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ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

アマモ場再生という嘘

2007-06-24 | 環境
昨日白浜の海に潜ったことを書こうと思っていたが、ついつい書くことが多くて書き損ねてしまった。今日になるともう白浜の海の記憶が薄れてきて、何を書こうと思ったのかも不確かだ。

 二日間、白浜の海岸でダイビングを練習している若い女性たちのカラフルなウェットスーツを横目で見ながら、浅い海に入った。もうダイビングが若い女性の間で盛んになってから20年以上が過ぎたと思う。最近はダイビングも一時ほどの流行ではなくなってきたようだ。ここ白浜の海は関西のダイバーたちが最初に潜る場所として有名だ。昔ほどにはダイバーの卵が溢れかえることはなくなったが、それでも白浜の海岸ではまだまだ派手なスーツ姿の初心者ダイバーを見かけることは多い。温泉で客を集めていた白浜も様変わりしているようだ。

 宿のすぐ近くに海岸に海水ブールが作られており、中でバンドウイルカが一匹所在なげに泳いでいる。ダイバーたちがイルカと一緒に泳ぎながらダイビングの練習ができるようにと作られたらしい。この企画はなかなか評判を呼んでいるらしい。

 ところで私たちが潜ったのは、サンゴや熱帯魚が見られるような外海ではなく、田辺湾の奥の方の砂浜の沖だ。こういうところに「アマモ場」ができている。アマモとは、別名「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」という長い名前の海草だ。地下茎を囓るとかすかに甘みがするので「アマモ」とよばれているとか。このアマモは昔は田辺湾のあちこちに生えていて、内湾性の魚類や底生生物(ベントス)の住みかを提供していたのだが、いまではほとんど無くなってしまっている。そのアマモを探してあちこち潜ってみた。数カ所にアマモが生えているところが残っていて、少しほっとした。全国からアマモ場がなくなりつつあるからだ。

 アマモ場が無くなる理由は、海の埋め立て。至る所の浅い海が埋め立てられて工場地帯になったり、住宅地になったり、使い道が無くて荒れ地のまま放っておかれたりしている。海の生き物はそのために住みかを失って絶滅していく。

 最近、テレビなどでアマモ場が紹介されることが多くなったせいか、アマモ場の重要性を理解する人が増えてきているのはうれしいことだ。しかし、困ったことも増えた。海岸の環境を守りたいという住民が増えてきたのはうれしいのだが、彼らが最近アマモ場を増やすためにと称してあちこちでアマモを植える運動を始めている。ここ田辺湾でもアマモをあちこちに植えているという話を漁師から聞いた。また、アマモ場の造成や再生と称して大規模に税金を使ってアマモを植える公共事業があちこちで行われるようになった。

 しかし、これは無駄な公共事業そのものだ。住民たちのアマモの植え付けもぜひやめてほしい。なぜか?それはアマモ場は理由があって無くなったものだ。埋め立て以外の主な消滅理由は、埋め立てや護岸工事で流れや底質が変わったこと、水がよごれたこと、である。そのようなアマモ場の消滅原因をそのままにしてアマモ場造成といって植えたとて、けっして元のアマモ場は復活しない。植えてしばらくはアマモは存在しているが、やがて1-2年後には無くなってしまう。このような運動は海の環境を壊した本当の理由を見逃してしまうことにしかならないのだ。

 アマモの植え付けを環境教育として生徒にやらせている学校もあると聞く。その先生はどう言って生徒に環境教育をしているのだろうか。ゴミ拾いをやらせて環境教育だと思っている先生が多いのと同じことだろう。環境悪化の本当の理由を教えないで環境教育はできない。

 そんなことをみんなでぶつくさ言いながら、夜は白浜温泉「長生の湯(#402)」と「草原の湯(#403)」で温泉を心ゆくまで楽しんだ。


宇井純を学ぶ

2007-06-23 | 環境
7月23日は沖縄慰霊の日。61年前のこの日は、鉄の雨が沖縄の島に降り注ぎ、住民30万人が死に、傷ついた日だ。暑い夏の日差しの中で敬虔な祈りが捧げられただろう。沖縄から戦争のにおいを消してほしいと。

