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紙芝居「福島邦成と橘橋」

2011年02月27日 06時36分13秒 | 8月4日は「橋の日」記念日!

「橋」のマニアですか?と言われることがある。マニアでは無いけれど・・・。
というのも、所属する「橋の日」実行委員会で、橋をテーマに活動していることもあり、少しはくわしくはなってきたからかも知れない。

宮崎「橋の日」実行委員会では、橋を通してまちづくりに貢献することが目的のひとつだ。これまで、全国向けに「橋の日」の制定運動やイベント、啓発活動等にたずさわってきた。
宮崎市のシンボル的な橋といえば「橘橋」。この橘橋をテーマにある人物を紹介したい。それは「福島邦成」だ。初代橘橋を私費で架けた人物だ。

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(紙芝居の表紙)

以前から宮崎の偉人として紹介されてきたが、この度知人に絵を描いてもらい、文章をつくり紙芝居にまとめた。
多くの子ども達、もちろん大人にも知ってもらいたいと考えている。

宮崎市内を悠々と流れる大淀川。 この川は、宮崎県の「母なる川」として、昔から住民に親しまれています。
この大淀川に架かる最初の橘橋は、明治13年4月に架けられました。 この時、大変な苦労と多額の私財を投げうって橘橋をつくった医師福島邦成を紹介していきましょう。

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(渡し舟と大淀川)
「大淀川の渡し舟は便利だけど、大雨や台風のときは使えない。 いつでも、すぐ病気の人のところへかけつけ、助ける方法はないのかなぁ・・・。」病院の先生だったお父さんに連れられて、大淀川を船で渡るこどもは、いつもそう思っていました。 この少年こそが、福島邦成という人で、後に大淀川に初めて「橘橋」をかけた人です。

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(江戸で学ぶ)
「ただいま~。」「お帰りなさい。」 大田村のお医者の子に生まれた邦成少年。いつも元気いっぱいに遊んでいます。おじいちゃんの口癖は、「邦成!、日本のすぐれた先生のところで学んで、故郷の人の役に立ちなさい。」でした。邦成少年も、この言葉を胸に一生懸命勉強して立派な人になりたいと思うようになりました。 そして、早くから江戸や京都、大阪で勉強をし、西洋の進んだ文明を学びました。

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(医師なった邦成少年)
大人になった邦成は、現在の延岡市、内藤藩の医師として務めました。 時は流れ、武士の時代から民衆の時代になった明治元年。邦成は、50歳になっていました。 しかし、邦成の中には、故郷への熱い想いが宿っていたのです。 新しいことを求めて日本国内を旅し、優れた人との交流もたくさんしました。また1869年(明治2年)世界一周を志し、海外へとでかけました。しかし、シンガポールで事故にあい、宮崎へと帰って来た時のことです

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(故郷に帰って)
「あれ~橋がまだ架かっていない・・・。」 当時、人々は大淀川を船で渡っており、台風や雨などの水量の多い日は、宮崎のまちは南北に交通は 断たれてしまうのです。東京や大阪では、大きな川に立派な橋がたくさん架かっていて、自由に町を 行き来することがでるのです。邦成は、あまりの差にびっくりしました。 そこで、邦成は、自らの力で橋を架けることを決心しました。さっそく県知事に橋工事の建設許可願を 出しましたが、許可がおりません。 このおおきな事業を個人の力で架けようという事に対して、県から信じてもらえなかったのでしょう。

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(故郷を想い行動する)
邦成は、このままでは宮崎が更に遅れてしまうと心を痛めていました。 そこで、医師として地域の若者達を立派な医者として育てる学校を運営しながら、1878年(明治11年)、120トンの蒸気船「日向丸」を購入し、宮崎の発展のために、人やモノを運んだのです。 その後、美々津、広瀬、赤江、内海の4港を結ぶ航路を宮崎で初めて開きました。 邦成のそんな故郷を思う行動やねばり強い訴えが認められ、3年後の明治13年3月10日、いよいよ橋の建設許可が降りました。この時、邦成、60歳を過ぎていました。

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(橋の工事)
しかし、建設のためには、川幅約350メートルをつなぐ橋であるため高度な技術と多額のお金がかかりました。 実際、川底を掘ってみると固い岩や泥などに阻まれ工事が遅れてしまいました。また、ある時は、速い川の流れに大事な木材が流される等の困難が伴いました。 現在のお金にして5千万円の費用と建設に携わった人が延2,600人、鍛冶屋のつくった釘16,000本といわれています。

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(初代橘橋完成)
明治13年4月、ついに子どもの頃からの夢を叶えました。橋が完成したのです。 邦成はこの橋を、地名などから「橘橋」と名づけました。長さ約350メートル、幅3.9メートル、高さ3.2メートルの橋です。 また、完成後、邦成は、大水の度に、橘橋を見にでかけ、水量を測定、安全を守れない時は、橋を通行禁止にするなど、常に、人々が橘橋を安心して渡れるよう絶えず気を配っていたのです。

ところが、4ヶ月後、洪水のため橋が流されてしまいました。 しかし、橘橋の必要性を強く感じている邦成は、その直後の10月に再び次の橋を架け、人々が利用できるようにしました。 橋をかけてから4年後の明治17年。橘橋と橋に使う木材を県に寄付しました。 それらの木材などをもとに、2代目橘橋が県により架けられました。 橘橋は、架けられてから4年間で、延44万人が利用したといわれています。

今、大淀川にかかっている橋は、6代目。 これからもみんなの暮らしを支えるこの橘橋は、ふるさとを愛する人、福島邦成の熱い気持ちから生まれたものです。


更にくわしく>>>宮崎県「ひむか学」福島邦成

余録だが、福島邦成の自宅は江戸時代につくられた家。以前、訪問させていただいた時、お宝を発見。
それは福沢諭吉が書いたモノ。テレビ番組「なんでも鑑定団」に出品されていただいたことがある。そのお話も次の機会に・・。