ヨハネ4・14 わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。
ヨハネ福音書では、「水」がたびたび登場します。第2章では、カナの婚礼において、瓶(かめ)に「水」をいっぱい満たしたとき、水が葡萄酒に変えられました。第3章では、人が新しく生まれるのは、「水と霊」によるのだと語られました。
そして、今日の第4章では、ヤコブの井戸に「水」を汲みにやってきたサマリヤの女性とイエス様とのやり取りが記録されています。
イエス様は、水を汲みに来た婦人に、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が、湧き上がるであろう」と語りかけられました(4・14)。
これを聞いた婦人は、イエスが与える「水」とは、文字通りの水だと思ったようで、「今後、この井戸に汲みに来なくてもいいように、その水をください」と申し出ました(15)。
ヨハネ福音書で語られる「水」とは、御言のこと、あるいは御言によって生じる霊的ないのち、そして聖霊をあらわしています。いずれも霊的な事柄です。
肉体の渇きに水が必要なように、心の渇き(霊魂の飢え渇き)には御言という〝水〟が必要です。神からの霊的な食物や飲物が必要です。
イエス様が与えてくださる御言を飲む者は、いつまでも渇くことがありません。それだけではありません。その人の内側が泉のようになって、そこから永遠のいのちに至る水がわき上がるのです。イエス様からの水を受けるだけでなく、私の内側から、他者を潤すことのできる水が湧き出てくるのです。彼女はそれを求めました。
どうでしょうか。私たちの内側からどんな泉が湧いてますか。
渇きが満たされないばかりか、苦い水が湧き上がる泉があります。不平や愚痴といった苦い水は、自分も周りの人も汚す水です。良くないと知りつつも、泉なので湧き上がってきます。押さえ込むことができません。湧いてこないように塞ぎましょうか。
唯一の解決は、イエスが与える水(御言)を飲むことです。そうするなら、その人の内で泉となって、永遠のいのちにいたる水(言葉)が湧き上がるのだと約束されています。
悪い水を出さないようにと、口先でコントロールしても一時的です。問題は「泉」です。永遠のいのちに起因する泉を持っているかどうかが問題です。先の3章で取り上げた「永遠のいのち」とは、そのような泉のことです。
内なる泉から湧き出る水が、人を活かす言葉となって出てきますか。それとも、人を悩ます言葉となって出てきますか。それは泉の問題です。イエス様は、いのちをもたらす泉を与えてくださるのです。
さて、サマリヤの女性はそのような泉を求めたのですが、イエスは、「あなたの夫を連れてきなさい」と言われました。イエスの返答は唐突(とうとつ)です。いのちの泉と何の関係があるのですか。
実は、いのちの泉が湧き上がるために、イエス様は彼女の心の闇にふれる必要があったのです。彼女の隠しておきたい心の闇に、主は御言を投げかけられたのです。
人の心は、隠しておきたいこと、ふれられたくないことによって、固くなっています。井戸掘りをすると固い岩盤にぶちあたるように、心の泉が湧き出るために掘り進むと、この心の岩盤に突き当たります。でも、それを突き破れば泉が湧き出てきます。
さて、イエスの質問に対して、彼女は答えました。「私には夫はありません」。するとイエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには5人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」と会話は進みます。
彼女には5人の夫があったというのは、当時の結婚制度によるものだと考えられます。子が生まれずして夫が亡くなった場合、その兄弟が彼女をめとって子をもうけるのが当時の慣例です。この制度は、亡くなった夫の家系を絶やさないことと、夫を失った婦人の救済を目的とするものでした。戦争や病気などで夫が亡くなるようなケースが重なれば、彼女のように5人の夫をもつこともあり得ました。
そのような経歴は、彼女の心に深い傷を残したことでしょう。そのことで、彼女の心は固くなっていても不思議ではありません。しかし、イエスはあえてその部分に語りかけられました。
神の御言は、私たちの隠しておきたい、頑(かたく)なになっている部分に鋭(するど)く切り込んで行きます。岩盤の心を切り裂いてこそ泉が湧き上がるからです。それを突き抜けなければなりません。井戸を掘り進めて岩盤を突き抜けて水脈に到達すると水がわき出てくるように、私たちの心の岩盤を突き破る作業が必要です。
イエス様は彼女の〝心の井戸掘り〟をしてくださったのです。心の井戸掘りの道具はスコップやドリルではなく神の御言です。神の御言は生きており、力を発揮し、両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです(ヘブル4・12)。
神の御言は、傷ついた心をいやし、かたく閉ざした心を開きます。イエス様は彼女になさったように、今日も、御言をもって、私たちの心の井戸掘りをしてくださいます。
かたい岩盤にぶつかって、そこであきらめてしまいますか。
いのちの泉の水脈がすぐそこまで来ている人もいれば、まだ掘り続けなければならない人もいます。いずれにせよ、神の御言を信頼して聖書を読み続けることにしましょう。
◆◆◆◆◆
