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サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

ダム建設を全国で中止へ

2009-09-27 | 政治
八ッ場ダム建設を中止すると前原国交相が表明すると、地元の人たちがそれにいっせいに異を唱えているという報道が相次いだ。しかし、テレビに映る地元の住民という人たちが、実はダム推進派の町会議員だったり、自民党に支持されて当選した町長や市長や知事だったりして、八ッ場ダム反対をずっと訴え続けてきた人たちの姿をテレビメディアは伝えようとしない。

 地元の人たちはもともと多くがダム建設に反対であった。長い間反対運動をしてきて、自民党永久政権の意志は変わらないと思い知らされて、金を受け取って賛成にまわったのだろう。もともと金に目がくらんでダム推進の旗を振っていた議員や町長もいたのだろうが、地元の住民(議員は住民の代表でないことが多い)は、ダム反対から態度を変えざるをえなかった人々だ。

 住民の本当の気持ちは、ダム建設計画に翻弄され、山村共同体を壊されてしまったことに、恨み骨髄に徹すというところだろう。ダム建設など降ってわいた計画がなかったなら、平和な生活を送れたはずだと思っている。でも途中から金をもらって別の場所で生活をすることにした以上、ダム建設中止で新しい生活がまた壊されたり、金を返せと言われるのを恐れている。

 しかし、民主党政権のダム建設中止は、けっしてすべて元に戻すというものではない。経済的に地元が損をすることはないのである。それでも中止反対という住民がいることは、国の都合で生活を左右されることへの恨みであり、私にも理解できる。しかし、ダム中止を決めた新しい国交省とよく話をすれば、住民はきっと納得すると思う。最初からのダム推進派は、金目当てのごね得をめざすだろうけど。

 もっともうれしいのは、ダム建設中止によって、あの長野原の自然と温泉と川が破壊されず残ると言うことだ。これを考えれば、費用がすでに7割を使用していたとしても、建設するよりも中止の方がずっとずっと日本のためになるだろう。日本人のためになるだろう。日本を好きになる日本人が増えると言うことである。

 民主党政権は、マスメディアの反民主党宣伝にまけず、ダム中止政策を各地で進めて欲しい。無駄なお金の節約だけではない。日本の破壊を止めることでもある。

大事なのは縄張りを捨てること

2009-09-16 | 政治
いよいよ鳩山民主党連立政権が発足した。鳩山首相を始め、ほとんどの人が入閣そのものが初めてなので、テレビのニュースでみるどの大臣も緊張感いっぱいにみえるのが、好ましい。これまでの自民党政権の組閣の時とはまったく違った雰囲気だ。これまでとちがって官僚がみんなやってくれるから、言われるままにしていれば大臣が務まった時代とは違う。官僚は大臣の出方によっては協力しないという姿勢を見せているから、緊張感も当然だろう。御神輿に上がるのではなく、闘いの戦場に望む心境なのだから。

 雰囲気だけでも民主党連立政権への期待は膨らんでくる。でも本当に官僚主導を政治主導に変えることができるだろうか。国家戦略室が主導して政策を決定できるだろうか。その試金石は、八ッ場ダムや泡瀬干潟の埋め立て、諫早湾の開門などの無駄な大型公共工事を本当に止めることができるかどうかだろう。これらすでに走り出している無駄な大型公共事業を止められるかどうかは、まさに戦略局が政治主導で官庁をうごかせるかどうかにかかっている。

 私はその要点は、それぞれの官庁の縦割り、縄張りを無くすことができるかどうかだろうと思う。そのために大臣、副大臣、政務官など政府に入る国会議員に望みたいのは、官庁の枠を超えた議論をすることだ。それぞれの官庁に配属になった大臣、副大臣、政務官は、それぞれの官庁の縄張りのことしか考えないのでは、これまでの官庁の縦割り行政はいくら政治主導になっても変えられない。政治家も省益で動くことになってしまう。

