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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

レビ記 12章

2024年04月06日 | レビ記
レビ記 12章
その女はなお、血の清めに33日を経なければならない。
(12・4)


12章は子を出産した婦人についての規定です。出産直後の7日間、さらにその後に33日間、合計40日間、彼女は汚れるとされています。だから、周囲からは隔離されそっとしておかれることになりました。

「血のきよめ」とは出産に伴う出血のことを意味しているのですが、出産を汚れとする意味は何なのでしょうか。

子が生まれることは祝福です。しかし、ダビデは自分の出生について見よ、私は不義のなかに生れました。私の母は罪の内に私をみごもりました(詩51・5)と告白したように、出産はひとりの罪人の誕生でもあります。この幼な子の罪のためにも、やがて神は血を流されるのです。

今は、その子の母親が血を流したわけですが、本物のいけにえの血(イエス・キリストの血)が流されることを思い、自らはしずまる期間が必要であることを意味しているのではないでしょうか。

もちろん、新約の時代の出産は、イエス・キリストの贖いの血が流されましたから、レビ記にある期間を設ける必要はなくなりました。

ただ、レビ記がしめすように、40日間は汚れているとされることによって、安静する期間が設けられたことは、律法がもたらす恵みです。この間、母子共に親しい時間を持ち、産後の肥立ちのための期間となったと思われます。

神の深いご計画と配慮に満ちていることに感謝します。


レビ記 11章

2024年04月05日 | レビ記
レビ記 11章
わたしは聖なる者であるから、あなた方は聖なる者とならなければならない。
(11・45)


神は、イスラエルの民が聖なる民であるようにと求めておられます。その理由は、神が聖なるお方だからです。では、この聖なるとはどういう意味なのでしょうか。

ひとつは罪のない状態のことです。

日ごとに罪をおかしてしまう人間には、到底かなわない要求と思われます。しかし、神は聖なるお方ゆえに、罪人のままでは神に出会うことはできない、神と親しく交わることはできない。これが原則です。

だから、神は、罪を告白し、罪の代価である死、つまり、いけにえの死をもって支払うことで、ゆるしを得られるのだと、レビ記を通して示しておられます。

そして、新約に至っては、イエス様は弟子たちに向かってあなた方はきよいのだと言われました。また、胸を打ち叩きながら罪を悔い改めた取税人にこそ、神から義とされた者だと言われました。さらに、イエス・キリストはそのような罪人たちと、親しく食事をなさいました。

それは、イエス・キリストがご自分の血を注ぎだして、全人類の罪の代価を支払われたからです。このことを信じる者は「聖なる者」と呼ばれます。これが新約の恵みです。

「聖なる」ことのもうひとつは、区別されたことを意味します。

神のために区別する。神のご用のために区別するのです。たとえば、祭司に油を注いで区別しました。彼は、神の働きに用いられるために、人々の中から区別された者です。

幕屋(神殿)の中の器具も、油を注いで区別しました。聖所の燭台を一般の生活用品と兼用はしません。それは、神のために特別に用いるように区別した器だからです。

このようにして、神は、イスラエルの民を他の民族と区別なさいました。イスラエルは神の御心を成し遂げるために用いられる器です。

更に、11章には食物規定が記録されています。それを通して、自分たちは神のために区別された民であるとの自覚を養うためです。汚れた動物を食用とする他民族とは区別されました。

食事は親しくなるためには最適な方法です。しかし、偶像礼拝をする民が常食している物が、神がいう「汚れたもの」であるがゆえに、食事を共にしません。そのようにして、イスラエルが偶像礼拝の民と関わりを深くしないように取り計らわれました。

また、汚れた動物とされているものの中には、不衛生な動物もあります。雑菌の多いものもあります。そのように区別することによって、イスラエルを衛生面でも守ることになりました。

新約の時代に至っては、食物はどんなものでもきよいと主は言われました(マルコ7・19)。あのペテロが見た幻でも、旧約では汚れたとされる動物をほふって食べよと命じられています(使徒10・11~16)

