ねーさんとバンビーナの毎日

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見えないものを追い求める衝動

2009年09月09日 23時21分02秒 | 考えるねーさん
心を通わせたいと願いつつ、通う人になかなか遭遇できない環境で、ず~っと孤軍奮闘していたとするじゃん。

そこではみんなが「我が一番凄いだろ!?」と自慢しまくったり、「君のほうが凄いよ。」と褒めたたえながらも心ではなんとも思ってなかったりするのね。

そういう中でただただ純粋に頑張っちゃう天才や異才がいたとするじゃん。

気がついた時には心が相当に追い詰められているのよ。
で、いまいち本人は自覚がないの。
というか、「これは追い詰められているのとは違うんだよね。」って自己否定をしてるの。


そうなったら人ってやっぱりさぁ、

「宇宙と交信してやる。」

とか、

「自然と一体になってみよう。」

とか、

そういうところに心の安息とか安定を求めちゃうのは、必然っていうか、仕方がないような気がする。

だって、心を通わせたいのに通わせる人がいない環境でやってくしかないんですよ?
なのにそこの環境でやっていくしかないという場合、そうなってしまうのは必然かつ仕方がないと思う。

「純粋にやるからいけないんだ。もっと割り切ってやればいいのに、それができないんだから、ただの子供なんだよ。」と切り捨ててしまうのは、あまりに酷いと思う。

「割り切って適当にやってよ。」というのが、そういう環境のルールであったにせよ、「切り捨てるような言葉は酷いなぁ。殴るような言葉のほうがまだいいのに。」と思う。



その逆でさ、心の通う人に囲まれているんだけども、「まだ心の通い方がどうも違うんだよなぁ。」と思う人がいたとするじゃん。

「うーん、そういうニュアンスのことじゃないんだよね。」

「それはわからないなぁ。(あっさり)」

「えぇホントにわからない?ホントにホント??どうしてかなぁ。わからないのがわからない。」

こういうような問答が繰り返されると消耗してしまうような人。

こういう人ってどうなるかって、精神哲学みたいなところを探究しはじめて、そこに心の安息とか安定を求め出すんだよね。

宇宙とか自然についてはごくごく普通に接して、精神哲学みたいなところを追い出すのね。



宇宙と電波交信しちゃうような人は、「早く心を正直に開いているような人達に交わんなさいよ~。カッコつけてそういう環境に居続けるとさらに病んじゃうぞ~~。」って思うのね。


精神哲学を掘り下げちゃうような、「お椀ひとつ、お箸ひとつと語り合っちゃう」みたいな人は、「早く異なる人種と交わっちゃいなさいよ~。型を作り過ぎよ。あんまりそうだとひとり浮いちゃうよ?」って思うのね。



あたしは5才頃に妖精だか妖怪だかを見たので、「あぁなんだ、人はこういうものを見ているのに「見た」と言わずに口をつぐんで生きているのね。人間ってこういうものが見えちゃうくらいなんだから、なんだかんだ言っても結局はみ~んな心はおみとおしで通じあっているのよね。」って、どっか信じていて、そういう気持ちの根がはっているから、ひとまず慌てないのね。

表情のないロボットを見てしまうと表のバランスが崩れるんだけどね。
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