ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

支配するものと川の水

2010-04-25 | 南の海
フィリピンのミンダナオ島には、イスラム教徒が多く住んでいる。インドネシアに近く、ミンダナオから島嶼群をつないでボルネオ島までひとつながりの多様な民族が住んでいた。200年近くのスペイン統治時代にルソン島のスペイン総督府が結局まつろわぬミンダナオの人々を完全に統治することをあきらめたほど、ミンダナオ地方の自治意識は強い。その後、日本の短期占領のあと、アメリカによる統治があり、マニラ政府が政治的経済的にミンダナオの統合を進めてきたが、キリスト教徒が圧倒的に多いルソンから移住してきた人々と、ミンダナオのイスラム教徒の間にはしっくりこない関係が続いている。イスラム教徒は貧しい人々が多く、ルソンから来たキリスト教徒には富裕で政治や経済を牛耳っている人が多い。それがいまでもミンダナオに反政府組織が三つもあり、どれもそれぞれ武装組織を持って政府軍と戦闘を続けていることの底流にある。

 今回、これまで何度も訪ねてきた南ダバオ州とは違って、もう少しイスラム教徒の多い北部イリガン州を訪れた。イリガンには多くの鉱山があり、産業開発が行われてきたために、街の賑わいはダバオにも匹敵するほどのように見えた。日本の商社マンもかなり来ているらしい。しかし、街ではやはりイスラム教徒を見かけることが多い。男の人は宗教を見分けるのは難しいが、女性はイスラム教徒は一見してわかる。スカーフなどで頭を隠しているから。さらにブルカとよばれる真っ黒い布で目以外の体のすべてを隠しているイスラム教徒女性もしばしば見かける。このブルカ姿の女性はダバオでは見かけたことがなかった。

 スーパーマーケットの人混みの中でブルカ姿の若い女性たちを見かけた。すれ違ったときにブルカの中の目を見て驚いた。目の回りにきらきらと輝くラメ(というのだろうか?)を装飾しており、睫毛は長く作られ、目の周りにはアイシャドウらしき色がつけられている。まるで原宿あたりをうろうろしている若い女の子のようだ。ブルカを来ている女性といえば、敬虔なイスラム教徒で、おしゃれなんかとは縁遠いと思っていた。実際、これまで南ダバオ州で見てきた頭から布をかぶった女性たちはみな貧しくて、生きていくのが精一杯のように見えた。化粧をしている人は、ほとんどいなかった。でも、よく考えてみれば、若い女性が経済的に許されるなら、ブルカの下でも精一杯のお化粧をしたいと思うのは当たり前なのだろう。しかもブルカを着用することを義務づけられた若い女性にとって、他人に見せるために化粧できるのは目とその周りだけなのだ。彼女らは、思いっきりその女心を目と目の回りに集めたのに違いない。けっして原宿あたりをうろついている不良娘と同じに見るわけにはいかないのかもしれない。

 今回も南ダバオ州のマリタというところで、ジュゴンを見ようと思って来た。しかし、昨年に続いて、今年もジュゴンは姿を見せなかった。観察した時間がせいぜい二日間のうちの4-5時間くらいだったので、ジュゴンがいなくなったと結論づけるのは早すぎる。実際、土地の人は今でもジュゴンが見られると言っていた。しかし、ジュゴンが少なくなっていることも、地元に人たちの共通した話でもあった。どうしてジュゴンが減っているのか。昨年の観察でジュゴンが見られなかったことから、今年はこの原因を探しに行った。およその目処はつけていったのだけど、やはりその原因は山林を切り開いて大規模に作られているバナナや椰子のプランテーションだろうと思う。川をさかのぼってみると、川の両側の平野はほとんどバナナのプランテーションに変わっている。昔はもっぱら日本への輸出のためのバナナだったけど、今は中国やアメリカ向けが多くなっているという。プランテーションの所有者はアメリカ資本やマニラの大資本だ。

 バナナや椰子のプランテーションは、山林をほぼ完全に切り倒して作られるので、表土が流出しやすい。流出した表土は、川を濁らせ、沿岸の海水の透明度を減少させる。それによってジュゴンの餌である海草が減る。そしてジュゴンも餌不足で減少する。しかも、プランテーションの問題は、農薬の大量使用である。使用した農薬が雨によって大量に海に流れ出て、海草を枯らす。どちらにしてもバナナや椰子のプランテーションは、ジュゴンの絶滅に大きい貢献をしている。そしてそれを食べている私たちは、ジュゴンの絶滅を促進していることになる。

 そんなことを考えながら川をさかのぼっていったが、中流から上には行くことができなかった。そこに流れて込んでいる支流は、きれいな水だったので、その支流に沿ってもっと上に行きたかったのだが、その上流は反政府組織の支配地域だという。反政府組織が支配している地域から流れる川の水があんなにきれいだというのは、まさに政治によって環境も支配されていると言うことを表しているのだろう。その意味を慎重に考える必要があると思った。