新約の時代における区別は神の御言を食べている者か否かです。さらには、神は、そのような者に聖霊という油を注いで、神のご用のために区別なさっています。あなた方は「聖霊の宮」です。

このように区別された自分自身を、罪のために使って良いはずがありません。それは、神のご用のために使うための器です。


レビ記 10章

2024年04月04日 | レビ記
レビ記 10章
異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので……
(10・1)


大祭司アロンには4人の息子たちがおり、彼らは祭司として任職されたのですが、その内のナダブとアビブのふたりは、主が命じておられない火をささげたのです。

「異火」とか「異なる火」と訳されている火が、どのように神に反する火であったのか、具体的には記されていませんが、この結果、悲しく痛ましい事件が起きました。

「主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ」のです(10・2)

この出来事は何を教えているのでしょうか。まず、いたずらな恐怖心を持たないでいただきたい。新約の私たちには、イエス・キリストによる罪の贖いのゆえに大いなるゆるしが与えられているからです。神は、御子イエスを私たちの罪のいけにえとなさるほどに、あわれみ深く、恵み深いお方です。

と同時に、神は聖であられるお方です。侮ってはならないお方です。このバランスというか、良い意味での緊張感を忘れてはなりません。まさに神の慈愛と峻厳とを見よです(ローマ11・22)

新約の時代と言えども、この程度の礼拝で良いじゃないかと侮ったり、不敬虔な態度は、アロンの子らがささげた「異火」とは言えないだろうか。

私たちは、心をつくし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛する結果としての礼拝をささげたいと願います。それが、御子イエスをも惜しまずにお与えになった神への真摯な応答です。

アロンの息子たちに、思い上がりはなかっただろうか。自分たちは祭司だ、他の人々にはない聖なる立場ゆえに傲る思いはなかっただろうか。

この事件の後、神はあなたも、あなたの子たちも会見の幕屋に入る時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなた方が代々永く守るべき定めとしなければならないと命じておられることから、先の者たちは飲酒ゆえに失敗したのかも知れません(10・9)

こうして、神は、最初の痛ましい事件を通して、神が聖であるお方であるがゆえに、私たちも聖なる者となるようにと教えられました。これはあなた方が聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるためであると言われます(10・10)。これはレビ記のテーマです。


レビ記 9章

2024年04月03日 | レビ記
レビ記 9章
これは主があなた方に、せよと命じられたことである。こうして主の栄光はあなた方に現れるであろう。
(9・6)


7日間の祭司任職式を終え、ついにアロンとその子らは祭司職の任務に就きました。ひとつひとつ丁寧に、主が命じられたとおりのいけにえを献げ、種々の儀式を成し遂げました。

このようにするのは、主がこの幕屋(神殿)に神のご臨在を現すためです(9・4)神の命じられた礼拝をささげるのは、そこに主の栄光が現れるためであると、御言は述べています。

思い出していただきたいのですが、神がイスラエルの民をエジプトから呼び出された目的は何でしたか。それは、彼らをして、まことの礼拝者とするためです。そのような礼拝者たちによる御国を完成しようと、神は願っておられます。

旧約の時だけの話ではありません。新約に至っても、天の父はまことの礼拝者たちを求めておられるとイエス様は言われました。新約のクリスチャンたちも、この目的のためにこの世から 〝出エジプト〟して、まことの礼拝者となるべく天に向かって旅をしている道中です。

この神の御心は聖書に一貫して流れる重要なテーマです。

まことの礼拝者として神を礼拝し、神に近づき、神が共に住まわれる御国を完成するために、その方法を記したのが「レビ記」です。どのように神を礼拝すべきなのか、それがこれまでの種々のささげ物に表されていました。

人々はそのようにして、いけにえを献げ、神を礼拝しました。そのような礼拝の中に、神は臨在なさいます。神の臨在を証しするかのように、神の栄光がその場を照らしました。

何と輝かしい情景でしょうか。何と驚くべき光景でしょうか。ですから人々はこれを見て喜びよばわり、そしてひれ伏したのです(9・24)

新約の私たちはどのような礼拝をささげているでしょうか。私たちが罪を告白し、きよめられ、心からの献身をもって礼拝する時、神は、そのような礼拝のただ中に住まわれるのです。

