ねーさんとバンビーナの毎日

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賞味期限の記載

2010年03月30日 12時51分10秒 | 考えるねーさん
昔よく父親が「ものを買ったら買った日をそれに書いておけ。(モノを粗末にしなさんな、という含みもあり。)」とよく言った。

家具から電化製品からこの人は「購入日」を達筆な字でマジックで、
モノの側面やら裏面に記載しておくのだった。


余談

「もーー、やめようよ~、それ。見栄えが悪くなるじゃん。」
というツッコミを入れるオバチャマだったことは言うまでもない。

「もーー、あらーーーーぁ、書いちゃったの、また。」
という悲鳴に近い諦めの言葉を吐く母親だったことは言うまでもない。


それでいまこの昼の満腹な午後にふと気がついたのだが、
今っていうのは「買ってからどのくらい経ったかな?」ということを気にすることより、「これの賞味期限っていつだっけ?」のほうを気にしている。


賞味期限をきられていた方が「お尻を叩かれているようで」購買意欲は注がれる。
おまけに「視覚」とか「触感」とか「嗅覚」とか「聴覚」とか、人の五感をはたらかして、「これまだ大丈夫かしら?」なんて気にしなくてもいい。


電化製品では「タイマーかかってる」などという言葉まで出ている昨今。


だけどそれが「せわしない」のと、情緒感も薄れる原因だったりしないか?
「資本主義経済で世界は動いているから仕方がない」とかいう理屈で納得するには、
ほんとにもぅ、人の方が人らしく生きるのに疲れてきてないかって。


賞味期限が記載されていなくても、「モノの賞味の判断」というのは人の感覚にそもそも備わっていたハズなんだけどね。


この判断基準は人によって違って当たり前だしさ。

食べ物なんて味覚とか免疫力とかにも関係するし、
モノだって美的感覚(古かろうが「それが良い」と思う人もいたり)とか作り方の当たりはずれも関係するし、

基準が異なるところが「人らしい」し、それでいいのにさぁ、
そこが違うと人は不安になったり、人を突っついてみたり、理論をまくし立てていい気分になりたい人が出てきたり、そういうのを崇拝する人が出てきたり、当たり屋みたいに訴えてみたりする人が出てきたりするからねぇ。




せわしない
⇒ きぜわしい【気忙しい】
⇒ せっかち【性急】

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