わが若かりしとき井上ひさしの初期の頃の小説『青葉繁れる』を読んだ時は、内容の面白さ、ストリー展開のうまさ、文章の軽妙さなど、それまで読んでいた小説とは異なるものを感じた。それからエッセーをたびたび読んでは、自分の頭の固さをほぐしてくれるように思ったものだった。
これからまだまだ書く作家だと思い込んで期待をしていたら、逝去されたという報道に接し残念でならない。
小説はいくつか読んだが、わたしは氏エッセーが好きだ。「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく おもしろいことをまじめに」という氏の言葉は、わたしの座右の銘にして話も文章もそのようにと思っている。「むずかしいことをやさしく」はできるが「おもしろく」が、わたしにとってはなかなか難しい。
わたしは一度「ごあいさつ」程度の会話をしたことがある。かなり昔のことであるが、ある民間の保育の研究会の夏の集会で氏に講演を依頼した。引き受けてくれるはずがないと思いつつ、小松という人が直接電話で依頼したら、即座にOKしてくれたのだった。しかも講演料など一切無料で、ということだった。いささかびっくりして、しばらくしてから確かめたほどだった。
なぜ、しかも無料でOKしてくれたのか、と仲間で語り合ったものだった。
「『こまつ座』という劇団を作ったので、同姓の女性が依頼したからではないか」
「井上ひさし的ユーモアで」
「少しばかりの講演料よりは、無料でよいと考えたのでは、井上ひさし流のユーモアで」
「最近講演など表に出ない暮らしをしているそうだが、運がよかったんだよ」
300人余りの保育関係の研究集会に来てくれる、驚きと期待が膨らんだものだった。
さて、当日は出版社の編集者と思われる男性2人とともに、会場のホテルに予定の時間よりかなり早く来てくれた。わたしは立場上、控室にしている部屋へ「ごあいさつに」いって、恐縮しながら話をしたのだった。用件以外は話がふくらまないばかりか、何か沈痛な思いさえ感じ取ったのだった。そして同伴の男性2人がボディガードのような気遣いをしていた。
エッセーを読んで親しみを感じていたので、その落差にとまどったが、仕事の世界と生活スタイルあるいはコミュニケーションと同一視してしまっている自分が浅はかに感じたものだった。
講演はたんたんと進んで、終了したらすぐに同伴の人と帰った。そのときちょうど家庭のトラブルを抱えていたのだということが、まもなく報道で分かったのだった。
氏の脚本の舞台は「泣き虫なまいき石川啄木」を見た。NHKのテレビドラマ「国語元年」も記憶にある。テレビの大衆化が始まった頃の「ひょっこり ひょうたん島」が氏の脚本であることを知ったのは、氏のエッセーを意識的に読むようになってからだった。
「9条の会」の設立メンバーであり、大事な人を失った。しかし氏の著書にはいつでもアクセスできるし、これまでの脚本の「こまつ座」舞台も見られる。表現者として足跡を残しているので、氏の精神世界とは接触できるのだ。
氏が75歳というのは、国民学校入学、戦後のまもなくの黒塗りの教科書使用、戦後傷跡と貧しさ体験、そして新制中学と新制高校開始2年目(?)、現在の大学制度を経てきた世代である。また昭和が遠くなった思いである。
これからまだまだ書く作家だと思い込んで期待をしていたら、逝去されたという報道に接し残念でならない。
小説はいくつか読んだが、わたしは氏エッセーが好きだ。「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく おもしろいことをまじめに」という氏の言葉は、わたしの座右の銘にして話も文章もそのようにと思っている。「むずかしいことをやさしく」はできるが「おもしろく」が、わたしにとってはなかなか難しい。
わたしは一度「ごあいさつ」程度の会話をしたことがある。かなり昔のことであるが、ある民間の保育の研究会の夏の集会で氏に講演を依頼した。引き受けてくれるはずがないと思いつつ、小松という人が直接電話で依頼したら、即座にOKしてくれたのだった。しかも講演料など一切無料で、ということだった。いささかびっくりして、しばらくしてから確かめたほどだった。
なぜ、しかも無料でOKしてくれたのか、と仲間で語り合ったものだった。
「『こまつ座』という劇団を作ったので、同姓の女性が依頼したからではないか」
「井上ひさし的ユーモアで」
「少しばかりの講演料よりは、無料でよいと考えたのでは、井上ひさし流のユーモアで」
「最近講演など表に出ない暮らしをしているそうだが、運がよかったんだよ」
300人余りの保育関係の研究集会に来てくれる、驚きと期待が膨らんだものだった。
さて、当日は出版社の編集者と思われる男性2人とともに、会場のホテルに予定の時間よりかなり早く来てくれた。わたしは立場上、控室にしている部屋へ「ごあいさつに」いって、恐縮しながら話をしたのだった。用件以外は話がふくらまないばかりか、何か沈痛な思いさえ感じ取ったのだった。そして同伴の男性2人がボディガードのような気遣いをしていた。
エッセーを読んで親しみを感じていたので、その落差にとまどったが、仕事の世界と生活スタイルあるいはコミュニケーションと同一視してしまっている自分が浅はかに感じたものだった。
講演はたんたんと進んで、終了したらすぐに同伴の人と帰った。そのときちょうど家庭のトラブルを抱えていたのだということが、まもなく報道で分かったのだった。
氏の脚本の舞台は「泣き虫なまいき石川啄木」を見た。NHKのテレビドラマ「国語元年」も記憶にある。テレビの大衆化が始まった頃の「ひょっこり ひょうたん島」が氏の脚本であることを知ったのは、氏のエッセーを意識的に読むようになってからだった。
「9条の会」の設立メンバーであり、大事な人を失った。しかし氏の著書にはいつでもアクセスできるし、これまでの脚本の「こまつ座」舞台も見られる。表現者として足跡を残しているので、氏の精神世界とは接触できるのだ。
氏が75歳というのは、国民学校入学、戦後のまもなくの黒塗りの教科書使用、戦後傷跡と貧しさ体験、そして新制中学と新制高校開始2年目(?)、現在の大学制度を経てきた世代である。また昭和が遠くなった思いである。