 戦略室(戦略局)が主導でやるなら、どこの官庁に属する政務官、副大臣であろうともよその省庁の管轄にも積極的に口を出すべきだ。官僚はよその官庁のことには口を出さない。それによって自分のところにも口を出させないという縄張り根性をこれまで培ってきたのだから。しかし、政治家は所属した省庁以外のことにも積極的に口を出すべきだ。藤井財務大臣がさっそく「予算編成は財務省がやる、戦略室には手を出させない」というようなことを言っている。彼は昔の大蔵官僚だったから、いまだに縦割り縄張り根性を持ち続けているのだろう。彼を新しい政権に入閣させるべきではなかった。政治主導の意味が分かっていないのではないか。社民党の福島みずほさんは、最初に希望した労働担当にも環境大臣にもなれなかった。消費者庁も大事だが、やはり雇用問題や環境問題で社民党の主張を閣議などで積極的に展開して欲しい。縦割りを打破するためにも他省庁の縄張りに踏み込んで欲しいと思う。

 なにはともあれ、多くの人びとの期待を背負って民主党連立政権は出発する。期待を裏切ることの無いよう、祈っている。

対等な日米関係を 「同盟」はいらない

2009-09-10 | 政治
 民主党大勝の総選挙を受けて、民主党と社民党、国民新党の三党連立協議が成立して、連立政権ができる方向が固まったようだ。社民党や国民新党が少数にもかかわらず、308議席の民主党相手に要求を最大限飲ませたことに、民主党支持者から批判も出ているが、少数政党としては当然のことだろうし、政党間の連立を公約し、実際に選択した民主党としてもけっして悪いことではない。300議席以上という史上最大の勢力になってしまった民主党が、おごり高ぶって民意を失わないようにするには、いくら民主党だけでもやれそうでも、少数政党との連立を選んだことに鳩山代表たち執行部の良識を見るような気がする。

 連立協議のニュースを見ていておかしいなと思ったことがあった。政策合意書の「自立した外交で、世界に貢献」という項目の中にこのような文章がある。「主体的な外交戦略を構築し、緊密で対等な日米同盟関係をつくる」。続いて「日米協力の推進によって未来志向の関係を築くことで、より強固な相互の信頼を醸成しつつ、沖縄県民の負担軽減の観点から、日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」。

 後者の文章は、日米地位協定の改訂を提案すること、米軍再編計画や基地のあり方を見直すことなど、ぜひともやって欲しいことが書かれていて、諸手を挙げて賛成したい。しかし、前段の文章にはひっかかる。「日米同盟関係」という言葉だ。日米安保条約によって日本とアメリカは緊密な関係にあったが、それを日米同盟とは言わなかった。社会党が3分の1の議席を持っていたときには、自民党も安保条約をもって日米同盟とは言わなかった。いや、言えなかった。ところが、ブッシュ2世政権での日米地位協定の改定などで、実質的に安保条約の内容が「極東の有事の際に日本をアメリカが守る」ということから、「世界の有事の際に日本とアメリカが協力する」という内容に実質的な変化を強要され(自民党は素直に受け入れたが)、それ以降「日米関係」を「日米同盟」と平気で言い換えるようになった。マスコミもまったくそれを当然のように受け入れ、何のためらいもなく日米同盟が存在することを前提としたような言い方をするようになってしまった。

 しかし、日米地位協定の改訂は日本政府とアメリカ政府の間で国会の承認も得ないで行われただけであり、本来なら安保条約を改定するくらいの大幅な内容の変更があったのに、日本政府はまったく民意をすくい上げる努力をせず、勝手に実質的な安保条約の改定をやってしまい、日米関係を同盟関係に変えてしまい、日本をアメリカの戦争に協力させる体制を造ってしまった。これはまさに憲法で禁止されている集団的安全保障体制そのものなのだ。憲法改定も提起せず、安保条約改定の交渉さえもしないまま、アメリカの良いなりになってしまった「日米同盟関係」は、この際本来の日米安保条約の枠に戻し、あらためて今後もそのまま続けていくのか、それとも安保条約を止めて新しい日米関係をつくる日米平和友好条約を締結するか、民主党連立新政権ではじっくり考える必要がある。社民党までが最初から「日米同盟関係」を目指すような言い方に嵌ってしまっては、本当の意味の自立した外交は望み薄だと思ってしまう。