主が共におられる恵みを感じられる礼拝をささげよう。主が共におられて、私たちに親しく語りかけ、ふれてくださり、いやしてくださる……そんな礼拝をささげよう。まことの礼拝者となろう。


レビ記 8章

2024年04月02日 | レビ記
レビ記 8章
モーセはこれをほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指とにつけた。
(8・23)


第8章はアロンとその子たちを祭司として任職した記録です。7日間にわたって任職式は執り行われ、水の洗い、祭服の着用、種々のいけにえと式は進みました。

その中で、いけにえの血が祭壇の周囲に注がれたり、祭服に振りかけられたり、そして冒頭の聖句のように、祭司たちの体の一部にも血を付けるようにと命じられています。

血はきよめを意味します。水が表面のよごれを洗い流すように、血は内面のよごれ、つまり罪を洗い清めます。なぜなら、血は、罪の代価としていのちがささげられたしるしであるからです。

聖書は「血の記録」です。

動物の血が記録されているようですが、それはやがて実現される神の血を表しています。神は、ご自分の血を流すために、旧約の時代から準備なさいました。こうして、神の血は、ついに御子イエス・キリストによって世に顕されました。

さて、旧約では動物の血ではありますが、その血を祭司たちの右の耳と右手の親指と右足の親指に付けることによって、祭司の働きをきよいものとなさいました。 ※「右」は権威とか力の象徴である。だから、右をきよめたなら左もきよめたのと同じ意味。

新約時代の祭司であるクリスチャンも、イエス・キリストの血によって耳をきよめられました。それは、神の御言を聞くことができるようにするためです。罪の言葉、悪意のある言葉ではなく、神の御言を聞かなければなりません。

また、右手の親指がきよめられて、神のご用をするようになさいました。右足の親指もきよめて、私たちが聖なる道を歩むようになさいました。私たちの体を聖なる働きのためにささげるためです。こうして「あなた方の肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい」が実現します(ローマ6・13)


レビ記 7章

2024年04月01日 | レビ記
レビ記 7章
あなた方はすべてその住む所で、鳥にせよ、獣にせよ、すべてその血を食べてはならない。
(7・26)


種々のささげ物の中で、すべてを焼いて神にささげるものもあれば、指定された部位を神にささげ、残りを「祭司や奉献者たちが食する」ことになっているものもありました。

その食事において血を食べてはならないと厳しく戒められています。血は特別なものです。血についての論証は本章だけでは語り尽くせません。

そんな規定がある中で、主イエスは、ご自分の血を飲めと言われたことは驚きです。

わたしの血はまことの飲物。わたしの血を飲まなければ永遠のいのちはないという主の御言を聞いた当時のユダヤ人たちは、とんでもない話しであったに違いありません。だから、その説教を機に、多くの弟子たちはイエスのもとを去りました(ヨハネ6章)

しかし、まことの血をもって贖いを成し、救いを完成するために血を流すことをご計画なさった神は、その血の計画が成就するまでは、むやみに血を食したり、汚してはならないことを教えられたのでしょう。

今、私たちは、尊い神の血で救いを得ました。この血を受けよ、この血を飲めと言われたイエス・キリストの交わりの中に導かれました。このお方の血の尊さ、きよさをわきまえなければなりません。


レビ記 6章

2024年03月23日 | レビ記
レビ記 6章
祭壇の上の火は、そこに燃え続かせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、たきぎをその上に燃やし、燔祭をその上に並べ、また酬恩祭の脂肪をその上で焼かなければならない。
(6・12)


レビ記は幕屋(神殿)で仕えるレビ人や祭司たちの働きを規定していますが、これは自分とは無縁の遠い昔のことのように感じられるかも知れません。

しかし、新約の時代において、イエスを信じる者は祭司であると教えています。

この主のみもとにきて、あなた方も、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを献げなさい(Ⅰペテロ2・5)

こういうわけですから、レビ記は私たちと密接な関係があることになります。もちろん「霊のいけにえ」と言っているのですから、文字通りの動物や穀物を献げるのではありませんが……。

