goo blog サービス終了のお知らせ 

あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

穴水城@石川県鳳至郡穴水町川島 令和四年(2022)6月18日

2022-06-30 04:44:58 | 城歩き
お城検索は→こちら

いしかわ城郭カードは→こちら

穴水城跡
天正6年(1578)長連龍宛て、柴田勝家書状の「穴水城」が文字の初見。「長家家譜」によれば八代正連から二十一代長連龍まで約200年余りの長家の居城として知られる。 
 天正4年(1576)より同8年(1580)にかけて幾度か穴水城の攻略奪回が繰り返されたが、同9年(1581)に前田利家が能登に入封し支配権が及ぶ中、領内は安定し、同11年(1583)まで穴水城の存在が確認できるが、その後、時代的役目を終え、まもなく廃城となった。穴水町、、、現地説明板より

場所は石川県鳳至郡穴水町川島
のと里山海道「穴水IC」下車、県道1号線から穴水市内に入り、「金比羅」交差点で国道249号線へ右折します。その先の「小又川」を渡り、「役場前」交差点で左折し再び「小又川」を渡ると「穴水町役場」に突き当たります。橋詰で右折し川沿いに進むと左手に「穴水町歴史民俗資料館」と「長谷部神社」鳥居が見えてきます。


ここは徒歩で登る「神社口ルート」(徒歩15分)の起点でもあります。



ここから城址公園までの道案内マップが資料館でもらえますよ(^^♪



自分は道案内のマップを見ても迷子になりました(;^ω^)
間違ったポイントは「バス停の角を左折」するところでした。これが分かりにくかったんですよ~💦
「穴水高校口バス停」の事で、坂道の住宅街の途中にあります。



林道みたいな山道を登っていくと、終点が穴水城址公園駐車場です。



駐車場には立派な城址碑と現地説明板が建っています。


ここは既に城郭の一部で、主郭の直下に駐車場が造成されているという状況です。

駐車場から主郭への登り口



ここで当日の行程を縄張り図で示します。
佐伯先生著、能登中世城郭図面集より(ブログ管理者加筆)

主郭(図中A郭)は頂上部の東西に楕円形に削平され、東側斜面には段郭が築かれ、南側には二の丸・三の丸が、また東側には一番広い曲輪(図中B郭)が築かれている。
さらに東側にはB郭を見下ろすように階段状に曲輪が連なる。
主な防御施設は東側(現在の城址公園車道方向)に集中しており、北東尾根や南東尾根からの敵の侵入を想定した守りとなっています。




「伝本丸」(図中A郭)
虎口



高台に登ると平坦地が広がる。



伝本丸案内看板



西端の削平地には、現在お墓が建立されています。


同切岸(下段の曲輪方向より)



西端から下段の曲輪方向



西端から一旦駐車場に戻り、伝本丸下の帯曲輪的な通路を南東から西に向かって進みます。




「伝三の丸」
案内看板


削平地



伝三の丸からの眺望
西に開けた斜面からは穴水市街が一望できる。


小又川から穴水湾にかけて、
水上交通の要衝だったことが偲ばれ、穴水港を監視する目的で築城されたことが分かる。



伝三の丸から北に向かって草むらの中を突き進みます。
方向としては伝本丸西端の下にある曲輪を目指しているハズ(;^ω^)



途中「役場口ルート」(徒歩5分)の案内看板がありましたが、藪に包まれ判読できない状況です。少し分け入ってみますと、木立で日差しが遮られた辺りは遊歩道がハッキリわかりました。



