今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

「ラブ・レターズ」中川晃教×神田沙也加 (追記あり)

2010年12月11日 11時24分43秒 | リーディングドラマ(朗読劇)

この感想を書くのは危険です(笑)
余計なことばかり書いてしまいそうで。

たとえば、昔に私が書いたかもしれないラブ・レターのこととか……
貰ったかもしれないラブ・レターのことー…とか?
だけど、というか、だから私自身のあれやこれやはともかくとして(笑)

こんなふうに二人で交互に読まれてみると、手紙というものは、向き合っているようで実はピタリと向き合ってなどはいないのだ、ということがよくわかります。
時間と空間を隔て、その向こう側に見る相手とは、メリッサのいうように現実のその人ではなく、手紙の中に生きている「もうひとりの相手」、それもこちら側の勝手なイメージを重ねて作り出した、幻に近い「もうひとりの魂」の姿なのかもしれません。
けれども、その「もうひとりの相手」へ手紙を書いている自分もまた、現実のほんとうの自分ではなかったり、逆に、現実には出せない「ほんとうの自分」であるのかもしれません。

だから現実と「手紙の中の世界」との違いに違和感を感じたメリッサが「電話をして」「会いたい」と言うのに、アンディーはひたすら「手紙を書くこと」「貰うこと」に固執して、いつまでもその世界において彼女の手を離そうとしません。
生の声や生身の姿を求めたメリッサのほうが、よりしっかりと人を認識して実感しようとしていたい人だったのではないか…

ああ、そうか…彼こそが……。

これは舞台を観ながらではなくて、今思ったのですが…
長い年月のほとんどをメリッサと離れて暮らしていたアンディーが、社会的な地位や理想的な家庭を脅かすと知りながらも、メリッサと会い関係を結んでしまったのは……もしかしたら、アンディーこそが、彼こそが、彼女の手紙…現実の彼女自身ではなく…彼女の「手紙」が欲しくて、または彼女に手紙を書き続けたくて、そのためにメリッサを繋ぎとめるための手段として関係を結んだのかもしれません。
もちろん、無意識に。

だとしたら、そういう視点で捉えるのだとしたら、それはどうなのでしょう。
手紙はたしかに口では言えないような深いことを書くことも、本音を出すこともできるかもしれないけれど、それはほんとうにコミュニケーションと言えるのでしょうか?

メリッサという女性は複雑な家庭に育ったせいもあるのでしょうが、よく言えばグラス・ハートな芸術家タイプの、かなりエキセントリックな性格で、若いうちからずっと精神的に病んでいたりします。
こういった女性は魅力的かもしれませんが、穏やかで暖かな家庭を作るのには向いていないのかもしれません。
アンディーは、たぶんメリッサとは正反対な性格の妻…つまり自分と同じような種類の奥さんが守る、理想的とも言える家庭を持ちながら、その一方で決してメリッサとの関係を完全には切らしません。
メリッサが怒ればなだめます。
奥さんに隠れてでも手紙を続けようとします。
アンディーの保身とそのズルさは見ていると時々本当にムカつきます。

愛し合っていたのは、現実の二人ではなくて、ずっと「手紙の世界」の二人であり、アンディーはその世界に生き続けた、いわば二重生活をしていた人です。
それに付き合わされたメリッサは、それに耐えられずに一層と繊細な心が病んでしまったのかもしれません。

…などと、今思えば、そういう視点で見ることもできなくもない(笑)

それなのに……

実際に一番強く伝わってきたのは、アンディーがどんなにかメリッサを必要として愛していたか。
その想いでした。

私はこの朗読が続いている間にはなんとか堪えていたのに、舞台が暗くなってからは涙が止まらなくてどうしようもありませんでした。
もし、そのあとすぐにトークショーがなければ、ずっとずっとそのまま一人で泣かせておいて欲しかったです。

おりしもこの12月10日という日は、私が初めて中川晃教さんの舞台を生で見た日で、ちょうど六年になりました。
六年目にこんなアッキーを見せてもらえるとは思いませんでした。
私は二年前のこの舞台のときは仕事が忙しくて都合がつかず、「ラブ・レターズ」は今回初めてみました。
あの時はとても残念に思いましたが、もしかしたらそれは必ずしも残念ではなかったのかもしれません。
二年前にこの舞台を観ていたらどうだったのか…。

「すべてのわざには時がある」
もし、ほんとうに私の傍らにもミューズの女神様がいるのだとしたら……彼女は今回の舞台で私に何を見せようとしてくれたのでしょうか…。
本当に、本当に、いつまでもいろいろと考えずにはいられない舞台でした。


ところで、そのトークショーですが、神田沙也加さんは可愛らしい人ですけど、なかなか男前な女性ですね~!
実は去年、私は彼女の出た「AKURO」という舞台でダダ泣きさせてもらったのですが、この「ラブ・レターズ」でますます気に入りました。
レ・ミゼのコゼットがとても楽しみです!

(追記)
トークショーではアッキーがこの役を演じながら感じたことを、いつものように拙いながら(って、私が言うな!)一生懸命に説明してくれました。

アンディーを演じながらその奥に中川晃教という自分がいて、その自分自身の感情がアンディーに呼応したかのようにぐっと重なろうとしている。その自分をまた別の自分がいてぐいっ!と引き止めて抑えようとしていたりする……なんて、そんなふうには言ってませんが(笑)
たぶん、だいたいはそんな事を言っていたように私は思いました。

そういえば、先日ある女優さんとお話ししていたときに、私が彼女に「自分に全くない感情を演じることができるのか」と質問したところ、彼女はこう言いました。
「できない。無からは何も生まれてこない」
たとえ自分の中にやっと見つけたほんの僅かな感情を引き出すのだとしても、「役というのはつまりデフォルメなのだから」、ということです。
これはその女優さんの話なので、だからみんながそうだとは言えないのかもしれませんが、演劇以外の芸術も、自分の世界を実生活以外の行いとして何らかの形で表現することはある意味デフォルメの世界なのかもしれないと私は思いました。
けれども、その世界を冷静に見るまた別の視点というものがなければ、全くの他人にそれを伝えるには至らないのではないか。

中川晃教さんという人は、役者さんとしてはよく「憑依型」と言われるようですし、私もそう思いますが、憑依されながら決して中川晃教さん自身を消さずにむしろ彼自身を表現し、その上でなおかつ別の「もうひとり」が冷静に検証し、歯止めをかけたり逆に煽ったりしているような…、そんな、もしかしたら、生まれながらの役者さんなのではないかと思いました。
その多重の精神構造に少なからず共感を持つ私は、この舞台をやはり観る側としてもいくつかの視点で観ることができ、多重な感想を持ち、この舞台を、そして受け取り手としてのこの自分もまた興味深く感じることができたように思います。



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