 51年前には、水俣病患者が最初に発見された。あれから半世紀たったが、いまだに解決ができていない。公害としての水俣病に取り組み、企業と行政の横暴に戦いを挑み続けた宇井純さんが昨年74歳でなくなった。今日、彼が1970年代から80年代にかけて行ってきた公害問題自主講座を再現する彼の追悼集会が、東大安田講堂で開かれた。昔、2・3度だけだったけど自主講座に出かけて話を聞いたこともあって、「宇井純を学ぶ」という名の追悼自主講座に出かけた。

 宇井さんとは直接の面識もなかったが、宇井さんが東大助手にきりをつけて沖縄に出かけるときに手紙を書き、彼からそれまでの自主講座の総括をした本を二度ほど送ってもらったことがあった。

 会場になった安田講堂には自主講座を実行し受講した世代を中心に1000名ほどが集まって、原田正純さんや最首悟さんなどの講演を聴き、現代の大学院生などの若い世代と宇井純を語るパネルディスカッションがあった。

 若い世代が宇井純の残した言葉と仕事をどう引き継いでいくか、それがもっとも大きい課題だった。安田講堂という場所と集まった多くの団塊世代から、あの反逆の時代の雰囲気がかぎ取られ、懐かしさに胸がいっぱいになりそうだった。

 しかし、ディスカッションは冗長で、若い世代の発言は自信のない何を言っているのかよくわからないものだった。若者が普段から議論をしなくなったことが背景にあるのだろう。昔の学生は、良いか悪いかは別にして、実に立て板に水のごとく自分の主張を演説し聴衆を酔わせ煽動した。パネラーは多くが役割を果たしていないように思えた。とくに小林某という東大教授の司会はへたくそでいらいらさせられた。会場からの質問で、宇井さんが残した言葉のように、東大が真に市民の立場に立った公害や環境研究ができるかと迫られたときに、彼の言は御用教授を生み出した東大の本質的な欠陥を露呈したと思えた。

 小林某教授が「二酸化炭素の排出権の売買で企業が儲かる仕組みは、良いことだ」といいきったのには本当に驚いた。排出権の売買は自らの排出削減努力をお金で貧乏な国から買うという仕組みであり、それは最終的に人類の生存が脅かされたときに金持ちが生残る権利を貧乏人から買い取ることができる仕組みである。貧乏人や貧乏な国は先に滅びても良いという思想だ。それを宇井純に学ぶ集会を主催している人が積極的に肯定したことは驚きだ。閉会の言葉を述べた宮本憲一元滋賀大学長が、原稿を離れて、宇井純がこの集会を見たら「まだ俺の言うことがわからないのか」と言うだろうと苦言を呈したのは、むべなるかな。宇井純の思想はやはり東大教授にはわからないのだろう。東大には御用学者になる以外、環境や公害の研究者はいないという宇井純の指摘は結局いまもって本当なのだろうと感じた。

そして今日、キャンドルナイトの日。電気を消してろうそくの火で環境を考える日だ。近くのスーパーにろうそくを買いに行ったら、売っていなかった。あれれ。

鬼がせせら笑うサミット

2007-06-08 | 環境
 今年のサミットが終わったようだ。日本が地球温暖化に関してリーダーシップをとって来年の洞爺湖サミットまでの宿題を出したと評価されている。2050年までに現在のCO2の排出量を半減するというのが合意に向けて日本の提案だという。アベ首相の提案にはもっともCO2排出量の多いアメリカを入れること、排出量が増えてきているインドと中国を含めることなども入っている。しごくもっともな提案であった。アベ首相がこの提案をしようと考えたのはどうやら1月のセブ宣言(ASEANの東アジア首脳会議)のときらしい。