その先には階段状に曲輪が連なっていました。



そこから段差を乗り越え上段に登ると、主郭のお墓がある少し東側にたどり着きました。

「B郭」
伝本丸案内看板のある北側から、下段の曲輪に降りてみました。
広大な面積を持つ曲輪ですが、現状は藪です。



一旦駐車場に戻り自動車道路を北上



B郭東側からの全景です。
穴水町による発掘調査の結果、生活用品が出土しており城主一族の居住空間だったと考えられています。




「北東段郭」
城址自動車道路を北上するとB郭の上段、東斜面に段郭があります。
現状は農業資材の小屋が建っていました。


その奥には耕作地が点在しています。



曲輪なのか近年削平された耕作地なのか区別が付きません



上段の曲輪切岸



同削平地
ここは曲輪だったようです。
これらの段郭は大手道、大手虎口と直接接続しており最前線の防衛拠点だったと考えられています。



再び城址自動車道路に戻り城域東尾根の堀切を探しました。
堀切
自動車道路わきの藪の中に切り込みを見つけることができました。
城域の東端尾根を切断する堀切跡です。



堀切の先自動車道路の分岐点
北尾根と東尾根の分岐には現在「健康のみち」の案内看板が建っています。
北尾根と城域の東端を守る郭があったと考えられています。



その向かいにある曲輪
東尾根からの敵の侵入に対応する曲輪があった場所と考えられています。
どちらも自動車道路に面しています。



最後に北尾根の未舗装道路に進んでみました。
ここには北尾根を切断する堀切があるハズです。
北尾根には城域に向かって谷が開いており、その谷の自然地形を巧みに生かして堀切から横堀に利用しているのではないかと感じました。



その先は放送中継所のような施設があり、そこで折り返しました。


ー・ー・ー〔いしかわ城郭カード〕ー・ー・ー

【穴水城】
《穴水港を望む長氏代々の居城》

所在地;石川県鳳至郡穴水町川島
名称(別名);あなみずじょう(白波城)
城地種類;山城
標高/比高;62m/-m
主な遺構;曲輪・土塁・堀・虎口
規模;550m×450m
主な城主;長氏長沢筑前守光国・白小田善兵衛(上杉謙信家臣)・前田利家
時期;南北朝・室町・戦国
文化財区分;町指定史跡
地図;



登城に先立ち、
長家の始祖を祀る長谷部神社に参拝
長家の史料を保管展示している穴水町歴史民俗資料館を訪問
「図録長家史料」を購入しました。
長家の歴史を要約すると以下のようになります。

●長氏の始祖長谷部信連は源平争乱の時代を生き抜き鎌倉御家人に列し、安芸国の検非違使に任じられ所領を得た。やがて信連は能登国大屋庄の地頭職に任じられ能登長氏の礎を築いた。
●鎌倉御家人長氏一門は幕府滅亡、南北朝の動乱の中分裂の危機にあった。
●室町幕府体制の確立後、能登長氏は足利将軍家の奉公衆に列して、能登守護畠山氏の支配から独立的な位置にあった。
●室町幕府体制崩壊による戦国動乱期には、戦国大名化する能登畠山氏の配下に次第に組み込まれるようになり、戦国中期には長続連が畠山氏の重臣となる。
●戦国大名能登畠山氏の権力失墜に伴う重臣七人衆による領国支配体制のなか、外様である長氏が重臣になった背景には、奥能登への関門となる穴水城を中心とした経済力と、周辺小領主層をまとめ上げた強力な軍事力があった。しかし、畠山家臣団内部において譜代の重臣遊佐氏・温井氏らと競合していった。
●天正5年(1577)9月15日上杉謙信による七尾城陥落は長氏一族の殺害をもって終結するが、謙信の能登における最大の標的が織田信長と提携し、畠山家の内部で権力を誇る長氏一派であった。
●長谷部信連から数えて二十一代目の長連龍は、天正8年(1580)9月織田信長から鹿島半郡の領有を認められ、後の加賀藩八家に列する基盤を築いた長家中興の祖である。
織田信長に援軍要請のため安土城を訪れていた長連龍が唯一生き残り、天正6年(1578)8月、羽咋郡富木に入り穴水城を奪還したものの、上杉勢や遊佐・温井・三宅勢に攻撃され、石動山を越え越中氷見に逃れた。以後織田政権の能登攻略に参陣することで父兄の仇討も実現させていく。天正9年(1581)に前田利家が能登に入封してからはその与力大名として活躍、前田氏のもとに重要な地位を確保するに至った。
●前田氏が加・越・能三国に覇権を確立する過程における長連龍・好連父子の戦功は、能登生え抜きの豪族である長家を、加賀藩家臣団中の旧勲名家として定着させ、好連は鹿島半郡三万一千石と能登・加賀の二千石、計三万三千石を宛行れ利家の娘を妻とした。
●独自の領地支配を警戒する加賀藩三代利常により、鹿島半郡を強制的に領地替えで失った長家は藩政に組み込まれ名実ともに加賀藩の家臣となって行った。
●この後も引き続き長家は三万三千石を宛行われ年寄りとして藩政の要に位置し、八家の序次が定められた際には、本多家(五万石)に次ぐ位置に置かれ、長連龍以降十一代にわたり加賀藩の重責を務め幕末を迎えた。