秋風とともに 政治の季節

2009-09-06 | 政治
日中の最高気温が15℃、最低気温が8℃と、もはや晩秋か初冬の気候のようなサンナシ小屋周辺から東京へ降り立つと、涼しい秋の風が吹き渡っていた。小江戸川越では、夜の草むらからすずやかな秋の虫の鳴き声が聞こえてくる。そして京都に帰り着いてみると、34℃の残暑の盛り。虫の声も聞こえない。日本列島は実に長~い。

 しばらくネット環境の難しい北海道の片隅で仕事をしていたので、ブログの更新がなかなかできなかった。ネット環境だけではなく、仕事もそれなりに忙しかったこともあったのだが。その間に、時代の変わり目を予感させる選挙が行われた。結果は民主党が安定した単独過半数を占めるという劇的なものだった。しかし、308議席も獲得した民主党への投票集中が、自公政権の腐敗と危うい方向性に対する批判だったことは確かだが、やはり小選挙区制の恐ろしさも、同時に見せつけたように思う。これから選挙制度の見直しこそがなされなければならないだろう。政権交代を成し遂げた民主党にとっては、小選挙区制を手放したくはないと思うだろうけれども。

 選挙の結果の政権交代もなかなかドラマチックで、これからの行方に関心が向くが、それと同時に、選挙で自民党の右翼反動政治家たちがどうなったかをゆっくり検討してみたい。山口県ではこれほどの反自民の嵐にもかかわらず、アベシンゾーを始め自民党議員が続々当選した。明治維新で王政復古の旗を振り、天皇を政治に引っ張り出した長州藩の面目躍如といったところか。靖国神社の国家護持を唱えていた何人かの反動政治家が落選で姿を消したのは、なによりのことだった。アベシンゾーのような反動がゾンビのように復活してくるのだけは、なんとかして阻みたいものだ。

 民主党は、平和を目指す政権を作ってほしい。世界に誇る憲法を政治に生かす初めての戦後政治が期待されるのだが。

「金のないやつは結婚するな」

2009-08-24 | 政治
アソウお馬鹿首相がまたまた本音を出した。遊説中に少子化対策を話していたときに、若者から結婚したくても生活が苦しくてできないが・・と問われて、「お金のない人は結婚しない方がいい」といけしゃあしゃあと述べたという。本来なら少子化対策を話しているのだから、お金がなくて生活できず、結婚できないと言われたら、結婚できるような生活を保障すると言うべきなのだが、そこは正直なアソウお馬鹿首相。結婚できるような生活を保障するつもりがないことを隠さずに、お金がない奴は結婚するなと言わんばかり。

 まあ、正直なのだろうね。アソウさんは。国民の生活なんて気にしていないということを、いつも正直に言ってしまうのだ。そんなことより自分の身内のような大企業に税金を振る舞って、景気回復する方が大事なのだ。景気が良くなれば自分と同じ経営者は羽振りが良くなる。そのうち国民にも少しはお金が回るだろうと思っている。だからアソウさんにとっては景気回復が一番大事なのだ。国民の生活や医療や年金など、「何で俺がそんな奴に金を払わなきゃいかんのだ」と思っている。

 日本の総理大臣として毛並みはよいがおつむは悪い、そして心はまさに貧弱だ。

裁判官の国民審査をさせろ

2009-08-20 | 政治
 衆議院選挙が告示されたが、もう選挙は終盤戦だ。今回の選挙ほど結果が気になる選挙も珍しい。替わり映えがしないと思われた過去の選挙だったから。参加しない手はない。今週末から京都の暑さから逃げ出すことに決めた。しばらく行かなかったサンナシ小屋に出かける。あの涼しさ・寒さに久しぶりに出会える。