 「セブ宣言」は、化石燃料の埋蔵量が限られていること、地球温暖化への対処が緊急の課題になっているとの共通の認識にたち、「バイオ燃料などの再生可能なエネルギーの開発強化、エネルギー部門の開かれた貿易、協力の促進が必要」だとしている。急速な経済成長でエネルギーを大量消費する東アジアで、エネルギー安保が重要課題として取り上げられている。その後、アメリカも京都議定書以外の枠組みで温暖化対策の国際的な取り組みに参加するとブッシュ大統領は表明した。

マニラで勉強して帰ってきたアベ首相は、急いで来年のサミット議長国の日本をいかに宣伝するかを考えたようで、環境問題こそ参議院選挙の宣伝にもなるしサミットで日本の主導権を確保するにもっとも良いテーマだと考えたようだ。帰国するや直ちに中央環境審議会に21世紀環境立国戦略特別部会を設置し、サミットに間に合うように泥縄の提案をまとめさせた。この部会は2月から活動を開始し5月27日にサミットに間に合わせて報告をまとめた。

 この報告はサミットで2050年にCO2の排出量を現在の半分にするとか、アメリカ・中国・インドなどを含めた国際的枠組みを作る、Invitation to "Cool Earth"を「美しい星」への誘い」と訳すなど、という最初から政治的に入っていた文言をちりばめた政治的な文書であるが、それなりによく書かれた部分もある。持続可能な「低炭素社会」の提案とか、百年先を見通した生物多様性の保全とか、なかなか良いことを言っている。しかし、アベ首相には本当に本腰を入れてこの提案を実行しようという気持ちがあるのだろうか?もしその気持ちがあるならば、2012年までに京都議定書の6%のCO2削減の約束をなんとしても守る必要があるのではないか。直近の約束が守れそうもないから、40年先の約束をするというのは、ひねた子供の考えることだ。

 来年のことを言っても鬼は笑う。2050年に半減とは、鬼はせせら笑うだろう。

 関東もそろそろ本格的に暑くなってきた。今年の夏の暑さは覚悟しなければならないが、来年以降の暑さは、参議院選挙次第だ。環境問題に本気で取り組む首相が欲しい。紋次郎はどうしてるかな?
 

美しい地球?(爆笑)

2007-05-25 | 環境
アベシンゾー首相が、2050年までに温暖化ガスの排出量を今の半分に減らすことを提案したことは昨日のブログにも書いた。そのスローガンが「美しい地球」だって!噴飯ものだ。「美しい日本」が評判いいと思ったのか、その伝をG8でも使おうと言うことらしい。語彙・思想の貧困さが透けて見える。

 アベ首相は、アメリカや中国、インドなどの主要な排出国が参加しない京都議定書では駄目だから、新しい提案をしたという。たしかに、これらの国が参加しない排出規制は実効性が薄いかもしれない。しかし、だから京都議定書の約束を守らなくてもいいというのでは、40年以上先の約束なんかだれも信用しない。そういうならまずアメリカを説得して京都議定書への復帰を実現したらどうでしょう。アベさん。それをやらずに40年以上先のことをいっても所詮口先だけのことと、本性がばれてしまうだろう。

 いまだに経済との両立なんかを言っていては、地球の温暖化を阻止することなんかできるわけがない。深刻さの認識が甘すぎる。二昔前に「環境と経済との両立を」なんて言って公害で人々を塗炭の苦しみに落としたことを我々は反省したはずだ。環境を守ることは経済とは両立しないと考えるべきだ。経済よりも人類の生存の方が絶対に優先する。アメリカが京都議定書を離脱したのもブッシュが経済界の反対に乗ったためだった。温暖化のA級戦犯はアメリカにある。しかし、日本も姿勢は同じだ。