レビ記6章からは、先の「ささげ物」に関して更に詳しく、かつ祭司がどのように献げるべきなのかを規定しています。冒頭の聖句は、各ささげ物を焼くための祭壇の火について規定しています。

その火を絶やしてはならない、消してはならないと命じています。

この「消してはならない火」は、もうひとつ、聖所の中にある燭台の灯火も同じく「消してはならない」と命じられています。両者は同じ「火」ではありますが、役割が異なります。 ※聖所の火は24章で考察。

第6章の祭壇のはいけにえを焼く火のことです。いけにえを捧げ続けることを意味していると思われます。おのれの〝肉〟を焼く火であり、また、罪の悔い改めの告白をささげる火を絶やさないとです。

私たちの自我とか肉を神にささげることは、1回限りでは終わりません。日々のことです。「日々、おのが十字架を背負って従え」と主は命じられましたが、肉の思いを十字架につけて葬ることの連続です。

また、罪の悔い改めも、1回限りでは終わりません。日ごとに罪を告白し、それを神の火で焼きつくして頂かなければ、生きて行くことができません。

そんな祭壇の火を燃やし続けることができるよう、聖霊の油を注いで頂こう。


レビ記 5章

2024年03月22日 | レビ記
レビ記 5章
もしこれらの一つについて、とがを得たときは、その罪を犯したことを告白し……、
(5・5)


先の4章に続き罪祭と愆祭についての規定です。罪祭と呼ばれる「罪のためのいけにえ」は、知らずにおかした罪、無意識に犯してしまう罪のためのいけにえです。根っ子の罪(原罪)のためです。それに対して、愆祭と呼ばれる「罪過のためのいけにえ」は、自覚的な罪、行為の罪についてのいけにえです。

さて、5章では冒頭の聖句が教えるように罪の告白を命じています。

新約聖書でも同様に命じています。もし私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義から私たちをきよめてくださるのです(Ⅰヨハネ1・9)

いけにえを献げたら罪は解決するのでしょうか。そんなことはありません。自分の罪を認め、自分の口で告白することが、罪に勝利する大切な道です。

ある日、交通違反で違反切符を切られたことがありました。しぶしぶ反則金を納入しました。納入金を納めたのですから、交通違反の罪に問われることはありません。でも、自分の中には「運が悪かった」とか、「何もあんな所で取り締まりをやらなくても良いじゃないか」とか不平不満や自己正当化がくすぶっていました。こんな状況では、罪が本当に解決したことにはりません。違反したことをイエス様に告白しました。傲った運転や態度を悔い改めました。もっと大きな事故や罪をおかす前に、神が警告を与えてくださったことに感謝しました。

するとどうでしょうか。イエス様は真実な神です。私の心の暗やみを照らし、きよめ、本当のゆるしを実感させてくださいました。罪からの解放を味わいました。

このように、罪の告白は重要です。イエスはすでに罪の代価の支払いを済ませてくださいましたが、それは罪の解決の半分です。自分の罪を認めて告白することは真の解決になります。

告白……それは口を開くことです。口を開くことは心を開くことにつながります。心を開くと、神の栄光の光が、罪によって汚された心の暗やみを照らし、きよめます。これは大切なことです。


レビ記 4章

2024年03月21日 | レビ記
レビ記 4章
もし人があやまって罪を犯し、主の戒めにそむいて、してはならないことの一つをした時は次のようにしなければならない。
(4・2)


第4~5章では、罪祭罪のためのいけにえと、愆祭罪過のためのいけにえの記録です。

罪をおかしたなら、罪のゆるしを得るために「いけにえ」を献げるよう命じられています。しかも、冒頭の聖句がしめすように気がつかないでおかした罪も指摘しています。

罪は、何かしらの支払いを要求します。これは罪に伴う原則です。

その支払いが滞ってしまうと、支払い額はふくらんでしまいます。イエス様がたとえ話で語られたように、王からの借金が「1万タラント」にまでなってしまった男のようになります。

王は、この男に対して借金を返済するよう命じます。つまり、罪は必ず代価を支払わなければならないことを示しています。こうして遂に、罪の支払う報酬は死であるという結論に至ります。

