独裁者プーチン (文春新書 861) | |
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なぜ指定弁護士は控訴したのか? 論理を無視してまで控訴を強行した理由
見出しのように、ある人間が、非論理的行動とか、非合理的行動とか、不条理な行動を選択する場合、その殆どの行動の背景に、心理的何らかの力が加わったと疑うべきである。此処で云う心理的とは、自発的怒り、屈辱感、虚栄心、情緒的正義感等々があるだろう。また、他者から受ける本人や家族への強迫など物理的恐怖と云う場合もある。時には、彼等がやましい問題を抱えており、そこに向かう強迫もあり得るわけだ。まったく逆に、控訴するなと云う強圧的コンタクトに反発を感じ、抵抗の姿勢を現した場合もあるだろう。
上記のような原因のいずれかで起きた問題を、法律論を展開して、分析理解反論すると云うことは、土俵が違っている可能性が高いので、実は畑違いの論争に陥る危険がある。小沢一郎にまつわる、西松建設事件以降の一連の流れを追いかけて行くと、この問題は捜査機関や司法の問題でありながら、実はまったく異なるプレーヤーが対小沢一郎と云う形で、入れ替わり立ち替わり登場しているのだと思う。つまり、小沢一郎を宜しからぬと思う人種は、内外に数え切らない程存在すると云うことになる。
昨日の拙コラム「束になって小沢と対峙する構図 顔ぶれは裏切民主・野党・マスコミ・経団連…」でも述べたように、小沢一郎の敵は内外含め、全方位な構造で存在すると認識すべきだろう。そのように全方位で好まれていない人物をリーダーに据えて良いのだろうか、と云う疑問もあるだろう。しかし、何故小沢が全方位で嫌われるかは、彼がやろうとしているアンシャン・レジームは、或る意味で秩序の解体(小沢は部分的解体を主張しているが、壊される側から見ると全破壊に見える)と再構築を目指しているのだから、現在の日本であれ、日米関係であれ、支配層に属する人々にとって都合が良い筈はないのだ。
また、多くの国民にとっても、たいして悪影響を受けるとも思えない階層の人々も、自分の生活環境が変わるのではないか?と云う不安を抱くものなのだ。彼らこそ、小沢一郎の改革方向により、利益を得られそうなのに、プロパガンダと無知により、それに反対する態度を無意識に選択する事になるのは、面白い現象だ。
小沢の政治家としての来歴において、彼が行ったことすべてが当初から、理にかない、整然と語れるものではないのだと思う。彼が現時点で主張する政治理念が、政治家小沢一郎の誕生から、理路整然と出来あがっていたと云うのは間違いで、多くの紆余曲折を経過して辿りついた結論なのだと思う。権力の中枢にいながら生き抜いた政治家としての歴史の中には、曰く言い難い問題も相当あったと考えるのが妥当な考えだ。その歴史の中で、顔に泥を塗り、塗られた出来事は枚挙にいとまがない、と思っておいても差し支えはない。
小沢信者的な人々は、このような表現をすると気が狂わんばかりになる人もいるが、それはそれで良いだろうが、筆者の思考経路には馴染まない。以上のような小沢一郎である限り、彼の政治行動の後先にも敵は存在するし、現在の国内外の官僚統治システムの中で、上手に泳いでいる人々の中にも敵が居ると云う事である。極論だが、絶対的小沢支持が20%だとすると、残り80%の人々の30%くらいは反小沢だろう。つまり、20数%の日本国民は、積極的に小沢に反感を持っていると考えても良い。
その反感が誤解に満ちたものでも、その誤解を解くことは不可能で、あまり考えない方が賢明だ。支持するニアンスが異なっていても、国民全体の2割が一定の政治家に集中している現実は、実は民主主義と相矛盾する部分を包含する。しかし、現在のように政党が明確な方向性なくして迷走している以上、特定の政治家を支持する選択も、皮肉だが合理的である。本来であれば、一人の政治家を支持する勢力が有権者の2割に至るような現象は、独裁に繋がる危険すらあるのだが、現実の政党・民主党や自民党を観察する限り、支持しても真逆の政策をする以上、2割の国民の選択は合理的と言わざるを得ない。