【穴水町歴史民俗資料館】
住所;石川県鳳至郡穴水町字川島ラの197の15
開館時間;4月1日〜10月31日、8:30~17:00
     11月1日〜3月31日、9:00~17:00
休館日;月曜日・国民の祝日・年末年始
入館料金;大人100円
地図:


閲覧注意!! スズメバチトラップ

2022-06-27 23:30:17 | 日記
繁殖期を迎える前にスズメバチの女王蜂を捕獲して、巣を作らせないようにする方法を学びました。

ペットボトルを使った「スズメバチ・トラップ」の作り方は、netでもたくさん紹介されています。

1Lのペットボトルの肩の処に2カ所ほど窓を作ります。


マジックで印をつけてカッターナイフで切れ目を入れ、内・外に折り曲げて蜂が入っても出られないようにします。



ペットボトルの中に1/3ほど、餌となる誘引液を入れます。
誘引液の作り方も検索するといろいろ紹介されていますが、
自分は、砂糖100g:酢100cc:日本酒300ccの割合で作り、じょうごで流し込みました。



仕掛ける場所は庭木の枝、木陰で人の気配が少ない場所。





仕掛ける時期は4月中旬から6月末くらいまで。7月に入ると途端に獲れなくなりました。
餌が発酵して強烈な匂いに釣られてペットボトルの中に入り、出られなくなったスズメバチは餌の液体で溺死するという訳です。


最盛期にはペットボトルを3本ほど仕掛け、1週間で10匹ほど捕獲したこともあります。
最大で4~5㎝もある女王蜂です。



仕掛けてみてビックリ!!
こんなにたくさん身の回りに居たのかと。。。
人知れずひっそりと巣を作って、うっかり近づくと刺されてしまいますよね。
スズメバチは特に獰猛で、刺されるとアナフィラキシー・ショックで死に至ることもあるそうです。


何カ所か場所を変えて仕掛けてみましたが、やはりスズメバチの通り道というか、入る場所と入らない場所にハッキリ分かれます。
それと餌の配合、種類によっても成果に違いが出るようです。

狩猟本能のスイッチが入ったようで、獲れると妙に嬉しくなり、いろいろ改善してみたくなりましたよ


萩城@石川県珠洲市上戸町寺社 令和四年(2022)6月18日

2022-06-27 05:12:23 | 城歩き
お城検索は→こちら

いしかわ城郭カードは→こちら

萩城は飯田城の支城とも考えられており 飯田城の記事は→こちら
永禅寺山の南端部に位置し、内灘街道が眼下を通る交通の要衝である。通称ちんちん堂(白山神社)が鎮座する主郭など6基の円墳で構成される「永禅寺山古墳群」を再利用して築かれている。
城跡には南麓から道が続いており、主郭に鎮座するちんちん堂への参詣道となっている。二つの曲輪(古墳と認識されている)との間にある堀切を渡る土橋が設けられ、大手道をそのまま利用していると考えられる。主郭は南北の尾根を堀切で遮断し、周囲を切岸と急峻な斜面に囲まれている。比較的緩やかな西斜面には主郭の直下に横堀を伴う畝状空堀群があり、同市の飯田城、黒峰城と共に奥能登に侵攻した上杉謙信軍が改修して使用したと推定される城跡である。、、、いしかわ城郭カード添付資料より


場所は黒峰城のすぐ近く 黒峰城の記事は→こちら
国道249号線と並行して山側を走る農免道路・県道280号線沿いにあります。黒峰城分岐からは約900m先、左側から突き出た丘陵の先端部分です。



丘陵の手前に集落に入る農道があり用水路にはガードレールが設置してあります。



資料によると『城跡には南麓から道が続いており、主郭に鎮座するちんちん堂への参詣道となっている。』との事でしたので民家横の山へ登る道を歩き出しました。


途中から谷を挟んだ隣の山に向かっていることに気付きましたが、隣の山にも曲輪があるとの事なのでそのまま直登を試みました。
急な斜面と酷い藪に阻まれ、道なき道をただ上に向かって這い上がって行きました。
何となく尾根の上に登り切った感じですがやはり藪で周りの状況が掴めません。(あとでヤマップの行動履歴と縄張り図で照合したところ、別郭の東端に出たようでした)