旧約の時代は動物のいけにえを献げましたが、遂に、新約の時代にいたって、本物のいけにえ、究極の一回限りのいけにえとして、イエス・キリストが十字架で献げられました。

このお方が罪の支払う報酬である「死」を支払ってくださったがゆえに、私たちは罪のゆるしを受けることができています。もはや、動物のいけにえを献げる時代は終わりました。


レビ記 3章

2024年03月20日 | レビ記
レビ記 3章
もし彼の供え物が酬恩祭の犠牲であって、牛をささげるのであれば、雌雄いずれであっても、全きものを主の前にささげなければならない。
(3・1)


第3章は酬恩祭とか和解のいけにえと呼ばれるささげ物についての規定です。名がしめす通り、神との親しい交わりを感謝して献げるいけにえです。

「和解」……何という素晴らしい言葉でしょう。

人類に最も必要なこと、それは「和解」です。人間同志の和解もそうですが、それ以上の神との和解です。神は、私たちに和解のいけにえ(酬恩祭)を献げるよう命じておられます。

その初めとして、神が、まず最初に、ご自分の御子イエス・キリストを、和解のいけにえとしておささげになりました。聖書はこう記しています。

すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、私たちに和解の福音をゆだねられたのである。(Ⅱコリント5・19)

この和解のいけにえ(酬恩祭)が、先の全焼のいけにえ(燔祭)と違うのは、脂肪と一部の内臓を焼いて神に献げるのですが、その残りを祭司や献げた者たちが共に食する点です。

和解の喜びを食事をもって表したのです。

あなたは神との和解を得ているでしょうか。和解を得るようにと、イエスは戸の外に立ってノックなさっています。扉を開けてお迎えするなら、主はあなたと親しく食事をなさると言われます。

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。(黙示録3・20)

今度は、私たちが、和解のいけにえとなって人々との橋渡しをする順番です。神から私へ、私から隣人へと、和解の福音が広げられて行く事こそ、私たちの献げる和解のいけにえです。


レビ記 2章

2024年03月19日 | レビ記
レビ記 2章
あなた方が主にささげる素祭は、すべて種を入れて作ってはならない。
(2・11)


第2章は素祭と呼ばれるささげ物についての規定です。

口語訳の「素祭」より新改訳の穀物のささげ物が分かりやすいでしょう。先の燔祭が動物を献げるのに対して、この素祭は穀物です。ただし、穀物をそのまま献げるのではなく、麦粉にして献げました。

素祭(穀物のささげ物)には幾つかの特徴があります。麦粉を焼いてパンにして献げる場合、種を入れてはならないのです。この種とは「パン種」のことで、酵母菌(イースト菌)のことです。

昔は酵母菌を単体で保存する方法がありませんから、酵母菌で発酵させた小麦粉の団子状のものを保存し、それを「パン種」と呼んだのです。それを少しちぎって新しい麦粉に混ぜて発酵させて焼くのが一般的なパンです。

しかし、神へのささげ物の場合、このパン種を入れてはならないと命じられているのはどういう意味なのでしょうか。

聖書ではパン種を象徴しています。最初の人アダムの罪によって、それが全人類の罪として広がったように、麦粉の中に小さなパン種が入ると、パン全体に影響を及ぼして全体をふくらませるのと似ているからです。

素祭(穀物のささげ物)にパン種を入れないのは、罪のない自分自身を神に献げることを表していると言えるでしょう。

とはいえ、罪のない自分などあり得るのでしょうか。あり得ます。それは「イエス・キリストにあって」です。イエス様の十字架の血潮によって私たちの罪はきよめられました。そのあなたを神に献げよ……と、神はお命じになるのです。

過越しの祭はイエス・キリストの十字架の死を預言した祭であったことは既に見てきたとおりです。過越しの小羊であるイエス様の死によって、私たちの罪はきよめられるのです。

