ねーさんとバンビーナの毎日

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やっぱりモリマリ20111006-03

2011年10月06日 19時47分13秒 | 紹介屋ねーさん
日本で巴里の気質を持っているのは浅草人だけである。
巴里から帰った弟が、姉さん、浅草に巴里の芸人がいるよと言ったので行って見たのが、私のエノケンの見初めである。
考えるのに、吉原の歓楽郷の女たち、遊客を相手の商人たち、遊客や女達を相手にしなくては食って行けなかった彼らは吉原の周辺に住んでいたのにちがいなく、浅草の住人たち、店屋の人々はそれらの人々の子孫の筈で、それが浅草人が巴里人と似ている原因であって、昭和十七、八、九年の浅草のアパルトマン住いが私の生涯で、巴里時代の次に楽しかった時季である。


そういう巴里や浅草から見ると、世田谷というところは夢の中で金縛りになったような、窮屈さである。
おかしいのは私の小説の評が新聞に載ってからは、大尊敬となった。
彼らは泥棒以外に、新聞に名の出た人間を知らなかったのだ。


現在居るハウスは始めから、何かお書きになるお偉い先生ということになっている、というのは入居の時に、「新潮」のR編集者と一緒だったかららしい。

何がお偉い先生だ。
実体はいまだにあどけない、莫迦げた婆さんなのだ。




人が「人の基本の尺」で作りなく活きてる場所って「粋が生まれる」んだろう。
また「粋を見抜く目」が養われるんだろう。

これが、洗練を後付けしてオシャレな生活で売り出したような所詮は田舎な土地では、こうはならないのだ。

「どうして?」って、別の尺を作り出して「~でございますのよ。」みたいな仮面をかぶって生きる感じになるからだろう。
仮面が増えればややこしい限りで、ややこしい状態って頭ばっかり発達して、観察や洞察からくる感情すら作り出して(「感情を作る」ことは知っても「感情を殺す」ことを知らない)、しまいにはその処理ロジックを構築して「ゲーム化」するのがオチだ。

粋なんかかすりもしない。
あか抜けた色気が漂う人がいたとしてもそれは単に人造的で活きてる感じがしてこないのだ。

生活の中にリアルな感じでもって、「金とか性とか食が入り込んでるような街」をどういう訳だか「けがらわしい扱い」しすぎた感がないのかなぁ、日本って。
「そういうところにしか粋はない」と断言してもいいんじゃないのかなぁ。



いき【粋】

1 気質・態度・身なりなどがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気があること。また、そのさま。
2 人情の機微、特に男女関係についてよく理解していること。また、そのさま。


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