新奇なる事を詠めといふと、汽車、鉄道などいふいはゆる文明の器械を持ち出す人あれど大に量見が間違ひをり候。
文明の器械は多く不風流なる者にて歌に入りがたく候へども、もしこれを詠まんとならば他に趣味ある者を配合するの外無之候。
それを何の配合物もなく「レールの上に風が吹く」などとやられては殺風景の極に候。
せめてはレールの傍に菫が咲いているとか、または汽車の過ぎた後でケシが散るとか、薄がそよぐとか言ふやうに、他物を配合すればいくらか見よくなるべく候。
また殺風景なる者は遠望する方がよろしく候。
菜の花の向ふに汽車が見ゆるとか、夏草の野末を汽車が走るとかするが如きも、殺風景を消す一手段かと存候。
正岡子規の「歌よみに与ふる書」より。
「殺風景なる者は遠望する方がよろしく候」
歌を読むことだけのことではなくて、観察や洞察ってのは遠望したほうが豊かになるわな。
遠望したほうが「この中に気が付いてない(見過ごしている)何かがないかな?」と探すからさ。
殺風景な都会の真ん中に住むより、離れたところに住んだほうが都会をよく観察・洞察出来るもんだし。
文明の器械は多く不風流なる者にて歌に入りがたく候へども、もしこれを詠まんとならば他に趣味ある者を配合するの外無之候。
それを何の配合物もなく「レールの上に風が吹く」などとやられては殺風景の極に候。
せめてはレールの傍に菫が咲いているとか、または汽車の過ぎた後でケシが散るとか、薄がそよぐとか言ふやうに、他物を配合すればいくらか見よくなるべく候。
また殺風景なる者は遠望する方がよろしく候。
菜の花の向ふに汽車が見ゆるとか、夏草の野末を汽車が走るとかするが如きも、殺風景を消す一手段かと存候。
正岡子規の「歌よみに与ふる書」より。
「殺風景なる者は遠望する方がよろしく候」
歌を読むことだけのことではなくて、観察や洞察ってのは遠望したほうが豊かになるわな。
遠望したほうが「この中に気が付いてない(見過ごしている)何かがないかな?」と探すからさ。
殺風景な都会の真ん中に住むより、離れたところに住んだほうが都会をよく観察・洞察出来るもんだし。