ただ、国民の2割の支持を得ている政治家の影響力は非常に強い。政党支持率が2割の時代に、ひとりで2割の票を抱えていると云う事は、小沢が永田町に存在することだけで、常に「姿なき政党」が存在すると云うことになる。野田が念仏のように「消費増税」と叫んでみても、谷垣や伸晃が“小沢切り”と叫んでみても、彼等が束になっても2割の政治勢力を作り得ない事実が横たわっている。話し合い解散も出来ない、不信任案も出せない、謂わば八方塞がりなわけで、4カ月後を迎えることになるのだろう。
さて、漸く見出しの話になるのだが(笑)、指定弁護士、彼らの法的解釈云々は考えても意味がない事は自明で、何らかの現実的法理論とは別の土俵で、控訴と云う選択をしたと考えることが妥当だ。故に、指定弁護士の控訴に至った問題を法理論で分析する事も無意味だし、法的手続きが無効だと言っても、現実控訴が可能である以上、とやかく言っても意味はない。ただ、ハッキリ言える点は、彼らが法理論によらない“何ものか”によって控訴したと云う事実だけで充分だ。
小沢一郎を刑事被告人の立場に据え置くことが、彼らの仕事であり、特に有罪を勝ち取ることが目的とされていない点にも注意を要する。日本の裁判が三審制である以上、そこまで行くと云うことだ。控訴の目的は、小沢が被告人の席に座っている事実であり、それ以上でも以下でもない。その事で、利益を得る人間は誰か?この推理で犯人捜しをすると、限りなく多くの人間が怪しい奴になる(笑)。故に、小沢一郎に関わる犯人探しは、無限のフィールドを探ることになり、脱力感さえ漂う。もしかすると、単なる愉快犯のような御仁の“暇つぶし”による、弁護士らへの強迫行為であったかもしれない。
“単なる愉快犯のような御仁”とさり気なく言ったが、多分結構危険な臭いのする闇の勢力のお先棒男かもしれない。最高裁にしても、最高検にしても、穿られれば拙いことだらけなのに起こされた控訴の結論だっただけに、最も有力なのが、この線。彼らは、合法的に人を陥れる等と云うまどろっこしい手段を取らない。暴力を臭わす脅迫を常用するような輩が指定弁護士を脅したと考えるのが、最も理屈が通っている。政治勢力の介在も、仙谷や江田五月は睨まれ監視されているので、そこまでする勇気はないだろう。米国CIAなら、カーティスの発言にみられるように、やらないとは言えないだろう。いずれにせよ、国内か海外の暴力的手段を辞さない勢力の脅しに屈したのだろう。
おそらく指定弁護士達には家族もいるだろうし、家族に危害を加えると脅されれば、心は揺れ動くし、何らかの弱味を持っていれば、その事を臭わすだけでも、選択に影響する。そのような考え方で、彼らの行動を読まないと、理屈が成り立たないので、筆者は弁護士らは強迫に屈したのだと結論づけている。何とかかんとか“控訴趣意書”は書けるだろうが、多分中身はないだろう。合法的には、その後時間稼ぎは出来るわけで、強迫者の要望には応えたことになる。案外、そうする事で報酬も提示されている可能性もあるだろう。吹けば飛ぶような一弁護士達の選択だが、敗訴しても、彼らが重大な過ちを犯したと法的に断罪される事はない。案外、他人を訴えるとか、控訴すると云うこと、安易に行われる気がする。蛇足だが、読売ナベツネが、たった5人の出版社(七つ森書館)に対して訴訟を起こし(清武内紛が起きる前に出版契約を読売と結んでいる)、営業活動を妨げる行為も合法と云うのだから、なんだか考えさせられる法治だ。最近の読売ナベツネは“濫訴”と云う勲章も手に入れたようだ。
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