ねーさんとバンビーナの毎日

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今日突かれたお言葉・その135

2010年04月01日 12時18分58秒 | 突言葉ねーさん
義兄の親友に音楽家がいて、無名だけれどすばらしい才能を持つ堤琴家(バイオリニスト)ということだった。
美男子だということも姉の自慢の一つになっていた。
バラの茂みで負ったというその人の手の傷まで、ただの傷でないようなほめ方であった。
感じのいい人と思いこむと、崇拝が度を越すのである。
僕の家では昔から音楽に趣味がないので、杏奴と僕の好みの音楽もパリのシャンソン程度であった。
それがみるみるうちに高級音楽の理解者となって、夫婦手を取りあって聞きいるのも結婚というものなのか、僕はただあきれるばかりであった。

「あれはパリにいるころ、佐分さんと遊び歩いて伝染したもので、四郎自身のものでないから、なおるわよ」と言い、少しずつそれをなおしてもらっていた。
佐分真画伯は官展系の新進作家で義兄と友だちづきあいをしていた先輩であった。
金持の息子で、よく学び、よく遊ぶ人らしかった。
冗談を言う遊びの世界に出入りしているうちに、義兄らしくないものが染みついたと解釈できないこともなかった。
身に添わぬものだけに、かえってひどく染みこんだのか、いずれにしてもなかなかなおらなかった。
なおらない義兄の癖を、姉はいつのまにか気にしなくなっていた。




森類の「鴎外の子どもたち」より。


「何かいい」と感じて崇拝の度が越すのは誰にでもあるかと思うし、それはいいと思うんだけど、その「何か」を自分で確認しないまま「盲目の尊敬」みたいなことだけを延々続けてる関係性(そのままをさらけ出せずにずっと演技してるか、我慢のしあいっこをしてるみたいな。)を見かけることってありますわな。

そうするとオバチャマの場合、若い頃は、

「あ~(正直いい加減)イライラする~~意味ねぇんだよなぁ~~~」

(みんな実は腹の中じゃイライラすることもあるんだろうけど伏せてるだけなんだよね?わたしも伏せなきゃ。的)

みたいな風に感じていて、今の頃になってくると、

「まぁ(徹子風)、妙な演劇を見させて貰ってありがとう、逆に勉強になります。」

みたいな風に変化してきている。(ドハハハ…)



そして、いくらそういう世界に出入りしても、「身に添わないものは身体には染み込まない」という人もいて、これを変になじったり、変にからかったり、「こなきゃいいだろ」的な態度を向ける人も見掛けるが、そういうのを見掛ける度に、

「ど~っちでもいいじゃ~~ん。何か気になっていたくているんだから、気持ちよくいさせてやりゃ。」

と、子供の頃から思うようなオバチャマなんだが、これは「ルール違反」とか、「空気を読めない」に繋がるのでしょうか。(笑)


あ、そうだ。

「身に添わないものは身体には染み込まない」のまま素直にいればいいのに、
裏かいて演技かますような人は、そのやり方次第で時に「愛の鉄拳」がくだされますな。
「身に添うように変換」しないで「身に添わせるような変換」しちゃうような演技ね。
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