アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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これでは「見守り隊」ならぬ只の「市民監視隊」だ

2009年02月04日 00時25分08秒 | 監視カメラよりも自由な社会に
 この前、元祖・猫カフェの喫茶店に立ち寄った時の事です。其処のお店のママが、地元で活動している「見守り隊」の所業について、大変怒っていました。
 「見守り隊」と言うのは、他にも「住民パトロール隊」とかの通称で呼ばれている、PTAや町内会などの地域住民有志で作られている防犯パトロール隊の事です。最近、スーパーの駐輪場などで、「見守り隊」などと書かれたステッカーを前カゴなどに張ってある自転車が止められているのを、時々目にする事が多くなりましたが、それがその「見守り隊」です。
 午前中に通学路に立って交通誘導をしたり、放課後は子どもに声をかける不審者がいないかどうか見回っている、そういう人たちの事です。警察庁のHPには、「自主防犯ボランティア」として、全国各地の事例が掲載されています。

 以上の知識はあるものの、「見守り隊」の実際の活動については、私もそれ以上の事は分からず、ただ漠然と「緑のおばさん」に近いイメージを持っていたのですが、猫カフェのママさんの話を聞くと、さに在らず。実際は、そんな牧歌的なものではない様です。
 くだんの喫茶店の前の道は、店の前が丁度交差点になっており、信号と横断歩道があります。其処は通学路にもなっており、毎朝「見守り隊」の人がお立ちになるのですが、ママが言うには、その態度が余りにも横柄なのです。

 曰く、交差点の角の縁すれすれに立って、我が物顔に其処を占拠し、通行人が通ろうとしても、決して自分からは避けない、との事。交通量もそこそこはある道なので、通行の邪魔になるからと、店の朝のモーニング・セットを食べに来た客が、見るに見かねて注意すると、逆に睨みつけられたり、とか。
 その所為で、客は険悪な表情で店に入ってくるわで、商売も上ったりで、「これでは営業妨害だわ」と、ママは相当お冠な口ぶりでした。
 実際、それで喫茶店の客とトラブルになり、近くの交番に通報された事もあるそうです。それで通報された警官こそ、いい迷惑です。一応駆けつけては来たものの、民事不介入の建前もあるので、「見守り隊」をなだめすかすのに苦労していたのだとか。

 私、その話を聞いて、「まるで警察官気取りで、戦前のオイコラ警官と全く同じ目線で活動している」「見守り隊と、名称こそソフトなものの、実際にやっている事はまるで市民監視そのものじゃないか」と思いました。
 そもそも、見守りや見回り、地域巡視は、一体何の為にするのでしょうか。「地域で困っている人は無いかどうかをこの目で見て、困っている人が在ればみんなで助ける」と言うのが、これらの活動の本来の姿ではないのでしょうか。それが相互扶助というものの、本来の在り方ではないでしょうか。そうすればこそ、独居老人の孤独死や生活困窮者の餓死といった事も無くなるでしょうし、オレオレ詐欺や訪問販売を装った悪徳セールスマンも撃退出来て、犯罪の抑止にも繋がろうというものを。

 ところが、話を聞いていると、そういう「民生委員」的な活動ではなく、逆に独居老人や生活困窮者を、取締り対象として囲い込んでいく様な、「自警団」的な活動に、ひたすらのめり込んでいっている様な気がしてなりません。そんな「不審者狩り」の行き着く先は、自分以外は誰も信じられず、互いに「隣の人は何する人ぞ」と疑心暗鬼ばかりが先走る、ギスギスした世の中ではないでしょうか。そこまで行くともう、もはや「地域社会」でも「市民社会」でもない、ただの「監視社会」でしかありません。

 しかも、そんな「自警団」活動に現を抜かしている町内会の実態たるや、古くからの保守系の有力者連中が、他に対抗馬が出てこないのをいい事に、選挙の洗礼も受けずにずっと世話役に居座ったまま、三桁を超える世帯から集めた年間3600円の町内会費を、自分たち取り巻きだけが参加する慰安旅行などの遊興費に費やしているだけだというのですから、開いた口が塞がりません。
 これでは、飲み食いに明け暮れている自分をさて置いて、「たらたら食って飲んでいる奴に何で俺の税金が使われなければならないのか」と言い放った、どこかの国のアホー首相と、全く同じではないですか。
 そんな金があるのなら、相互扶助の精神に則った「言葉通りの、本来の見守り隊」活動に、もっと注力すべきではないでしょうか。自分たちと言えども、いつ生活困窮に陥るかも知れないのですから。

 以下、数年前の新聞記事ですが、山陰中央新報というローカル紙から引用します。

>米国の郊外に多い「ゲーティッド・コミュニティー」と呼ばれる高級住宅街は、あらゆる「敵」を排除した究極の小社会だろう。そこでは、不審者の侵入を防ぐため外周を柵や塀で囲い込み、出入りの門には警備会社の警備員が不審者をチェックする。許可無き「よそ者」の入れない犯罪の無菌室のような街。だが、これが私たちの求める「安心なまち」なのだろうか。
>私たちは空気中に病原菌があるからとて呼吸をせずにはいられない。犯罪予防や捜査のために市民のプライバシーや通信の秘密の権利を犠牲にすることは、空気中から病原菌と一緒に酸素を取り除くようなものだ。犯罪の無菌室作りよりも、まずは病原菌への免疫力を高める方策を考えたい。犯罪増加の背景にある格差社会の是正は、この免疫力を高めることにつながる。
>この文脈では、暮らしの「安心」すなわち「健康で文化的な最低限度の生活」を保障した憲法二五条の描く「安心」こそが重視されるだろう。しかし現在の政治は、治安強化だけで「安心」を求める一方、社会保障費等の削減により実は「安心」を切り崩しているのである。('06/01/31付 「憲法から見た安全・安心(下) 監視社会より格差是正を」)
 http://albatross.soc.shimane-u.ac.jp/src/news/scs44.htm

 上記記事の趣旨が本当に活かせていたら、昨年の秋葉原無差別殺傷事件も、昨年末からの「派遣切り」被解雇者大量流出も、起きる可能性は大幅に減少していた事でしょう。たかが一ローカル紙のコラム記事ではありますが、犯罪容疑者本人やその家族へのバッシングばかりに終始し、犯罪の社会的背景については一切見ようとしない、右翼御用新聞・産経のイエローペーパー記事よりも、こちらの方がよっぽど読み応えがあります。
コメント (2)
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