民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「カジュアルに骨董を楽しむ暮らし」 平松 洋子

2016年07月13日 00時17分45秒 | 生活信条
 「カジュアルに骨董を楽しむ暮らし」 平松 洋子 主婦の友 2003年

 「朝を重ねて」 P-6

 東の空が明るく冴えると、透明な光の束が窓からたっぷりと差し込んでくる。今日といういちにちを輝かせる、朝の光である。
 毎朝おなじ営みの繰り返しに見えながら、そのじつ朝の空気は微妙に違う。若葉萌ゆる朝。黒土に雨滴る朝。蝉の声鳴り響く朝。初霜の降りる朝。ぼたん雪の朝。――どれもこれも、今日このたったいちにちだけの、初めての朝。

 しかし、私はふと立ち止まる。この暮らしのなかの古いものたちは、もしかしたらいつかどこかで、今朝とおなじような空気に親しく包まれたことがあるのかもしれない、と。
 古いものには、時間の流れが宿っている。
 歳月をくぐり抜けてきたものには、おだやかに混ざり合い、積み重ねられた時間がたゆとうているものだ。手で触れれば、その流れは肌を通してこちらのからだのなかへふうわりと溶け込み、不思議なあたたかさを伝える。

 けれども。新しいもの、古いもの。このふたつを、私はちっとも分けない。だって、新しいものにだって、いいもの、つまらないものがあるように、古いものにだって素敵なもの、おもしろくないものはいくらでもある。だから、無条件に「古いもの=価値がある」とも思わない。
 新しくても、古くても、それが魅力的でさえあれば、肩を抱くようにして身近に引き寄せ、むしょうに大事にしたくなる。
 私の暮らしにはそんな大切な古いものがたくさんあって、たった今このときの「現在」と混ざり合っている。(中略)

 今さらながらに気づく。古いものたちは、こうしてずうっと、ずうっと生き続けてきたのだな。ひとつひとつの朝を重ねてきたのだな。
 古いものがあちこちにあれば、不思議なことにあたりの空気が和らぐ。ぽん、と静かにそこにあるだけなのに、いつのまにか暮らしにふくらみをもたらしている。
 それは、古くて美しいものたちが与えてくれた贈りものかしらん。