肩の凝らないスローライフ

ようこそtenchanワールドへ。「一日一笑」をモットーに・・・日常生活の小さなことを笑いに変えるtenchanの雑記帳

おばあちゃんの人生

2008-07-24 12:41:44 | Weblog
大正生まれの祖母、御歳90歳。

デイサービスに通っていますが
まだまだ元気です。

俳句をこよなく愛し、
今も時々詠んでいます。

茶道の先生でもあり、
月に3回お稽古をしています。

こんなふうに穏やかに暮らしているけれど
↓以前の記事にも書いたように
その人生は苦労の連続。

好きな人がいたのに、願い叶わず、
親の決めた人と結婚。
昔にはよくありがちですが
結婚式の当日まで会ったことがなかったそうです。

その相手(私の祖父)というのが、
これまた典型的なお坊ちゃんで、
男前をイイコトに遊びまくって、
祖母はどれだけ泣いたかしれません。
出産の時でさえも、
女から電話がかかると遊びに行くような人でした。
「帰りたい。」と実家に泣きつくと
「そんなもん、どこの家にだってある。我慢できずにどうする!」
と、追い返されたそうです。

舅、小姑からも嫌がらせを受け、
それにも耐えてきました。

戦時中は名古屋市を離れ、可児市の親戚の家に疎開。
庭の納屋で暮らしたそうです。

戦後、物のない時代、
自分が嫁入りの時に持ってきた、たくさんの美しい着物を
惜しげもなく米に換えて4人の子供を育ててきました。
いわゆる「名古屋の嫁入り」ですからね、
当時は今よりも、もっと豪勢で派手な嫁入り支度だったに違いありませんから
数も質も相当なものだったのでしょう。
今は一つも残ってませんけどね。

そんな祖母も、
一度だけ家を出る決心をしたことがあります。

ある日、小さかった私の母と姉妹弟に、
「お母さんはちょっと静岡のおばさんの所へ行ってきます。
あとで迎えに来るから4人でちゃんと待ってらっしゃい。」
と、言い残して、
静岡にいた自分の姉の所へ出て行ってしまいました。
我慢強い祖母がそんな行動に出たのは、
余程のことがあったに違いありません。

残された母達は、あまりの悲しさに抱き合って泣いたそうです。
その時の記憶は今でもはっきりあるそうです。

静岡の姉と義兄は祖母を迎えてくれました。
二人は祖母の気持ちを十分、分かっていました。

祖母の結婚話が持ち上がったとき、
義兄は祖父の身辺を調べ、
「あの人とは結婚してはいけない。」
と、祖母の親に忠告しました。
けれど、体裁を重んじる彼らは
それを握りつぶしていたのです。
案の定、結婚生活は悲惨なものになり、
姉と義兄はずっと心配していたのです。

子供を置いてまで家を出てきた祖母の決意を
二人は承知していました。
でも、それでも、
「子供のために、ここは一度戻りなさい。」
と、祖母に言ったのです。
そのかわり、
「子供達が大きくなったら
必ずあなたの面倒を見るから、
その時まで我慢して。」
と、説得しました。

夫との未来を思い描けない祖母。
ですが、子供達のために家に戻りました。
姉と義兄との約束を胸に。

当時、女一人で子供を4人も育てることは
不可能に近かったのですから。
戻るのも致し方なかったことだと思います。

結局、その約束は果たされることはありませんでした。
実は祖父は、若い頃結核を患い、
一旦は治癒したものの、
後遺症で、50に手が届いた頃、
突然肺に穴が空き、
あっけなく旅立ってしまったからです。

若くして未亡人になった祖母は
それからは、金銭的に苦しかったとはいえ、
平穏な生活を送ることが出来ました。

だから、祖母には安心して幸せに暮らしてほしいのです。

そして、どんなに辛いことがあっても、
祖母の人生と比べると、
私の苦労なんか「へ」でもないわ!
と、勇気がわいてくるのです。