 アメリカが参加しようがどうしようが、日本はEUやロシアとともにまず2010年までの京都議定書の約束をなんとしてでも守る努力をすべきだろう。経済が停滞しても。
 

技術では生き延びられない

2007-05-24 | 環境
地球温暖化が予想以上の速さで進んでいるという。アメリカのイエローキャブは二酸化炭素排出削減のためにすべてハイブリッド車にするとニュースで伝えていた。同じニュースで安倍シンゾー首相は2050年には二酸化炭素の排出を今の半分に減らすと言っていた。アベシンゾー内閣ではイノベーションによる極楽未来を予想して見せている。イノベーションとは「技術革新」を偉そうに言った言葉に過ぎない。

 あきれたな。まあ、何とでもいえる。先のことは。ましてや自分の内閣はとっくの昔になくなっているはずだから。京都議定書で日本は2010年までに1990年代初頭の6%を削減すると約束した。しかし、その約束は反故にされそうだ。実際は今年までに1990年代初頭の8%以上増加させたままだ。その現実と責任には目をふさいで、2050年のことを言挙げする。まさに参議院選挙の前の無責任なリップサービスでしかない。

 日本は省エネ技術では世界でも群を抜いて優秀な技術を持っているという。その技術をしても京都議定書の目標に遠く及ばず、温暖化をただ天災のように嘆いてみせるだけだ。なぜ優秀な技術の日本で二酸化炭素を減らせないのか。

 その理由は? まず、技術が優秀であるが故に日本の技術依存いや技術信仰が強すぎると言うこと。そして技術に頼って温暖化などの地球環境問題に対処しようとしていることだ。ここに根本的な問題がある。今の車社会、消費型社会をそのままにして技術でなんとか切り抜けようという対症療法はもう役に立たないことを知るべきだろう。脱車社会・脱消費社会を作り上げない限り、未来はないと思うべきだ。

 トヨタに遠慮してそれを言い出せない日本の政治家たち。石器時代にもどれというのかと人々を脅す企業家たち。石器時代に戻るのをおそれる消費者が、浪費の宴を尽くしている間に、石器時代以前に戻る事態が地球に起ころうとしている。自分たちで紀元前の世界に立ち戻らねばならない事態を招くよりも、その前に自分たちで江戸時代まで戻ろう。それ以外には生き延びる道はない。いや、一つだけあった。それは人口を今の10分に1に減らすことだ。これからの政治家は真剣にそのことを考える必要がある。少子化対策なんてもってのほかじゃないか?
  

美しい瀬戸内海を残したい

2007-05-05 | 環境
5月3-4日、瀬戸内海の小さな入り江「田浦」で生き物の観察会に参加した。集まった人は40名あまり。専門家数名と子供連れも含めて一般の市民たち。みんなこの小さな瀬戸内海の海を残したいという思いで集まってきた。

 上関原発が計画されてからもうずいぶんの年月がたった。中国電力(株)は、地元の人々を賛成と反対に二分して人々の絆を断ち切り、さらに瀬戸内海の原風景ともいうべきこの小さな入り江を埋め立て、原子力発電所を作るという。生物の専門家は、この小さな入り江が瀬戸内海のガラパゴスともいうほどの貴重な生物が生息していることを明らかにしてきた。陸上でも貴重な植物、鳥類が見られ、海ではかわいらしい小型の鯨スナメリがたくさん見られる残り少ない海域であることも明らかになった。

 昨年から詳細調査という名の工事着工のための測量調査が始まった。陸上と海上でボーリング数百カ所が始まったが、ボーリング調査を阻む祝島の漁民たちの命をかけた非暴力実力行使で、すでに予定は大幅に遅れている。長島の自然を守る会に集まった人々の自然を守れという声、日本生態学会や日本ベントス学会などの専門家によるアセスメント批判や彼ら独自の調査による環境破壊への警告などが、じわじわと計画そのものに影響を与えている。

 4月には、これまでの詳細調査の遅れを取り戻そうと世界最大のボーリング台船を導入しようとした中国電力だったが、ふたたび祝島漁民の体を張った抵抗でついに4月中の導入をあきらめた。連休明けには導入を再び強行しようとしている。

