ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

桜、桜、そしてまた夜桜

2010-04-04 | 花と自然
久しぶりに良く晴れて、一気に春が来たように暖かだった今日の日曜日だった。みんな外へ出て浮かれていたように見えた。ちょうど桜も満開に近く、各地で花見の人で賑わったようだ。私も浮かれて花見に出向いた。テレビでやっていた京都平野神社の桜が見事に思えたので、出かけてみることにした。京都市内はあちこちで交通渋滞が始まっている。それでも家から30分くらいで平野神社に到着した。道路の反対側から見ただけで、その賑わいが察しられる。道路の人波が次々と赤い鳥居の中に吸い込まれていく。鳥居の下に着てみると、境内の空がピンクに染まって見えるようだ。どうやら桜は満開らしい。しかも、食べ物屋の出店が建ち並び、紅白の幕で仕切られた花見の桟敷席が用意されており、まさにお祭りのようだ。



 昔、東京に住んでいた頃、上野の花見に行って驚いたことがあった。とにかく人が多くて、桜を見ている人なんかいなかった。ほとほと人の波に酔い、埃にまみれ、疲れ果ててもう二度と上野に花見になど来るもんかと誓った事があった。今日の人はその時とは比べものにならないほどの少なさではあったが、それでも人の多さに驚いた。桜の木も100本くらいはあったのだろうか。でも桜の花はにぎやかに咲いているので、それで良いのだろう。桜の花見は、花を愛でると言うよりは、その華やかさと賑やかさが人々を満足させるのだろう。私は、40品種もあるという平野神社の桜の品種を見て歩いたが、ソメイヨシノは満開だったが、それ以外の品種はほとんどまだ咲いていないものが多かったので、どの花が何という品種なのかはよく分からないままだった。もっとも40品種も一度に咲いていたのでは、とても覚えるのもできそうもない。

 桜の花の下に懐かしい春の草花が咲いている方に、私の関心は向いていた。なにしろ、京都の町はきれいに作られすぎていて、町の中では道ばたにも家の庭にも雑草の花もほとんど見られないのであるから、久しぶりにタンポポの花や、スミレの花、ムラサキハナナ、オドリコソウ、ヒメオドリコソウ、ムラサキケマン、ミミナグサ、ツボスミレなどの雑草・野草の花を見て、心が和んだ。タンポポは、セイヨウタンポポではなくカンサイタンポポだったので、うれしかった。神社の外ではセイヨウタンポポしか見られなかったからだ。

 家に帰ってから、夜桜を見に行った。琵琶湖疏水の小道に沿って、桜の花がいまを盛りに咲いている。自宅から歩いて1分のところでこれだけの桜の並木が見られるのだから、昼間に人混みの中を出かけていったのがなんだか馬鹿らしくなる。なんとなく遠くに行けば良いものが見られるように思って出かけるのだが、よく見ると、家のもっとも近くでもっと良いものが見られると言うことは良くあるものである。隣の芝生は青くみえるのだろう。疏水道路のすぐそばに、古びた木造のアパートがあり、門などは今にも崩れそうに傾いていたりするのだが、その庭に一本の紅枝垂れ桜があって、これが実に美しい。知る人ぞ知るという名木なのだが、昼間も夜も、その桜を見に来る人が常にそのアパートの前で写真を撮っている。私も撮ってみたが、この古くて人も住んでいないようなアパートの様子とこの桜の木がなかなか良い組み合わせなのだ。家から近いので、連れ合いは毎日のように眺めに行っている。毎年、この時期には、われわれの目をどれだけ楽しませてくれるか分からない。


 
 ただ一つ残念なのは、全体の大きく枝垂れている枝の一部が、そこを走る電線のために、根本から切られていて、ややバランスが欠けてしまったことだ。非常に残念だ。この枝を切るくらいなら、電線を切って欲しかった。いや、電線なら、張り方を変えるなどいくらでも対応ができたのではないか。桜の枝は切ってしまえば、その桜の姿バランスは永劫失われてしまう。枝を切られた枝垂れ桜のみっともなさは、有名な円山公園の大枝垂れ桜の例で十分である。なぜあんなにみっともなく名木を切ってしまったのだろうか。枝が折れると危ないからというのが、切る名目のようだが、それなら周囲をしばらく立入禁止にすればいいのであり、木の枝が風などで自然に折れたら、桜の木はその後を自然に忠実に再生する。人間が無理に切った枝の後は、桜は再生しようとするが、その姿はまるで両手両足を切り取られて不具になった動物を思わせて、心から哀しくなる。もっと都会の植物への扱いを考え直して欲しいと思う。