サマリヤの婦人はイエスがキリストだと確信して、それを知らせるために町へ戻って行きました(4・28~29)。井戸に水を汲みに来たのに、水瓶を置いたままです。それほどに、彼女の心に湧き出た泉は彼女の渇きをいやしたのです。
この婦人と入れ違いで、昼食を調達するために町に出かけていた弟子たちが戻ってきました。「先生、召し上がってください」と手渡すと、イエス様は「わたしには、あなた方の知らない食物がある」と言われました(32)。イエスはお茶目な方だなぁと思います。弟子たちの驚く様子を、いたずらっぽく微笑(ほほえ)みながらご覧になっている姿が思い浮かびます。
食べ物といえばパンとかおにぎり、パスタにラーメン。数ある食物の中で、まだだれも知らない、とっておきの食物をわたしは食べているんだと言われれば、がぜん興味がわきます。えっ、どんな食べ物なのだろう。グルメ好きの人々もアッと驚く食物とはいったい何でしょう。「わたしの食物というのは、わたしを遣わされたかたの御心を行い、その御業を成し遂げることである。」(34)
うん、なんですか?。腹の足しにもならないじゃないですか。それは、「人はパンだけで生きることができる」と思っている人の反応です。パンは肉体を生かす食物です。でも、心と霊を生かす食物は何ですか。それがあってはじめて人は生きるのです。
目先の利益を得るために魂を売ってしまうことがあります。不正だと知りつつ手を出してしまう。すると、金銭やパンは得ても、良心がさいなまれて魂が死んでしまう。肉体は生きていても霊魂は死んでしまいます。
だから、人が生きるためには、心(霊魂)が生きなければなりません。つまり霊魂のいのちです。霊魂が生きるための食物は「神の御言」です。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出ることばによって生きる」のです。
神の御言は換言すれば「神の御心」です。神は私たちに向かって、「このように生きてほしんだ」と、ご自身の切なる願いを語りかけてくださいます。その語りかけが「御言」です。ですから、神の御言には御心がギュッと詰まっています。イエスが言われた「わたしの食物」とはこれだったのです。それは、私たちにも必要な食物です。
イエスに与えられた御心とは何だったのでしょうか。それは、キリストとして歩むことです。人々に愛をあらわし、愛の究極としての十字架の死をとげることです。つまり、十字架で死ぬことが、イエスが生きるための食物だというのです。何という逆説。そして真理でしょうか。
さあ、私が生きるための食物は何ですか。私に与えられた御言を行うことです。私に与えられた父の御心を成し遂げることです。そのために、私もあなたも世に遣わされたのです。
たとい、それがキリストのように死に至ることであったとしても、その〝食物〟によって私たちは永遠に生きるのです。
ヨハネ福音書では、「水」がたびたび登場します。第2章では、カナの婚礼において、瓶(かめ)に「水」をいっぱい満たしたとき、水が葡萄酒に変えられました。第3章では、人が新しく生まれるのは、「水と霊」によるのだと語られました。
そして、今日の第4章では、ヤコブの井戸に「水」を汲みにやってきたサマリヤの女性とイエス様とのやり取りが記録されています。
イエス様は、水を汲みに来た婦人に、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が、湧き上がるであろう」と語りかけられました(4・14)。
これを聞いた婦人は、イエスが与える「水」とは、文字通りの水だと思ったようで、「今後、この井戸に汲みに来なくてもいいように、その水をください」と申し出ました(15)。
ヨハネ福音書で語られる「水」とは、御言のこと、あるいは御言によって生じる霊的ないのち、そして聖霊をあらわしています。いずれも霊的な事柄です。
肉体の渇きに水が必要なように、心の渇き(霊魂の飢え渇き)には御言という〝水〟が必要です。神からの霊的な食物や飲物が必要です。
イエス様が与えてくださる御言を飲む者は、いつまでも渇くことがありません。それだけではありません。その人の内側が泉のようになって、そこから永遠のいのちに至る水がわき上がるのです。イエス様からの水を受けるだけでなく、私の内側から、他者を潤すことのできる水が湧き出てくるのです。彼女はそれを求めました。
どうでしょうか。私たちの内側からどんな泉が湧いてますか。
渇きが満たされないばかりか、苦い水が湧き上がる泉があります。不平や愚痴といった苦い水は、自分も周りの人も汚す水です。良くないと知りつつも、泉なので湧き上がってきます。押さえ込むことができません。湧いてこないように塞ぎましょうか。
唯一の解決は、イエスが与える水(御言)を飲むことです。そうするなら、その人の内で泉となって、永遠のいのちにいたる水(言葉)が湧き上がるのだと約束されています。
悪い水を出さないようにと、口先でコントロールしても一時的です。問題は「泉」です。永遠のいのちに起因する泉を持っているかどうかが問題です。先の3章で取り上げた「永遠のいのち」とは、そのような泉のことです。
内なる泉から湧き出る水が、人を活かす言葉となって出てきますか。それとも、人を悩ます言葉となって出てきますか。それは泉の問題です。イエス様は、いのちをもたらす泉を与えてくださるのです。
さて、サマリヤの女性はそのような泉を求めたのですが、イエスは、「あなたの夫を連れてきなさい」と言われました。イエスの返答は唐突(とうとつ)です。いのちの泉と何の関係があるのですか。