 連休の市民の調査には多くの人が遠くから(東は埼玉から西は長崎まで)駆けつけた。長島の自然を守る会の代表でこれまで運動を引っ張ってきた高島さんが5月5日に結婚するとのことで、市民調査はさらに活気を見せている。泊まり込みの調査では結婚の祝賀会も行われた。大学生、主婦、炭焼き、農民、僧侶、小学校の先生など実に様々な人たちがこの瀬戸内海の原風景を原発建設から守りたいという一心で集まってきて、なれない生物の調査を専門家の手引きで行っている。アマチュアでありながら専門知識をもったいわゆる市民科学者がこの運動の中から育ってきた。

 着工を焦っている中国電力は、今年中に着工したいと思っているようだが、入会権を主張する住民の裁判も残っており、まだまだ市民はあきらめていない。次々に明らかになる電力会社のデータのねつ造、事故隠し、不正な工事など、原発への不信はいっそう高まっている。臨界事故さえもあちこちで隠され続けてきた。一つ間違えば地球規模での放射能汚染が起こるような原発が日本に無数にできつつあることの不気味さは、静かに考えれば誰もがわかるはずだ。ましてや、瀬戸内海という閉ざされた内海に原子力発電所を作るという無謀は、許されない。

 地球の温暖化は二酸化炭素CO2などの濃度の増加による。だからCO2を出さない原発建設が必要だと推進派の研究者や政治家は言う。しかし、原発の建設と運転で使う多くの資材やエネルギーは結局は石油などのCO2排出エネルギーに依存している。

 さらに問題なのは大量の温排水を海に日常的に垂れ流していることだ。1基の原発でも日本で10位に入るような大河に匹敵する流量の温排水が沿岸の海に流れ込む。排出口で7℃までの上昇が認められているが、実際はこれを越える水温の水が排出されている可能性がある。もし7℃までの上昇に押さえられているとしても、信濃川に匹敵する流量を持った7℃高い水温の川が毎日流れ込んでいることになる。この温排水が環境に影響をもたらさないと本当に思えるだろうか?環境アセス書には、そう書いてあるのだが。少なくとも日本周辺の水温や気温の上昇にこの原発の温排水が原因になっていないと本当にいえるのだろうか?企業にすり寄らない専門家の研究が待たれる。

 天候に恵まれた市民の自然環境調査だった。この美しい瀬戸内海をなんとかして子孫に残したい。アベ首相よ。「美しい国」を守るためにすべきことは原発をやめることではないか?
  

柳の綿毛は季節の贈り物

2007-04-01 | 環境
新しい年度になって、昔住んでいた埼玉県の田園都市に帰ってきた。首都圏とは言ってもこのあたりはまだ緑が多少は残っている。と思っていたらどうもそうではないらしい。

 団地の二階にある我が家の窓の外には、緑あふれる湿地帯を望み、彼方には富士山が優美な姿を見せている。ところが、驚いたことにこの湿地帯に生えている高さ10mにもおよぶ柳の木が無惨にも根元から切られてしまっている。いったい湿地帯に生えている柳の木をどういう理由で切り倒してしまったのだろうか?

 問い合わせたところ驚くようなことがわかった。県の担当者が言うには、私の住む団地の住民から、湿地帯に生えている柳の木から綿毛が飛んでくるので、洗濯物にくっついて不愉快だから、柳の木を切って欲しいという苦情が寄せられたので、切ったのだそうだ。これには驚いた。

 春の終わりに柳の綿毛が飛び交うのは季節の風物詩として私は楽しんできた。たしかにベランダに干した布団や洗濯物に綿毛がつくのは困るけれども、そんなものは手ではたけばとれる。害になるものでもない。たかがそれだけのことで木を切れという人間の傲慢さには、ただただ驚くし、またその意見をおかしいと注意することもなく唯々諾々と木を切る県の担当者の愚かしさにも、驚く。