これは図中のD曲輪で、
A郭だけでは防備に不安を感じ、同じ「永禅寺山古墳群」の円墳上に追加で築かれた「一城別郭(別郭一城)」のようでもあります。
もう数メートル北の方向に出ていたら曲輪や堀切が見れたものと思われます。



残念ながら、ここで当初の目標である主郭を目指して尾根上を南東の方向に向かいました。



しばらく藪漕ぎを続けると急に崖が見えてきました。



崖を挟んだ対岸には建造物が現れたではありませんか♪
キタ――(゚∀゚)――!!
遂に城跡発見!!




ここで当日の行程を縄張り図で示します。
佐伯先生著、能登中世城郭図面集より(ブログ管理者加筆)



主郭北側、堀切よりD郭方向(図中)



主郭北側堀切からの竪堀(図由③)



主郭西側斜面に刻まれた「畝状空堀群」(図中⑥)
比較的緩やかな西斜面には主郭の直下に横堀を伴う畝状空堀群があり、同市の飯田城、黒峰城と共に奥能登に侵攻した上杉謙信軍が改修して使用したと推定される








主郭南側堀切と土橋(図中②)



土橋と馬出曲輪C




「A(主)郭」
虎口


内側より


削平地



神社遠景
通称ちんちん堂(白山神社)が鎮座する主郭



ちんちん堂(白山神社)
既に廃墟となっています。しかし神棚が遺っていましたので、礼を尽くして参拝いたしました。




南堀切②からB郭への大手道、やはり藪に覆われています。



土橋、B馬出郭



竪堀(図中①)



その先の曲がりくねった参拝道を下ると地上が見えてきます。
最後の藪で足元が見えず、焦って直進したため用水路に転落してしまいました。幸いにも浅い側溝で水量も少なかったため大事には至りませんでしたが、危ないところでした(;^ω^)
ガードレールにしがみついて這い上がりましたよ💦



どうやら逆回りをしたようで、こちらが正式な登り口だったんですね。
ガードレールの切れ目のところに山に入るため、用水路に橋が架かっていました。




6月18日(土)に珠洲市を訪れ、翌日の19日(日)に発生した震度6弱の地震を一日違いで免れましたが、被災した皆さんに心よりお見舞い申し上げます。
あみの3ブロブ管理人 あみの3



ー・ー・ー〔いしかわ城郭カード〕ー・ー・ー

【萩城】
《古墳に築かれた越後上杉氏の城》



所在地;石川県珠洲市上戸町寺社
名称(別名);はぎじょう
城地種類;山城
標高/比高;40m/-m
主な遺構;曲輪・堀・土塁・土橋
規模;180m×60m
主な城主;越後上杉氏
時期;戦国
文化財区分;市指定史跡
地図;


黒峰城@石川県珠洲市宝達町春日野 令和四年(2022)6月18日

2022-06-25 08:27:10 | 城歩き
お城検索は→こちら

いしかわ城郭カードは→こちら


黒峰城は珠洲市最高峰の宝立山に占地する。宝立山は宝峯山、宝立山(丸山)、黑峯山の三峰から成り、うち黑峯山の山頂部に築かれている。古来より内灘と内陸集落を結ぶ黒峰往還、法住寺道、柏原道、白米坂道、南山道が交差する交通の要衝で、すべての道が城域に接するように通り、人馬の往来を監視していた。
 城主は宝立山周辺に拠点を持っていた豪族阿部判官義宗と伝わるが謎が多い。天正中期には上杉謙信の武将由井浄定が置かれたが、織田方の前田利家に攻められて落城したと言われている。
 主郭西側の斜面に七つ塚と呼ばれる場所があり、本城落城時の死者を弔ったとか、金品・武具を埋納した塚などという伝承があり、たびたび盗掘されて現状を留めていない。ここは畝状空堀群という上杉氏城郭で多用された防御施設で、上杉氏が奥能登を制圧していた天正5~8年(1577~80)頃に築城された可能性が高い。
 主郭は土塁で囲まれ南北に虎口が設けられている。単純な平虎口だが防御を高めるために櫓台を併設している。
 城跡からは法住寺がある東方の飯田湾周辺を望むことができ、天候の良い日は珠洲を代表する見附島(軍艦島)が見える。、、、石川城郭カード添付資料より