実は、いのちの泉が湧き上がるために、イエス様は彼女の心の闇にふれる必要があったのです。彼女の隠しておきたい心の闇に、主は御言を投げかけられたのです。
人の心は、隠しておきたいこと、ふれられたくないことによって、固くなっています。井戸掘りをすると固い岩盤にぶちあたるように、心の泉が湧き出るために掘り進むと、この心の岩盤に突き当たります。でも、それを突き破れば泉が湧き出てきます。
さて、イエスの質問に対して、彼女は答えました。「私には夫はありません」。するとイエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには5人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」と会話は進みます。
彼女には5人の夫があったというのは、当時の結婚制度によるものだと考えられます。子が生まれずして夫が亡くなった場合、その兄弟が彼女をめとって子をもうけるのが当時の慣例です。この制度は、亡くなった夫の家系を絶やさないことと、夫を失った婦人の救済を目的とするものでした。戦争や病気などで夫が亡くなるようなケースが重なれば、彼女のように5人の夫をもつこともあり得ました。
そのような経歴は、彼女の心に深い傷を残したことでしょう。そのことで、彼女の心は固くなっていても不思議ではありません。しかし、イエスはあえてその部分に語りかけられました。
神の御言は、私たちの隠しておきたい、頑(かたく)なになっている部分に鋭(するど)く切り込んで行きます。岩盤の心を切り裂いてこそ泉が湧き上がるからです。それを突き抜けなければなりません。井戸を掘り進めて岩盤を突き抜けて水脈に到達すると水がわき出てくるように、私たちの心の岩盤を突き破る作業が必要です。
イエス様は彼女の〝心の井戸掘り〟をしてくださったのです。心の井戸掘りの道具はスコップやドリルではなく神の御言です。神の御言は生きており、力を発揮し、両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです(ヘブル4・12)。
神の御言は、傷ついた心をいやし、かたく閉ざした心を開きます。イエス様は彼女になさったように、今日も、御言をもって、私たちの心の井戸掘りをしてくださいます。
かたい岩盤にぶつかって、そこであきらめてしまいますか。
いのちの泉の水脈がすぐそこまで来ている人もいれば、まだ掘り続けなければならない人もいます。いずれにせよ、神の御言を信頼して聖書を読み続けることにしましょう。
◆◆◆◆◆
サマリヤの婦人はイエスがキリストだと確信して、それを知らせるために町へ戻って行きました(4・28~29)。井戸に水を汲みに来たのに、水瓶を置いたままです。それほどに、彼女の心に湧き出た泉は彼女の渇きをいやしたのです。
この婦人と入れ違いで、昼食を調達するために町に出かけていた弟子たちが戻ってきました。「先生、召し上がってください」と手渡すと、イエス様は「わたしには、あなた方の知らない食物がある」と言われました(32)。イエスはお茶目な方だなぁと思います。弟子たちの驚く様子を、いたずらっぽく微笑(ほほえ)みながらご覧になっている姿が思い浮かびます。
食べ物といえばパンとかおにぎり、パスタにラーメン。数ある食物の中で、まだだれも知らない、とっておきの食物をわたしは食べているんだと言われれば、がぜん興味がわきます。えっ、どんな食べ物なのだろう。グルメ好きの人々もアッと驚く食物とはいったい何でしょう。「わたしの食物というのは、わたしを遣わされたかたの御心を行い、その御業を成し遂げることである。」(34)
うん、なんですか?。腹の足しにもならないじゃないですか。それは、「人はパンだけで生きることができる」と思っている人の反応です。パンは肉体を生かす食物です。でも、心と霊を生かす食物は何ですか。それがあってはじめて人は生きるのです。
目先の利益を得るために魂を売ってしまうことがあります。不正だと知りつつ手を出してしまう。すると、金銭やパンは得ても、良心がさいなまれて魂が死んでしまう。肉体は生きていても霊魂は死んでしまいます。
だから、人が生きるためには、心(霊魂)が生きなければなりません。つまり霊魂のいのちです。霊魂が生きるための食物は「神の御言」です。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出ることばによって生きる」のです。
神の御言は換言すれば「神の御心」です。神は私たちに向かって、「このように生きてほしんだ」と、ご自身の切なる願いを語りかけてくださいます。その語りかけが「御言」です。ですから、神の御言には御心がギュッと詰まっています。イエスが言われた「わたしの食物」とはこれだったのです。それは、私たちにも必要な食物です。
イエスに与えられた御心とは何だったのでしょうか。それは、キリストとして歩むことです。人々に愛をあらわし、愛の究極としての十字架の死をとげることです。つまり、十字架で死ぬことが、イエスが生きるための食物だというのです。何という逆説。そして真理でしょうか。
さあ、私が生きるための食物は何ですか。私に与えられた御言を行うことです。私に与えられた父の御心を成し遂げることです。そのために、私もあなたも世に遣わされたのです。
たとい、それがキリストのように死に至ることであったとしても、その〝食物〟によって私たちは永遠に生きるのです。
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