ねーさんとバンビーナの毎日

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今日突かれたお言葉・その75

2009年11月10日 10時30分11秒 | 突言葉ねーさん
誰もが何と自分の話を静かにきいてくれる人を切望していることだろう。
話をとことんきいてくれる人がいたら、誰も心理学の本など読まないですむんではないか。
子供も自分をきいてもらいたい、母さんも父さんもきいてもらいたい、ばあさんもじいさんもきいてもらいたい。
人の話をきけない程一体何が忙しいのだ。もっとおそろしいのは人の話をきくきき方がわからない、聞いてもらい方がわからなくなって久しいのではないか。
だから、宗教を失った人間は科学を宗教のように信じ、心理学者を教祖の様にしてしまいたいのではないだろうか。




これも佐野洋子さんのエッセイより。



人に話を聞いてもらうより、情報を得るほうが手っ取り早い。だから別に話を聞いてもらわなくていいや。

人の話を聞くより、「それならこういう情報があるよ。」と教えるほうが手っ取り早い。だから別に自分の話をされても面倒臭いだけ。


今って、「人の話を聞きたい」「私の話を聞いてもらいたい」という人が、あんまりいないのでは。

なんでだろう。面倒臭いからかね。煩わしいからかね。「自分の話をできるくらい活きてきてない、漂って生きてるだけ。」とか。

だから「私が仕入れた誰かの情報をニュースのように流す」「誰かが話すそのまた誰かの情報を聞く」そんなのが良しなんだよね。

「(今なんか特に)調べりゃ誰だってそんなことわかるよ?旬だろうがつまんねー。」的な情報をなげあう会話。

まぁそれも情報過多すぎて、どれが正しいか決められない人が多くいて、情報通みたいな人が辞書変わりに重宝されると。

「みなさ~ん、ただの情報ですからね、ただの情報。
自分でやってきてる人の実話(それが失敗談であろうが、この人の思い込みかな?的なものであろうが、怪しいなぁ的なものであろうが。)を聞くほうがよっぽどだぞ?
そこから「自分ならこうするな。」と組み立てていかないと、現実が見えてこないぞ?自分で自分が自覚できなくなるぞ?」


「情報(手段)の取捨選択」と「情報(手段)の組み合わせ」でやっちゃうと、いつまで経っても「現実感」が伴わないし、選ぶ情報も「正しい答えはどこだ、正しい答えはどこだ」とやっていけば、それを単に実行するだけで、「自分が成し遂げたという肉」にはなっていかない。

「行動」というよりそれじゃ「単なる作業」「出来上がってるプログラムの実行ボタンを押してるだけ」なんだよなぁ。

答えや結論は自分で出していくところに面白みがあり、非常に苦しくもあり、だからこそ誰かが支えてくれたりするし、しっかり身にもなってくんじゃんか。


こういう時に「自分の話を聞いてもらいたいな。」とか切に思うはずなんだわさ。
「自分も人の話を聞いてやろうかな。」と思ったりするはずなんだわさ。


決して「情報(別の手段)仕入れ」じゃないのよ。
「話を聞いてもらいたい」「話を聞いてあげよう」なのね。

それによって「自分の再構築」したり「歪み修正」をするわけさ。
「手段を聞き分ける」だけじゃ、自分の歪みに気がついてませんや。自覚してませんや。もういっちょ踏み込めば自覚したくないのですや。
気がついていると、自覚していると、話をしたくなるはずですや。
「語りたくなる」ってやつ。


これを面倒臭がるんだなぁ、今って。
情報過多の弊害?
人の話を聞くより情報仕入れたほうが早いからね、何しろ早いからね。


そんなんだからちょっとでも「現実」がふりかかってくると堪えられなくて歪みがきて、ココロの闇を濃くしてるんじゃないかねぇ。


ココロの闇は「面」を作って、器用に計算っぱやく隠すんだよねぇ。
そんなとこ器用になる必要ないよなぁ。
それこそ「無駄」だから「削減」したほうがいい。(笑)


現実体当たりして語りだすんだ~~。人の語りを聞いていくんだ~~。自分の顔を作っていくんだ~~。←顔を変えるんじゃないよ?
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