この過越しの祭からはじまる7日間の祭は何という祭かご存知でしょうか。それは「除酵祭」とか「種なしパンの祭」と呼ばれる祭です。この祭ではパン種を入れないパンを献げ、パン種の入っていない煎餅のようなパンを食べて祝います。過越祭で罪をきよめられたなら、種なしパンを献げるのです。ですから聖書は次のように記しています。

あなた方は、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。私たちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、私たちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。(Ⅰコリント5・6~8)

私たちはイエス・キリストにあって「パン種のない者」なのです。そればかりか、聖霊なる神が内住なさっています。レビ記の素祭に関する規定はさらにこう述べています。

あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない(2・13)あなたはそれに油を加え、その上に乳香を置かなければならない。これは素祭である(2・15)

「油を加え」とは聖霊のことを表していると考えられます。「乳香」はキリストの香りです。「塩」はきよさです。そのような芳しいささげ物として、おのれ自身をささげる礼拝こそ、まことの礼拝です。


レビ記 1章

2024年03月18日 | レビ記
レビ記 1章
祭司はこれを祭壇の上で、火の上のたきぎの上で燔祭として焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。
(1・17)


レビ記は幕屋(神殿)における祭儀に関する教えから生活規範に至るまでの律法の細目が記されています。テーマは人はいかにして神に近づくことができるかです。

レビとはイスラエル12部族の内の「レビ族」のことであり、彼らは、神の神殿に仕えるべく特別に召された民です。祭司を排出するアロンの家系もレビ族であり、彼らは、神殿の様々な働きを担いました。

さて、第1~5章までは神へのささげ物について記録されています。「ささげ物」にはいくつかの種類があって、①燔祭(全焼のいけにえ) ②素祭(穀物のささげ物) ③酬恩祭(和解のいけにえ) ④罪祭(罪のためのいけにえ)等です。

第1章では燔祭とか全焼のいけにえと呼ばれるささげ物についての記録です。

このささげ物は雄牛とか小羊、やぎ、鳩などの動物を焼いて、その芳しい香りを神に献げるもので、礼拝を意味しています。自分自身を神へのささげ物とする献身を意味しています。この燔祭(全焼のいけにえ)は「贖罪の日」などの重要な祭で献げられました。

燔祭全焼のいけにえの特徴は、火をもって完全に焼いて燃してしまうことですその結果、芳しい香りが天にのぼり、その香りは主へのなだめの香りとなりました。

このような祭儀は旧約の時代のものであって、新約では動物を献げることはありません。なぜなら、イエス・キリストによってその意味するところは成就したからです。

ですから、新約の私たちは、全焼のいけにえ(燔祭)の意味するところを、神への礼拝とか普段の生活の中で表して行くわけです。

私たちの神へのささげ物は芳しい香りとなって天に届いているでしょうか。それを考察するにあたって、燔祭が火をもって燃してしまうささげ物であることに注目します。肉や脂肪を焼く芳しい香りが、神へのささげ物となったのです。

旧約の民は動物を献げましたが、新約の私たちは、自分自身が神へのささげ物です。

つまり、献身こそが最高の礼拝です。それはあなた方のからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなた方のなすべき霊的な礼拝であるとある通りです(ローマ12・1)

しかし、それは全焼のささげ物でなければなりません。が焼かれるのですこの「肉」とは、生まれながらの自分中心の生き方のことです。人間中心の思考や動機のことです。

このが聖霊の火によって焼かれ、神中心の思考や生き方へと導かれます。聖なる献身へと導かれます。このような献身こそ、神を満足させる芳しい香りとなって天に届きます。

イエス様が十字架にかかられる前夜、マリヤはナルドの香油をイエスにそそぎ、その芳しい香りは部屋に満ちました。彼女は300万円にもなる香油を惜しげもなく神に献げたのです。

しかし一方で、彼女の献身を批判する声も聞こえてきました。「何という無駄なことをするのか」と。その声は肉なる悪臭を放ったことでしょう。肉の思いは、神へのささげ物を無駄だと言い放つのです。神のことを思わず、人のことを思うのです。

肉の思いを聖霊の火によって焼かれ、芳しい献身の香りを献げることができるように祈ります。新約のクリスチャンこそ、真の燔祭(全焼のいけにえ)を献げる者たちです。