場所は石川県珠洲市宝達町春日野
のと里山海道「のと里山空港IC」下車、県道303号線を珠洲方向に走る。途中「のと里山空港」「道の駅桜峠」「花の寺・平等寺」などを過ぎると、「松波」分岐があるがこれを直進する。いよいよ珠洲市に入ると国道249号線に合流するので珠洲・飯田方向に北上。国道249号線は「金峰寺」交差点で分岐して海岸回りとなるが、直進して249号線と並行して走る山側廻りの道を進む。川を渡って約1.4㎞先の県道280号線を左折。ここには「珠洲市一般廃棄物埋め立て処分場」の看板があります。



分岐から約4㎞先の埋め立て処分場までは、舗装された一本道なので迷うことはありません。



途中、風力発電の巨大な扇風機wが目の前に現れビックリしますが、宝立山系にはこうした風力発電機がたくさん設置されています。(のと里山空港街道からも見えます)



最後の風力発電を過ぎると県道280号線は一気に狭くなり、林道の様相を呈します。



程なくカーブミラーのところに「黒峰城跡入り口」の碑がみえてきました。道の脇に僅かな退避場が設けられており駐車することができます。



反対側から見ると、今通り過ぎてきた風力発電施設が見えます。



案内看板から先は一面の藪、一歩を踏み出すには相当の勇気が必要です💦



藪を抜けると、ここは整備された街道だったことに気付きます。
古来より内灘と内陸集落を結ぶ「黒峰往還」です。



登り始めて10分、上戸知ろう会により設置された「黒峰城登り口」分岐に差し掛かりました。
右は「黒峰往還」
左は城跡に至るルートです。



途中には急な山道が続きロープが設置されていますが、これも同会によるものでしょうか。ありがたいことですね。



分岐から約3分、いよいよ城跡に到着。


ここで当日の行程を縄張り図で示します。
佐伯先生著、能登中世城郭図面集より(ブログ管理者加筆)

城の南東側から侵入し、B郭(図面中)からA(主)郭へ、さらに北側の曲輪を抜け切岸を下って、西側の「法住寺道」を通り畝状空堀群からB郭に戻るという、緑色の矢印と線で描いた見学ルートです。




「B郭」

登城道からB郭に取り付くとすぐに窪みがありました。
ここは城の南東端にあたります。
井戸跡



井戸跡と登城道



B郭は主郭Aの南側に位置し主郭より面積は広く、湾のように開いた西側の谷筋を通る「法住寺道」と接しています。
平坦面



上段平坦面



城址碑



土塁



黒峰城跡からの唯一の眺望
B郭南端



天候の良い日は珠洲を代表する見附島(軍艦島)が見える。→こちら

地平線中央の高層ビルのような突起物が「見附島(軍艦島)」
6月18日(土)に訪れましたが、翌日の19日(日)に発生した震度6弱の地震で一部が崩落し、現在は島に近づくことはできません。
一日違いで被災は免れましたが、山城で土砂崩れに遭遇したらと思うとゾッとします。


宝達山系に設置された風力発電




「A(主)郭」

主郭下南側小曲輪






南側虎口



南虎口櫓台



東面土塁



北側虎口



北側虎口櫓台




北端切岸



北端に築かれた堀切



街道分岐
古来より内灘と内陸集落を結ぶ黒峰往還、法住寺道、柏原道・白米坂道・南山道が交差する交通の要衝で、すべての道が城域に接するように通り、人馬の往来を監視していた。



ここから主郭下西側の法住寺道を通って折り返します。




「畝状空堀群」(図面⑧)
主郭西側の斜面に七つ塚と呼ばれる場所があり、本城落城時の死者を弔ったとか、金品・武具を埋納した塚などという伝承があり、たびたび盗掘されて現状を留めていない。
ここは畝状空堀群という上杉氏城郭で多用された防御施設です。







南西曲輪
ここに木戸を設けて関所の機能を持たせ、法住寺道を通って南下する敵を畝状空堀群で強制的にここへ誘い込み、上段の主郭や副郭から狙い撃ちしたとものと考えられているそうです。