 そこで期日前投票に出かけた。不在者投票と言っていた頃は、投票するのにずいぶん厳しいチェックがあり、理由が必要だったりプライバシー侵害とも思えるチェックがあった。その点は、期日前投票になってずいぶん緩和された。でも主権者が投票という主権を行使するのに、あれこれ言われる方がおかしかったのだ。これは改善されたと思う。

 しかし、投票の段になって気がついた。小選挙区と比例代表区の投票用紙二枚を渡されたのだが、最高裁判所裁判官の国民審査用紙が渡されない。選挙管理委員会の人に「国民審査用紙」をくださいと言うと、23日以降でないと投票できないという。でもその頃投票できないからこそ、今日期日前投票に来ているのだ。なぜ23日以降でないと投票できないか聞いたら、法律で決まっているという。それなら期日前投票制度を法律で決めたときに、同時に国民審査の法律もそれに合わせて変えておくべきではないか。わざわざ期日前投票に来るということは、参政権を積極的に行使しているのだ。国民審査をするのも主権者としての権利。それを奪うような制度はただちに改正して欲しい。

 今回の最高裁判所裁判官の国民審査ではぜひとも投票したいと思ってきた。司法の検察との癒着、司法の独立を放棄したような政治権力との癒着など、最高裁判所の行為は目に余る。高知県の白バイ事故のえん罪事件も検察といっしょになって市民を罪に陥れている。

 徴兵制度にも匹敵する裁判員制度にも国民審査を通して反対したいと思っていた。えん罪に対する裁判所の態度もまったくおかしい。全員×をつけたかったのに、おかしな制度で積極的に投票権を行使するような人を遠ざけようとする深慮遠謀があったのだろうか。投票できなかったのは、本当に悔しい。

議員定数の削減は民主主義の自殺

2009-08-12 | 政治
タクシーに乗ったら、運転手が景気の悪さを呪ったあと、選挙の話に言及した。彼が言ったことは、もっと議員の数を減らして欲しい、ということだった。同意を求められて、私は言いよどんだ。そして「なぜ?」と聞いた。「議員に支払う税金が無駄だからだ」と、予想した答えが返ってきた。

 世間一般には、そのような言い方が多い。週刊誌や新聞にも、そのような言い方で議員定数の削減を言いつのる言説が多い。自民党も民主党もマニュフェストに衆議院の定数削減を書き込んだ。民主党などは80人削減を約束している。

 でも、待って欲しい。公務員には無駄な公務員もいるかもしれない。議員も税金の無駄だと思う議員もいる。しかし、議員は本来住民の意見を代弁する人なのだ。その代弁者を減らして、わずかの歳費をけちることにどれだけの意味があるのだろうか。むしろ住民の声を聞く人を無くすだけではないか。国会議員は民主主義を体現する存在なのだ。怠惰な議員がいたら、叱咤激励して住民のために働かせることこそ、必要なことであり、議員を減らすことは民主主義を崩壊させることでしかない。

 そんな簡単な民主主義の原則を理解できない低劣な議論が自民党と民主党という大政党で平気で行われていることには、驚くばかりである。民主党よ。政権交代したあと、議員定数を削減するというマニュフェストを変えて欲しい。このままでは、私は民主党を支持できない。ことは民主主義を守るかどうかなのだ。

 この民主主義の危機に、市民団体「平和への結集をめざす市民の風」が声明を出した。議員定数を減らして欲しいと思っている、浅はかな考えを持っている人はよく読んで、考え直して欲しい。

共同声明「国会議員の定数削減に抗議する」
                                        
 民主党は、7月27日に発表した衆選マニフェスト(政権公約)のなかで、「ムダづかい」削減のために衆議院比例区議員の定数80削減を提案した。
 自民党でも、定数削減を政権公約にしている。

 しかし、国会議員の定数削減は、議会制民主主義のもとにおける有権者の多様な意思の表明を困難にし、民主主義の精神を踏みにじるものであり、我々はこの提案に強く抗議する。

