詩篇91:1 いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
今日の詩篇は、神の保護のもとにある幸いを歌っています。その守りは、私たちが神の中に「住む」とか「宿る」と表現されています。
また、保護の理由を、「それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである」(91:9)と説明もされています。
つまり、神を信じるとは、神の中に住むことです。
一般的に日本語の「神を信じる」という表現は、自分の向こう側にいらしゃる神“を”信じるというニュアンスです。信じる自分と、信じる対象の神との間に若干距離があるような気がします。
しかし、聖書のいう「神を信じる」とは、神の中に住むとか宿るという表現です。英語でも、believe in God と言いますが、この場合も前置詞が“in”です。直訳すれば、「神の中に信じる」という意味です。これはギリシャ語でも同じです。
神の中に……ですから、神との距離感は“ひとつ”です。
しかも、今日の聖句のように、「住む」とか「宿る」という表現は、「困ったときの神頼み」的な、一時的に逃げ込むといった意味ではありません。それだと、問題が解決したら、そこから出てふたたび気ままに生きるというわけです。
住むとか宿るとは「生活」を表しています。日常的な交わりのある生活です。お客さんではありません。神の中で生活するのです。神との親しい交わりです。
人間同志の交わりでも、近所づきあい程度のものから、同じ職場の者同士の付き合い、友人としての付き合いもあります。いずれも、交わりの濃度が違います。そして、人間同志の交わりで最も濃いのが夫婦です。
それは、ふたりが生活を共にする交わりです。それはふたりが“ひとつ”になる交わりです。夫婦の交わり……それは、花婿なるキリストと花嫁なる教会との交わりを表す奥義だと聖書は告げています。
まさに、神を信じるとは、その中に住んで暮らして、まさに夫婦のようにひとつとなって行くことを意味しているわけです。
夫婦はひとつであって、何人も引き離してはいけません。神を信じるのも同じです。キリストの愛から私たちを引き離すものは何もありません。
「私は確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38-39)。
このように、神を信じるとは、夫婦のようにひとつになったので、何ものも引き離すことが出来ないのです。
また、夫婦は、喜びも悲しみも共有します。それは妻の責任だから、夫の私には関係ないとは言えません。妻の失敗は夫の失敗であり、妻の喜びは夫の喜びでもあります。なぜなら、ふたりはひとつだからです。
神を信じることもこれと同じです。私の失敗をキリストも共有してくだり、その重荷を共に負ってくださいます。また、キリストの苦難は私の負うべき苦難でもあります。キリストだけに苦労させて、自分はのうのうと暮らすわけには行きません。
神を信じるとは、このように喜びを共にするだけでなく、苦労も共にすることです。聖書はこう言います。「キリストと栄光を共にするために苦労をも共にしている以上、私たちはキリストの共同相続人なのである」と(ローマ8:17)。
このように、神の中に信じ、神の中に暮らす私たちは、苦労があっても、それ以上の愛によって保護されているわけです。(Ω)
詩篇90:3 あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。
人生は自分のもののようで、実はそうではありません。長らえようと思ってのばすこともできず、縮めようと思ってそうできるのでもありません。冒頭の聖句が語っているように、神の御心のままに、「人の子よ、帰れ」と召されれば、地上の生涯を終えなければならないことを告白しています。
それを「はかなさ」というか、「厳粛さ」とでも言ったらよいでしょうか。さらに述べています。
「我らの全ての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、我らの年の尽きるのは、ひと息のようです。我らの齢(よわい)は70年にすぎません。あるいは健やかであっても80年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎ行くことは速く、我らは飛び去るのです」(90:9-10)。
人に与えられたいのちには目的があります。それは、神からさずかった目的です。その目的のために、各自にいのちが与えられ、使命が与えられています。「使命」とは、まさに「いのちの使い方」です。
人の肉体は土の「ちり」から創られています(創世記2:7)。私たちの肉体は土から創られ、その使命が終わると土に帰ります。しかし、肉体が人間の全てではありません。神は、その肉体に「いのちの息」を吹き入れて、人は生きた霊となりました。
この「いのちの息」の息は「霊」を意味する言葉です。その意味を汲み取って、文語訳聖書では、いのちの息を吹き込まれて、人は「生霊」となったと翻訳し、「いけるもの」と読ませています。文語訳聖書が良い訳だと思います。
さて、ですから、肉体の死をもって土に帰るとき、私たちの霊は、それを授けた神に帰って行きます。聖書はこう言っています。「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道12:7)。
このように肉体の死を迎えることは、肉体のある間の使命を終えて、私・霊魂が神のみもとに帰ることです。言い方を変えれば、私たちは肉体という服を着て、神の霊的な働きのために地上に遣わされているわけです。
その働きを終えたと神が判断なさったら、「人の子よ、帰れ」と命じて、その生涯を終えます。ですから、肉体の欲望を満たすために人は生きているのではなく、神の霊的な働きのために、肉体を……限られた地上の生を……授かっているのです。
さて、この詩篇に表題には「モーセの祈り」とつけられていますが、モーセがどんな人生を過ごしたか思い出してみましょう。
モーセは、イスラエル民族をエジプトから連れだし、約束の地カナンに導いた偉大な指導者です。出エジプト後40年をかけて荒野を旅し、ようやくカナンの地を目前に神から召され、その生涯を終えた人物です。
人情としては、ここまで苦労して民を導いた人物が、目指す地に入れないなんて、神さま、ひどいじゃないですか……と思います。しかし、これがモーセに与えられた使命だったのです。
役目を終えた時点で、神は「人の子よ帰れ」と命じて、モーセを召されました。彼には彼の役割があったのです。神のご計画のすべてを、自分ひとりでなしとげることも把握することも出来ません。
それで良いのです。やがて引き継がなければならないのです。
モーセという人物はシナイ山で律法をさずかり、律法を民に教えたことから、彼は律法の象徴です。目指すべき約束の地は、神の国あるいは天の御国の象徴です。
つまり、約束の地を前にしてのモーセの死は、律法によって天に入って行くのではないことを教えているわけです。
モーセから引き継いだ指導者はヨシュアでした。「ヨシュア」とは「イエス」のことです。律法のもとで養われた民は、福音を与えるイエスによって天へと入って行くことを象徴しています。そのことのために、神は、モーセをカナンの手前で召されました。
神の重要な奥義のために、モーセの死さえも用いられました。
私たちの齢(よわい)は、それぞれどれほどの日数があるかわかりませんが、神が「人の子よ帰れ」と言われるまで、その使命を全うし、召されたときは潔(いさぎよ)く主の御許に帰るのだという智恵を持ちたいものです。
だからこう祈っています。「我らにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」と(90:12)。(Ω)