ねーさんとバンビーナの毎日

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『可哀想』でお手伝いしてるのはダメ。

2013年01月23日 18時12分18秒 | 観察屋ねーさん
人の手助けは「その人が○困っていたら(×弱っていたら)手を差し出す」ようにしないとマズイ。

弱っていても助けることはできない。
慰めや気休めや休息に心配りしてあげられるのがせいぜい
だ。
それを「助かった・・・」と相手が思ってくれるくらいがせいぜい。
でも「助けたい!」で助けられないのは弱っている状態。

そこを見極めないままやっちゃうと大抵が「よけいなことしてかき回してしまう」のがオチ。

やって貰った側は「余計なことを…」と本音はなかなか言えないから「ありがとう」と大抵は言う。
だけど本音は違うのが相場。

でもやったほうは「ありがとう」と言ってもらえて悦に入っていたりする。(なんとも…苦笑いしたくなる状況)



よく「可哀想だからお手伝いします」みたいに親切顔してまわってる人がいるけども、あれは単なる自己満足(自分主張)の為だけの行為。


可哀想という感情で人と接する方はとにかく「情のかけ方がハンパない」。
「お手伝いします!」とか「代わりにやります!」とかいうレベルではない。
さもなけりゃ「うちの家族になれ」くらいの情のかけようだ。

それと可哀想と感じてる相手を追い詰めたりもしないし、問い詰めたりもしない。
追い込みはあるかもしれないが、追い詰めたり問い詰めたりしない。


手伝う前に「困ってるのか」「弱ってるのか」の状況判断は必須。

弱ってる人は人を頼らない。自分で解決したい(自分で解決できる)状態なんさ。
困ってる人は○頼れる(×信用できる)人を常に探している。

どっちでもなく自己満足を追っかけてる人は「信用性の建前が作れて利用できる人」を追っかけてる。


あたしゃ信用性の建前構築にはウンザリだ。
信頼性第一、それだけでいい。
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