南西尾根堀切



竪堀




奥能登における畝状空堀群は上杉方だった
「飯田城」やその支城と思われる
「萩城」
にしか存在しない貴重な遺構です。



6月18日(土)に珠洲市を訪れ、翌日の19日(日)に発生した震度6弱の地震を一日違いで免れましたが、被災した皆さんに心よりお見舞い申し上げます。
あみの3ブロブ管理人 あみの3


ー・ー・ー〔いしかわ城郭カード〕ー・ー・ー

【黒峰城】
《阿部判官義宗が居城した能登内陸交通の要衝》



所在地;石川県珠洲市宝達町春日野
名称(別名);くろみねじょう
城地種類;山城
標高/比高;436m/360m
主な遺構;曲輪・土塁・堀・虎口
規模;230m×130m
主な城主;阿部判官義宗、由井浄定(上杉謙信家臣)
時期;南北朝・戦国
文化財区分;
地図;


ケロンの小さな村 能登空港(のと里山空港)2022年6月18日

2022-06-18 23:56:20 | ネイチャー・旅行・まつり
2022年6月18日
気になっていた【ケロンの小さな村】を訪ねてみました。
県道275号線を走っていると幟が立っています。ケロンってなんやろ?
webページは→こちら







手作りピザとパン









住所;〒928-0324 石川県鳳珠郡能登町斉和た26
地図;



【能登空港(のと里山空港)】






住所;〒929-2372 石川県輪島市三井町洲衛10−11−1
地図;

虚空蔵山城@石川加権能美市和気町 令和四年(2022)6月4日

2022-06-14 04:49:59 | 城歩き
お城検索は→こちら
いしかわ城郭カード→こちら

虚空蔵城跡(こくぞうじょうせき)は、標高137mの虚空蔵山の頂上から尾根伝いにつくられた山城です。和氣山城ともよばれ、数々の伝説が残っています。一向一揆が始まった文明6年(1474)に加賀の国の守護職を兄弟で争った富樫幸千代(金剛寺幸松)がこの城に立て籠もっていました。同年10月に兄の富樫政親と一向宗に攻められて落城しました。その後加賀の国は、一世紀余り一向一揆で「百姓の持ちたる国」となりました。二度目の落城は、天正8年(1580)織田信長の武将柴田勝家が、家来の佐久間盛政に命じて攻め落としたものです。この時の城主は、一揆の大将荒川市助と中川庄左衛門と言われています。このように虚空蔵城は、一向一揆と運命を共にした象徴的な城でありました。標高137mの頂上部分に周囲に土塁と空堀を持つ通称「本丸」があり、その南側に直線距離で約100m、標高差で約4m低い位置に周囲に土塁と空堀を持つ通称「二の丸」がある本格的な山城です。本丸からは、見晴らしの良い景色が広がり遠くの海まで見渡す頃ができます。能美市、、、現地説明板より

虚空蔵山全景



場所は石川加権能美市和気町
北陸道小松IC下車、県道25号線を左折、すぐ先の「長崎中」交差点で県道54号線へ右折。その先しばらく道なりで市内を抜け、北陸本線・国道305号線・国道8号線・県道22号線を横切り、暫く進むと「能美市立和気小学校」が左手に見えます。その裏山が目的地の虚空蔵山です。




小学校の右隣にある児童公園駐車場に車を停め、



公園と体育館の間にある登城口を目指します。



そこには現地説明板があるので目立っています。



朽ちて倒れた案内板のイラストマップによれば、登城にはいくつかのルートがあるようですね。
この登城道は「大手門の道」と呼ぶようです。



登城道は遊歩道として整備されています。


登り始めてすぐに分岐があります。
大手道から「薬師坂の道」への分岐ですが立ち入り禁止の処置がされています。
(帰路ではこの薬師坂の道へ降りたのですが、最後の最後で体育館裏に降りる道が通行止めとなっており、藪の中を迂回してこの分岐にたどり着きました💦)





登り始めて10分ほどで大手門跡に到着しました。




ここで当日の行程を縄張り図で示します。
佐伯先生著、加賀中世城郭図面集より(ブログ管理者加筆)



