ねーさんとバンビーナの毎日

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やっぱりモリマリ20110910

2011年09月10日 19時05分41秒 | 紹介屋ねーさん
一部の人というか、或人々というか、鴎外に会って、ほんとうとは異う(ちがう)見方をしていた人々があった。
それらの人々は頭の鈍い、カンの働かない人々であった。

その頃父に会った人々の中に、父の様子を見て思いちがいをしていた人々があって、その一人の記者はそれらの一群の人々の代弁者であったことは間違いないのである。

その一部の人々は自分と向い合って座り、軍服の時は胡座(あぐら)をかいて、背を低めるように前へ屈んだ姿勢でにこにに微笑い、時々膝をゆすってクッ、クッ、クッと笑う父を見て不快(いや)な感じを抱いた。
父の顔も、そういう様子もひどく愉快そうである。
だがその微笑う様子が或人々には不愉快だった。


父の様子に或人々は、自分の智識を鼻にかけ、しかもその高慢な気持を奥深く隠してひそかに嘲笑う一人のいやな奴を見た。
政治家の中の多数の人々や、或種の地位のある人々のようにそりかえって、自分を見下し、呵々大笑する人にはどこかかわいい所がある。
腹の中で(威張りくさっていやがる、此奴)と嘲笑ってやることが出来る。


つまりそういう人間に会っている時には自分を優勢の位置に置いて、相手を見ていることが出来る。

それが父と向い合っている時には出来ない。
機嫌よくにこにこする父を見ていると、にこにこしていればいる程、どうもその低い態度の裏側で、自分をひそかに嘲笑っているような気がしてならないのだ。

いろいろな智識の切れっぱしだけを持っている奴、そう思って自分を見下していやがるのだろう、事実、彼らはそういう智識の切れっぱしの寄せ集めの頭でその職業を遣っている。
彼らは常に訊く(×聞く、聴く)立場であって、語る方ではないのだからそれでことが足りている、彼らはそれを自覚しているから、父の様子を密かな嘲笑いのように感じるとむかむかしてくる。

父を慕って訪ねてくる若者たちは、父のそういう様子を見てますます父を好きになった。
自分の孫に何か話をするようなその父の様子は、新聞記者に会う時の様子と全く同じだったが、受けとり方がちがっていた
のである。






きっと内向的な人(大人しいっていうことじゃなくて常に自分に意識が向いている人(×自分勝手、○(あえて言えば)自分本位))を相手にしたとき、人って(無意識に)嫉妬したり妬んだりするんだろうと思う。

んで、「そこをあえて突くような人がここにいる!!」とわかれば、そこからは避けるのだよねぇ。

・・・嫉妬したり妬んだりしているほうが負け~~~ぇ。


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