 あなたの足は臭いからあなたの足を切る、手がじゃまだから手を切る、と言われてあなたはどう思うだろうか?柳の木といえども生きているのだ。しかもそれは公共の土地に生えている自然の木だ。この傲慢さ。こういう人は、洗濯物に糞が落ちるから飛んでいる鳥も殺してしまえと言っているのだろうか?綿毛が嫌いならその時期に洗濯物を外へ干すのをやめればいいだけのことだ。どうしても外に干したければ、網をかけるなどの対策を取ればいい。もっとも綿毛なんかそんなにしてまで忌避しなければならないものとも思えない。こんなことを言う人に限ってクーラーをがんがんかけて部屋に閉じこもり、地球の環境を壊す元凶になっているのだろう。

 もっと自然に対して謙虚にならないと、すでに自然からしっぺ返しを受けている人間は生き延びられない。
 

能登沖地震と原発の怖さ

2007-03-26 | 環境
石川県輪島沖でM6.9の地震があり、石川県、富山県などで震度6強を観測した。この地震で志賀町が南西に25cmもずれたという。これは驚いた。

 志賀町と言えば、北陸電力の志賀原発があるところ。先日来の過去の臨界事故の隠蔽で話題の処だ。これだけ大きな地殻変動があるところに原発があることは、本当に怖ろしい。まもなくチェルノブイリ原発事故から21年になる。この事故の恐ろしさはまだ十分に人々に知らされていない。

 定期点検とトラブルで志賀原発の二つの原子炉は停止中だったそうだ。それが不幸中の幸いだったかもしれない。もし運転中だったとすると、25cm移動した地殻によってどのような事故になったかも知らない。新潟県刈羽原発のある刈羽村も震度5に見舞われている。刈羽原発では運転中だった原発にどのようなことが起こっているのか、まだわからない。不安は募るばかりだ。

 石川県は震度6強の地震は記録を取り始めて初めてのことだそうだ。いままで大きな地震がなかったというのはもはや何の慰めにもならないことは、阪神淡路震災でも今回の地震でも既に明らかだ。日本のほとんどすべての地域がほんの数百年数千年さかのぼれば、かならず大きな地震を経験している。こんな地震列島の日本に何十個もの原発があることが、狂気の沙汰ではないか。

 一日も早く日本政府が原子力政策を転換して、原発に依存しないエネルギー対策を建てることを願う。狂ったような風が吹きすさぶ今日の一日に、大地震の報道、そして狂ったような日本の原子力政策を憂う。
 

臨界の恐ろしさと電力会社の責任

2007-03-19 | 環境
北陸電力志賀原子力発電所で1999年に定期点検中に制御棒3本が落ちて臨界状態になったことが明らかになった。しかも、所長他の幹部がその事故を隠蔽してどこにも報告しなかったという。本当だろうか?会社の幹部が本当に知らなかったか?会社ぐるみの隠蔽があったと思う方が自然だろう。

 この事故では、臨界状態になったことが明らかになった。日本で2回目の臨界事故だった。これは非常に怖いことだ。チェルノブイリ級の大事故に直接つながるような事態だったにもかかわらず、義務である報告もしなかったとすると、北陸電力に原発を運転する資格はないのではないか。さすがに原子力委員会も「国民の信頼をゆるがすもの」と批判した。もっとも原子力委員会の批判は現在の体制が「国民の信頼を得ている」という前提に立っている。本当にいまの原子力行政は国民の信頼を得ているのだろうか?少なくとも私は信頼していない。

 しかも、東北電力の女川原発と中部電力の浜岡原発でも同じような事故があったことが明らかになった。臨界状態にはならなかったようだけど、対応が少しでも遅れれば同じように臨界に達したはずだろうし、チェルノブイリ級事故にまで晋可能性は十分あったはずである。臨界に達しなかったから報告の義務もなかったということらしいが、このときにちゃんと報告しておいたなら対策も立てられたはずだし、志賀原発の事故も起きなかったかもしれない。そういう意味で、東北電力も中部電力もその責任は非常に重いし、これらを報告義務なしとした現在の原子力保安体制も見直されるべきであろう。

