(道に)無頓著な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓著だというわけでもなく、さればといって自ら進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。
尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮していって見ると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。
そこに盲目の尊敬が生ずる。
盲目の尊敬では、偶(たまたま)それをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。
森鴎外の寒山拾得より。
ここに書かれてあったか。
「盲目の尊敬」をすること(人)に、あんまりいい気分になれないオバチャマ。
場合によっては、
「そんなぁ、いつまで何してんだよ~~ぉ(呆)」
っていうような愛の怒りを覚え(ゴメンね、ゴメンね~)、うまく言葉に出来ないままだったんだけど、ここに書かれてあったか。
勿論人を尊敬出来るのは素晴らしい。
それすら出来ない人は大勢いるからね。
だけど、同じ道の上に立って先を行く者を尊敬するならまだしも、「自分のわからぬもの」、「会得することの出来ぬもの」を持ってる人を尊敬してても、本当になんにもならぬのだよねぇ。
ホントになんにもならぬのだよねぇ。
あくまで客観的なのに「尊敬してます」と慕ってみたって、「あ、そう。で、君はこの同じ道に立つ気はあるかい?」ってなもんなんだよなぁ。
そう言って貰えたら「立ってみる」というのも一考。
尊敬ってのは「自分のわからぬもの」「会得することの出来ぬもの」を持ってることに対して尊敬するんじゃないじゃんね。
その為の努力の質が「尊敬する対象」だし、「そういう想いが集められていくとそれが価値」になっていくんだよね。
尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮していって見ると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。
そこに盲目の尊敬が生ずる。
盲目の尊敬では、偶(たまたま)それをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。
森鴎外の寒山拾得より。
ここに書かれてあったか。
「盲目の尊敬」をすること(人)に、あんまりいい気分になれないオバチャマ。
場合によっては、
「そんなぁ、いつまで何してんだよ~~ぉ(呆)」
っていうような愛の怒りを覚え(ゴメンね、ゴメンね~)、うまく言葉に出来ないままだったんだけど、ここに書かれてあったか。
勿論人を尊敬出来るのは素晴らしい。
それすら出来ない人は大勢いるからね。
だけど、同じ道の上に立って先を行く者を尊敬するならまだしも、「自分のわからぬもの」、「会得することの出来ぬもの」を持ってる人を尊敬してても、本当になんにもならぬのだよねぇ。
ホントになんにもならぬのだよねぇ。
あくまで客観的なのに「尊敬してます」と慕ってみたって、「あ、そう。で、君はこの同じ道に立つ気はあるかい?」ってなもんなんだよなぁ。
そう言って貰えたら「立ってみる」というのも一考。
尊敬ってのは「自分のわからぬもの」「会得することの出来ぬもの」を持ってることに対して尊敬するんじゃないじゃんね。
その為の努力の質が「尊敬する対象」だし、「そういう想いが集められていくとそれが価値」になっていくんだよね。