大手門跡



見張り台石積み



見張り台からの眺望
南西に開けた一画からは遠く日本海まで見渡せる。



石垣跡(石塁)






二の丸(城郭図面B郭)下の横堀



二の丸と本丸の分岐
城門からの大手道は二の丸を通らず、主郭へ向かっている。なので二の丸は独立した曲輪だと指摘されています。




「B郭」(二の丸)

虎口


土塁



腰曲輪



腰曲輪 堀切



南尾根への道



南尾根堀切



自然地形を活かした堀切



ここで折り返して本丸へ向かいます。
先ほどの分岐を過ぎると堀切があり、尾根の左右を削り込んで土橋にしています。


かなり規模の大きい空堀で、その先には「E郭」があるようです。




「E郭」



この溝は井戸でしょうか?


しかし穴ではなく溝というのはどういう事でしょうか?
堀切でもなさそうですし、謎です



堀切





「A郭」(本丸)
虎口
両側の土塁上に櫓が建って警戒していたと考えられています。



現地説明板



東屋も建設されており、市民の憩いの場となっています



土塁




北尾根 「馬場・搦手口」



黒岩分岐
直径5m以上もある大きな岩が重なっています。



黒岩(金の茶釜伝説)
現地説明板によると、『城主が落城の際に愛用の金の茶釜をこの黒岩の下に埋めたそうです。戦が終わって村人があちこち探しましたが見つからず、一尺土を掘れば一尺釜が沈むと』言い伝えられているそうです。



堀切・土橋





「C郭」(馬場)
虎口


削平地





櫓台



帯曲輪・土塁



竪堀



北尾根



「片谷の道」「サンショ谷」分岐
遺構もないようなので、ここで本丸へ引き返します



帰路は本丸から西側へ降りて行きます。
「本丸虎口の道」



西側の尾根を断続的に三か所に渡って切断した堀切がありますが、自然地形を利用し尾根の谷部を土橋のように痩せさせています。
高低差のある谷部の堀切1


堀切2


堀切3


尾根の谷と山を堀切に見立て、谷の左右に竪堀を施し土橋のように加工し、山部に曲輪を築く。これを連続的につなげるのは、福井県勝山市にある村岡山城の一向一揆が築城した古い縄張りに酷似しています。



「常基寺の道登口」「薬師坂の道登口」分岐


目の前に小学校の体育館が見えるのですが「行き止まり」の警告



止む無く藪の方向へ迂回「大手門の道」



行きついた先は進入禁止の札が付いた、登り始めの分岐点でした。



発掘調査によると、二の丸横堀から灰や炭を含んだ層が2〜3層検出され、2回以上焼失していることが判明したそうです。つまり、文明6年富樫兄弟の戦いによる落城時と、天正8年佐久間盛政にによる一向一揆築城時の2回を物証が裏付けたということですね。
発掘調査恐るべし💦



ー・ー・ー〔いしかわ城郭カード〕ー・ー・ー

【虚空蔵山城】



《一向一揆の縄張りが残る山城》

所在地;石川県能美市和気町
名称(別名);こくぞうやまじょう(白米城、和気山城、舘城)
城地種類;山城
標高/比高;137.7m/100m
主な遺構;曲輪・切岸・土塁・石垣・横堀・井戸・虎口・櫓台
規模;360m×240m
主な城主;富樫幸千代、荒川市介、長山九郎兵衛
時期;室町・戦国
文化財区分;市指定史跡
地図;

二曲城@石川県白山市出合町 令和四年(2022)6月4日

2022-06-12 06:28:32 | 城歩き
お城検索は→こちら
いしかわ城郭カードは→こちら(準備中)

二曲城跡は、戦国時代に鳥越城跡と共に織田信長の攻勢に最後まで抵抗した、白山麓の一向一揆の拠点となった城跡である。二曲の地は、白山麓門徒(山内衆)の指導者であった鈴木(二曲)氏の本拠地で、本来この城跡は、山麓の通称「殿さま屋敷」に居住した、同氏の砦であった。城域は鳥越城跡から大日川の対岸に相対する標高260mの独立峰上に築かれており、山頂は平坦に削平されており、尾根上には腰曲輪と空堀の遺構が確認できる。
 天正8年(1580)11月二曲城は、鈴木一族が討たれたことによって鳥越城とともに落城するが、山内衆の抵抗はこれをもって終わらなかった。「信長公記」によれば、翌天正9年(1581)3月、加州一揆が蜂起して「府峠(ふとうげ)」に配置された柴田勝家の軍勢300人を討ち果たしたとある。しかし、翌天正10年(1582)3月、一向一揆衆は織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、生存者数百人の磔によって終息した。
 二曲城跡は鳥越城跡とともに加賀一向一揆最後の砦となった歴史の舞台としての意義を持つことから、保存が図られている。白山市教育委員会、、、現地説明板より