 志賀原発の臨界事故を隠蔽した理由は、志賀原発の2号機の建設着工が間近に迫っていたことから、この事故をなかったことにしようとしたらしい。このようなことはひょっとしたら日常的に起こっているのかもしれない。とすると原子力発電所の存在自体が本当に恐ろしい。いま日本のいくつかの地域で原発の建設計画が進んでいる。このまま原発を作り続けて本当に良いのかという疑問がふつふつとわいてくるようなニュースだった。ドイツや北欧のように、原発に依存しない生活を作る必要がある。

 地球の温暖化が緊急の問題になっているいま、原発こそが救いの女神だと言う人もいる。政府はそういう立場だ。しかし、本当にそうか?むしろ救いがたい地獄を作り出すことにならないか? そういう風に私が言うと、そうしたら石器時代に帰れと言うことか、と反論する人が多い。そういわれるとみんな「それは困る、なんとかいまの生活を続けられる方法を考えて欲しい」と言う。現代の科学ならそれを解決する方法を見つけられるはずだと思うのだろう。しかし、それははかない望みだ。科学技術は産業革命以来、人間の生活を便利にしてきた。しかし本当にそれが人間の幸福にとって良いことだったろうか?産業革命以前に比べて人間は格段に幸福になったのだろうか?便利になり働かなくなり肥満に苦しむ人が増えた。それは昔より幸福なのか?この問題はもっとよく考えて書きたい。今日は問題提起だけにしておこう。皆さんのご意見も伺いたい。

 四国松山から  伊予に来て 春を松山 城の花
 

温暖化の陰に忍び寄る資源枯渇

2007-03-09 | 環境
温暖化はすでに日常で目にする異常現象として現れ始めている。短期間のデータではそれが温暖化の影響かどうかはわからないことが多い。気候はしばしば数年~十数年の周期で変動を繰り返すからだ。しかし、長期のデータをとっていた場合は、例外なく長期的温暖化の兆候を表している。

 温暖化防止のために温暖化ガス(とくに、二酸化炭素)の放出を減らすことが絶対に必要である。とくに石油などの化石燃料を燃やす量を減らさないといけないにもかかわらず、化石燃料への現代文明の依存度はこれまで以上に高くなっている。

 ところがどうやら別の危機が襲ってきそうだ。石油の資源が枯渇するとずいぶん前から言われてきた。最初の頃はあと30年なんて言われたが、その30年はとっくに過ぎたけれどもまだまだ石油の埋蔵量は多いので、資源枯渇なんて言うのは「オオカミが来る」と脅かす羊飼いの少年と同じだと言われてきた。そして資源枯渇は当分心配しないでも良いとみんな思っているようだ。

 しかし、地下に眠る石油はやはり有限の資源。いつかはなくなる。そしてその危機を早めているのが、現代の進んだ石油採掘技術というのは、皮肉だ。京都議定書が発効したにもかかわらず、アメリカの背信、中国やインドの経済成長によって石油の需要は大幅に伸びている。それに連れて、大規模油田のサウジアラビアやメキシコで生産量がピークに達した。現代の採掘技術はそれを可能にした。しかし、それは石油の埋蔵量を大幅に減らすことに繋がっている。あと1~2年でこれら大規模油田の生産量は数分の1に減るという予測も出ている。すでにサウジの石油生産が一日あたり100万バーレルも減ってきているという(アトランタ・ジャーナル)。

 石油が無くなると温暖化ガスの発生も減るから、いいことかもしれない。しかし、それは人類が滅んで地球が生き延びるというシナリオでしかない。あなたは自分だけは生き延びると思っていないですか?アベシンゾウさん。