ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

自己犠牲を賛美しないけども、でも結局のところ。

2017年12月01日 16時38分53秒 | 考えるねーさん
何かしら我慢しなくちゃいけないことや、辛抱しなくちゃならないことを、

一人で背負うのは、、、ではなくて、
一人に背負わせるのはひどいよなぁと常々思う。

そうやって一人を犠牲者に仕立ててるのには協力もしたくないし加担もできない。


スレスレの背中合わせにあるんだけども、
ここ10数年間くらい世間で大流行りの「みんなで○○」みたいな風潮。

我慢や辛抱もみんなでやれば絆が深まる?って??

いやいや、これこそ、無意識なうちに(悪いことに加担してる人は美徳意識すらあって)一人に犠牲を背負わせるように仕立てていっちゃうんだよ。

だから、

「甘いね。緩いね。
イジメもなくならないね。
まだまだ続くね。」


と思い続けてる。


私はこう考えてるというより、

「そうでしかないでしょ?結局?」

という確信を持っていて、子供の頃から変わらない考え方を持ち続けているんですが、

「個々一人一人が自己犠牲感があってナンボ」

なんですよ。


「それがわからない同士が何を守れるの?」

って。

わかってないと我慢も辛抱も背負えあえないって。


みんなで○○は、

「みんなでラクしよう」

にしかならないんだわぁ。

で、そういう中で誰かが知らず知らず、一人で背負わされてる状態に仕立てられちゃうのだよなぁ。


なので私は「みんなで○○して絆深まる」みたいなのは非常に慎重にさせられるし、遠巻きで観察しちゃう。
真意や意図が見えないことが多いしね。


自己犠牲感持ってる同士じゃなきゃ、本気でいけないし。やれないし。
そこも「みんなでしようよ、みんなでまず決めようよ」って人とだと、危なっかしくて私は苦手、というより、避けますな。

とっとと自分が背負えることを背負ってやっちまえる同士じゃなきゃ危なくってね。