ねーさんとバンビーナの毎日

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フィルターを外す

2012年05月16日 22時48分56秒 | 考えるねーさん
フィルターってのは、自分の経験測とか知識とか情報によって、事前に観たり聴いたりすることを遮断する(見えない)板みたいなもの。

自分の経験測とか知識とか情報によって「非難批評する」ってことじゃなくて(←これはまぁいいんじゃないの?)、最初から排除にかかってるようなヤツだったり、勝手に別物に仕立ててしまったりするようなヤツ。

これをすると実は楽なんだよねー。
まぁ楽よ、うん。
人のより分けも出来ちゃいますしね。
そこら辺りを察する同士で実行すれば「○排除の理論をかます(×威圧で追い出す)」っていう(逆にタチの悪い、非常に目でわかりずらい)集団イジメに発展します。

だけどもこれが「(相当な)勘違い」とか「(相当な)思い違い」の原因になったりする危険。
それがそのまま拡散していったら大きな大きな「間違い」にも発展する危険。


まずはスタンスとしては、フィルターは外しておいて観たり聴いたりしてないとな。
フィルターかかっていると、目から入ってくること、耳に入ってくること、自分に都合よく作り替えちゃったりするから。

後は好き嫌い感情が妙に湧いてきたら、特に気をつけてないと判断間違えしがち。


オバチャマは基本いろんなことを見るにあたってフィルターはかけてないつもり。

(かけないように心がけはしている。
批評や非難(×裁き)はしても。
好き嫌いはすいませんがこれは人間なのでありますよ、どうしたってね。
ただ、好きでも嫌いでもない空間っていうのがココロの中にあって、そこに置いておけるんだけども。
それがありながら「好き!」「キライ!」って揺さぶってくるもの(人)はある意味スゴイんだけどもね。)

つか、そうしてないと、「判断間違えして公平にならない」っていう立場を(子どもの頃から)経験させられた(学級委員とか)ことも起因してるかなぁ。


フィルターかけてたら、あんだけいろんなジャンルの音楽はまず聴けないと思う。
(前に若い衆に言われた。「よく聴けますねぇ、こんなに違うジャンルを同時に。」って。)

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