1. 議会制民主主義のもとでは、広範な市民の多様な意思をできるだけ的確に議会に反映させること、従ってまたこのための仕組みが極めて重要である。

2. このためには、然るべき人数の議員が必要である。
 現在の衆議院の定数、480人は決して多すぎるものではない。
 現在の選挙制度が発足した時には500人であったが、その後削減されている。

3. ヨーロッパの主要国(独、英、仏、伊)では、人口は日本の2分の1から3分の2であるが、下院議員の定数は600人前後である。
 人口10万人当たりの定数は、独で0.74人、その他では1.0人前後である。
 これに対し、日本では0.38人と極めて少ない。

4. 米国の連邦下院議員定数は、435人と少ないが、独特の大統領制である、州の権限が強い連邦国家であるなど、政治制度が日本と 著しく異なっており、比較の対象にするのは適切ではない。
 それでも、米国の議会予算は日本より大幅に多い。

5. 定数削減の目的は、これまで、民間のリストラ、国の行政改革に対応して、国会も人員、予算の節約を図る必要があるため、といわれてきたが、今回「ムダづかい」削減による財源確保が目的、とされている。
 しかし、国権の最高機関である国会の議員の在り方を、民間や一般公務員と同じように論ずることは基本的に間違っており、特に議員定数の一部を「ムダ」とみなしてその削減を財源確保の手段としていることは、到底容認できない。
 定数削減の結果、国会がまともに機能しなくなったら、民主主義が衰退してしまうことを無視している。

6. このような危険を冒してまで議員定数を削減しても、それによる予算節約はそれほど大きいものではない。
 国会の予算は、国会図書館を除くと約1,100億円である。(この他、政党助成費が321億円ある。)
 これは、一般会計予算の0.12%であり、この一部を削減しても予算の1万分の1から2程度である。       
 因みに、米軍へのいわゆる「思いやり予算」は2千数百億円に上る。また、F-15戦闘機は一機100億円、F-2は120億円である。
 もちろん予算節約の努力は必要であるが、他方、国会の基本的な任務遂行に必要な予算は、民主主義のコストとして負担すべきである。

7. 定数削減は、比例区の定数削減として提案されているが、この提案には、民意をより正確に反映する比例区の定数を削減し、最終的にはこれを無くして、完全な小選挙区制に変えてしまおうという意図が窺われる。マニフェストには「政権交代が実現しやすい選挙制度とする」と記されているからである。
 ただし、専門家によると、小選挙区制では政権交代が起きる可能性が高い、ということは明瞭とはいえない。

8.小選挙区制には問題があることは広く知られているにも拘わらず、選挙制度の在り方について公に議論しないまま、定数削減によって完全な小選挙区制へと実体を変えようということは、極めて不公正、不当な政策であるといわざるをえない。

9. 小選挙区、2大政党制は、統治する立場からは好都合といわれているが、市民の立場からは、多様な民意を的確に反映させることにはならず、不公正である。
 有権者の意思を的確に反映させるためには、少数政党への投票をも尊重する比例代表制を基礎とした制度が絶対に必要である。

10. このように大きな問題があるにも拘わらず、定数削減という方針が尤もらしく聞こえ、一定の支持を得ているのは、ろくに仕事をしない議員が多すぎる、世襲議員が余りにも多い、などのためであろう。
 この状況を改めるのは、定数削減ではなく、望ましくない議員を落選させ、真っ当な人物を選ぶことである。

11. 参議院議員の定数については、今回は触れない。参議院の在り方を議論する過程で慎重に検討すべきである。
 衆参合わせて何割削減などという粗雑な議論は、問題外である。