鳥越城の記事は→こちら


場所は石川県白山市出合町
北陸道「白山IC」下車、県道8号線を右折しJR北陸線のガードをくぐり、「乾東」交差点で国道8号線を横切って「鶴来・白山方面」へ直進すると道は国道157号線となる。
麦秋と白山



手取川沿いに進み「白山ろくテーマパーク」を過ぎると、「鳥越城」登り口が左手に見えます。その先「下吉野」交差点を右折し国道360号線に進みます。
サンカク山遠景



「手取川」「大日川」を渡り「白山市立鳥越・一向一揆歴史館」まで行きますと、


山に向かって登る道に「二曲城」の案内看板があります。


林道を少し登ると公園があり、その駐車場に車を停めます。


橋を渡った先に登城口があります。現地説明板や城址碑か建っていますのでわかります。



登城口から約5分で分岐がありますので、左手へ進みます。



城跡の全体図イラストです。この分岐を左(東)に進むと順次曲輪を巡って、(南方向)にある頂上の主郭から折り返しにて西の谷へ降り、北へ戻るとここに戻ってくるという回遊式になっていることがわかります。



ここで当日の行程を縄張り図で示します。
佐伯先生著、加賀中世城郭図面集より(ブログ管理者加筆)
※城跡の全体図イラストにあわせて天地を逆にしました。



分岐を左に曲がり尾根上を南に向かって進むと、まず先端部の「堀切」があります。



その先「三の郭」と続きます。



次の「堀切」の先は高い切岸



堀切は西の谷底に向け「竪堀」となっています。



竪堀の先、西の谷底へ降りてみると、土塁を設けて完全に谷を遮断しています。


築かれた土塁には二条の堀切が施され、縦の移動と横の移動の両方を制限しています。



この堀切の上段には「二の郭」があります。
虎口土塁



二の郭削平地
発掘調査の結果、掘立柱建物跡などの遺構が発見されています。
佐伯先生は、下段の谷を遮断する土塁を設けることによって、谷の下から攻め上ってくる敵を強制的にこの曲輪に誘む「内枡形虎口」と指摘しています。
シロートのミーハージジィには想像もできない見解です( ..)φメモメモ



二の郭奥にある上段への登り口



この先九十九折れの急な上り坂となり、縄張り図では段郭や主郭手前の「B」曲輪があるハズなんですが藪に包まれ全く分かりませんでした💦
なので
いきなり主郭です(-_-;)
主郭虎口


主郭削平地



主郭の発掘調査では、掘立柱建物跡や竈跡、敷石路跡などが検出されています。


現地説明板より



主郭南東角から谷へ降りる道があります。
グルっと回って元の分岐に至る谷ルートです。


倉跡の削平地


土塁



空堀



谷の沢沿いの道を下って行くと「二重堀切」の土塁に戻ります。
さらに、そのまま谷沿いの道を進むと、最初の分岐に合流するわけです。



二曲城の縄張りは、一向一揆が築城したものを柴田勝家が改修していると考えられているそうです。
自分にはビフォアー&アフターの区別が全く分かりませんが、この詰城を巡って一向衆と織田方軍勢が取ったり取り返したりを繰り返した、壮絶な戦いの場だったことに感慨ひとしおです。合掌



ー・ー・ー〔いしかわ城郭カード〕ー・ー・ー

【二曲城】



《山内二曲一族の詰めの城》

所在地;石川県白山市出合町
名称(別名);ふとげじょう(府峠城、不動下城)
城地種類;山城
標高/比高;268.1m/90m
主な遺構;曲輪・堀・土塁・虎口・土橋・建物跡・竈跡等
規模;190m×150m
主な城主;二曲右京進、鈴木出羽守
時期;戦国期
文化財区分;国指定史跡
地図;