味もなく戦闘が続けられていたのだ。

なんということか。

そのような事実が一言も語られることなく首里城の下に放っておかれている。
修学旅行で沖縄を訪れる学生たちは、朱や金で華やかに彩られた世界遺産に誤魔化され、
南国の楽園「オキナワ」として刷り込まれて帰って行く。

…それでいいのか。

そんなことで「鉄血勤皇隊」は報われるのか。
オキナワのアイデンティティはどこにいったのか?

4時間もの首里散策で、とんでもない事実を突きつけられた。
濃厚なオキナワ体験だった。










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