 以上の理由により、我々は国会議員の定数削減という政策の撤回を強く求める。


厳罰化に向かう裁判員

2009-08-08 | 政治
やっぱり怖れていた事態が起こった。最初の裁判員裁判では、被告も事実関係では争わないという比較的簡単な事件を大々的にマスコミを入れて裁判員裁判がきわめてうまくいったという大宣伝を行った。しかし、その裁判員裁判で、市民が裁判に感情を入れることによる厳罰化が現実化した。量刑を市民が感情に基づいて決めるというやり方は、常に厳罰化の方向に向かう。なぜなら裁判員は加害者ではなく、被害者に感情を移入する傾向にあるからだ。法律の定めにある量刑の範囲でより厳罰に近い量刑に決まるという傾向がこれからの裁判に顕著に現れるであろう。

 裁判員は法を学んではいない。いわば素人である。刑罰には長い時代を通してその意味が研究者や司法の論争によって決まってきた意義がある。刑罰は犯罪に対する復讐ではない。あくまでも罪を犯した人を反省させ、罪を補い、社会に復帰させるという目的がある。そのような目的に沿って裁判員は果たして量刑を決めたであろうか。おそらくそんなことを考えた裁判員はいないのではないか。裁判員には法と司法制度を学ぶ必要を与えていない以上、彼らは量刑を結局は罪への復讐として刑罰を加えるという発想でしか裁判に参加していない。

 裁判での量刑は裁判官が専門家としての立場から、罪と罰の比較考量と受刑者の社会復帰を考えて決めるものである。裁判員が量刑を決めるのはやはりおかしいとしか思えない。とくに重大な刑事犯罪に裁判員を加えるという今回の裁判員制度は、即刻止めるべきである。民主党のマニュフェストには、裁判員制度への言及がない。自分も賛成した制度だったからかもしれないが、裁判員裁判にはマスコミをフル動員したおべんちゃら記事にもかかわらず、やめて欲しいという意見は圧倒的に多い。

 裁判員制度を実施するなら、ぜひとも民事裁判や行政裁判だろう。それならきっと多くの国民がぜひとも参加したいと思うに違いない。政府や自治体が無茶苦茶な論理で推し進める道路、空港、ダムの建設に反対する住民の訴訟にこそ、住民の代表が参加する意義がある。官僚制度を突き崩すもっとも大きな一歩になるだろう。だからこそ、官僚が支配する裁判所はそれを認めないだろう。民主党政権になっても、官僚(制度)はけっして死なない。それを変える強い意志は民主党には見られないように思うのは思い過ごしだろうか。

アソウの差別意識

2009-07-30 | 政治
65歳以上の老人は「働くしか能がない」「これから遊びを覚えてもしかたない」
とアソウ首相が述べたらしい。老人をどこまでも侮辱しコケにすると、世間から
は総スカンを食らっている。老人はあらためて自民党を見捨てたのではあるまい
か。後期高齢者医療制度の問題もあらためて思い出したに違いない。

 しかし、なんかこの発言の意味がよくわからないと思った人も多いのじゃない
か。「働くしか能がない」っていうのは、褒め言葉ではないかと思った人も多い。
でもこれはアソウ首相の言葉足らず、いや、アソウさんのことだから、「言葉知
らず」なのだろう。語彙が少ないのだ、この人は。では、本当はどういう意味か。
この発言がなされたところを考えて欲しい。日本青年会議所の集会での発言であ
る。この発言の前に「皆さんとは違って」という言葉があって、「これらの人は
働くしか能力がない」と続いている。青年会議所の若い社長たちは働いていない
と言うのだろうか。いや、もちろんそうではない。「皆さんとは違って」という
言葉から分かるように、「働くしか能がない」の働くこととは、下請け労働のこ
とであり、青年会議所の社長たちが働くこととは違うという差別発言なのである。

 当然、アソウ首相が働いていることは、これら老人たちの働いていることとは
違うんだということも入っている。アソウ首相だって65歳以上なんだけど。でも、
彼は同じ年齢の人とは自分は違うと思っているらしい。同じ年齢の人たちは、
「飲んだり食ったり不摂生して健康を害している。そいつらの医療費をなんで俺
がはらわにゃならんのだ。」と言って大反発を受けた。これは保険の相互扶助の
精神をまったく理解していないことを露呈したのだが、それらの発言の根底には、
老人への差別意識、蔑視がある。

 上から目線と言われているのはそういったことがいろんなところで現れている
ことなのだろう。いくら反省の弁を低姿勢で述べたところで彼のそのような選良
意識、差別意識はきわめて明瞭だ。自民党の幹事長までした実力者の野中広務さ
んを、被差別出身者に首相はやらせないと差別を公然と口にしたことも有名
である。しょせん首相になる人格の持ち主ではなかったということなのだろう。
こういう人をこれからも日本の首相を続けさせてはならない。自民党をぶっつぶ
したのはコイズミだけではない。最後の引導を渡すのには、アソウは良い役回り
なのかもしれない。


プリンスホテルの犯罪

2009-07-29 | 政治
 プリンスホテル新高輪が、日教組と契約していた施設の使用を一方的に破棄し、
東京高裁の仮処分命令にも従わなかったことについて日教組が提訴していた事件
で、東京地裁はプリンスホテルに請求のあった3億円満額を支払うよう判決を出
した。契約を一方的に破棄した上に、それを非難した日教組に非があるような記
者会見を開いたり、ホームページで日教組の対応を非難したりしたことが、名誉
毀損に当たると謝罪文を新聞に掲載することも命じた。日教組側の全面勝訴と言
って良い判決だった。

 プリンスホテルの対応は、明らかに政治的な動きだった。日教組の集会を妨害
しようという意図があってのことは明らかだろう。裁判では周辺の中学校や住民
に迷惑がかかるからというもっともらしい主張をしていたが、これが自民党大会
であったら、こんな対応をしただろうか。自民党大会に抗議の大デモがあると予
測されたときでも、契約を破棄するなどというビジネスの基本を無視するような
ことは、おそらく絶対しなかったに違いない。

 裁判所の判断は、プリンスホテル側に非常に厳しいもので、ほとんどプリンス
ホテルを一方的に非難するに等しい判決だった。その理由は、地裁や東京高裁の
仮処分命令をプリンスホテル側が無視したことだ。裁判所にとっては自らの存在
理由を否定されたに等しい。それだけに裁判所は厳しい判決を出したに違いない。

 プリンスホテルは、今回も判決を無視したらどうだろう。裁判所の仮処分命令
を無視したのだから、日本の司法には従わないと言ったに等しい。それなら、今
回の判決も無視して、賠償支払いも拒否、謝罪も拒否したらどうだ。日本の裁判
所と徹底的に対決するつもりがあるならば。ホテル側は控訴する方針だと言うが、
司法を無視するなら控訴などしないで、裁判にも参加しなければよい。「俺が法
律だ」と言い続けるしか行動と論理の矛盾をなくす方法はないはずだ。もっとも
矛盾なんか気にしないのがプリンスホテルの経営方針だろうから、どうするのか
見当もつかないが。

 日教組の教研集会を巡っては、会場使用を断るという事態が過去4回もあり、
そのたびに裁判所の判断で仮処分を出して使用させるということが行われてきた。
今回はその仮処分にも従わず、しかも宿泊さえも拒否するという悪質なものであ
った。しかし、何度も同じことを繰り返し、集会結社の自由、言論の自由という
憲法の基本を守ろうとしない行政や団体があとを絶たないことが一番の問題だ。

 そのような右翼を怖がる態度が結局のところ右翼を喜ばせ、右翼をさらに妨害
行為に走らせる促進剤になっている。暴力団を恐がり暴力団の意のままになるこ
とが結局のところ暴力団をのさばらせる。右翼も同じことだ。もっとも、今回の
件は、プリンスホテルの役員12人のほとんどが右翼そのものだったのかもしれな
いが。

 再びこのような基本的人権を踏みにじる事件を起こさせないためには、プリン
スホテルをボイコットすることが必要だ。プリンスホテルを利用しない。プリン
スホテルで行われるあらゆる行事に参加しないなど、われわれの基本的人権を守
るために、このさいプリンスホテルには倒産して退場してもらうしかないのでは
ないか。